聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ十六1-13「あなたがたに、まことの富を」

2014-04-26 20:50:53 | ルカ
2014/04/27 ルカ十六1-13「あなたがたに、まことの富を」

 ルカの福音書に聞き続けます。前回十五章が、「放蕩息子」という、分かりやすく、心を打たれる例え話でした。この十六章は一転して、イエス様の例え話の中でも最も評判の悪いものではないか、と思います。どうしてイエス様は、こんな狡(ずる)をした管理人の話などされるのでしょうか。どうして、こんな不正な管理人が褒められるのでしょうか。私たちも、仕事を胡麻化して自分の保身を計った方がいい、ということなんでしょうか。
 まず、イエス様の例え話には、こういう思い切ったものもあるんだ、と知ることが手がかりだと思います。十八章の「不正な裁判官の譬え」も一例ですし、他の譬えだって、イエス様は結構極端な例を出されています。事細かに意味が秘められているような譬えもありますが、要点を浮き彫りにするために、あえて思い切った設定や展開をお話しになることもイエス様の話法なのですね。ですから、ここでも、主人の財産を使い込んでいる管理人が出て来ます。その彼が、首を切られた再就職先にと、債務者の証文を書き換えさせる、なんて大胆なことをしでかします。そして、
 5…『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、
 6その人は、『油百バテ』と言った。…」
 油百バテってどれくらいですか。欄外に「一バテは三七リットル」とありますから、百バテとなると三トン以上です。次の7節の、
「小麦百コル」
は、更に十倍で、重さは二十トンぐらいになるんでしょう 。そんなべらぼうな借用書を出して見せて、それぞれに「はい、五十に書き換えなさい。はい、八十と書き換えちゃいなさい」と運んでいる辺り、実用的というよりも滑稽な、あり得ない話なのですね。ちょろまかす、なんてものではない、オーバーな話なのです。そして、
 8この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
 むしろ、「賢いやり方で」という意味ですが 、この管理人が不正でもいいとか、同じようにしていい、というような話ではもともとないわけです 。ただ、この大袈裟なお話しによって、イエス様が仰りたいのはこれです。私たちは、「光の子ら」として、もっと賢く生きなければならない。その抜け目なさに学んで、この世の富よりも遙かに尊い、神の国を待ち望んで、忠実に働きなさい、ということなのです。
 9そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
 この場合の「不正の富」とは、文字通りの、汚れた富、不法な手段で得たお金、という意味ではなくて、「この世」とか「小さい事」と並んでいる通り、現在の世界の事ですね 。その社会において私たちが使える富・チャンスというものがあります。でもそれは、9節で言うように、いつか必ず、なくなる時が来ます。ですから、その時のために、この世の富を用いてでも準備をしておく方が賢明です。
10小さい事に忠実な人は、大きい事に忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12また、あなたがたがた他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
 「小さい事に忠実なら大きい事にも忠実」は一般論としてもそうですけど、イエス様は、今の世界に忠実である事が、永遠の将来への忠実さと見做される、と仰っているのです。この世のことは小さな事、本当に私たちのものとは言えない「他人のもの」だけれど、これを忠実に使うかどうか、が「永遠の住まい」の「大きい事」、「まことの富」として私たちが任せていただけるものへの忠実さに直結するのです。ただ、その忠実さとは、「光の子ら」としての忠実さです。永遠の住まいに迎え入れてもらえる「友」を作るような忠実さです。つまり、結論となる13節でこう言われる通りです。
13しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
 つまり、神に仕えているつもりでいながら、富にも仕えている。自分としては、富を楽しみ、お金を使って、大いに活用しているつもりでいながら、結局、富に使われ、富に仕えて、振り回されている生き方を、イエス様は読者に警告しておられます。9節では、この世の富を抜け目なく用いている人に見習って、あなたがたも抜け目なくなれ、と言われていました。でもそれは、金銭に無頓着でいるな、富を無駄遣いしない賢い者となれ、という意味ではなかったのです。賢くなれ、抜け目なくなれ。汚職して罷免される管理人さえ例に出されてイエス様が警告されたのは、私たちが純朴すぎるから、愚かなほど無欲だから、ではありませんでした。まだまだこの世の金銭・富を神と並べて崇めている。永遠に続くかのように、私たちを幸せにする、まことの富であるかのように考えているから、なのです。この世のことに淡泊で、無欲に生きているつもりでいながら、結局は、この世の価値観に染まっていることに気付かず、富を信じている。神に仕えているつもりが、結局、金銭を崇めている、というところが私たちにもあるんじゃないでしょうか。
 前の十五章の「放蕩息子」とはずいぶん違う話のように思えます。でも、十五章から十六章への繋がりは実にスムーズで、断絶してはいません。そして、1節で「主人の財産を乱費している」とあったのは、十五13で、放蕩息子が「放蕩して」とあったのと同じ言葉なのです 。そういう事を考えても、これは別々ではなくて、一貫したメッセージがあると見えるのです。私たちは神に仕えている、真の神を知っている、取税人や罪人、この世界の不正とは違う、と言いながら、でもまだ富に使われている。お金があれば強くて偉くなったような気がするとか、お金がないから幸せになれないとか、ないでしょうか。放蕩息子は最初、お金で幸せになれると思って、財産をねだり、それをもって遠くに飛び出していきました 。でも、放蕩して何もかも使い果たした末、友達はみんな去ってしまって、卑しいとされた豚飼いにまで身を落としました。ひもじさで死にそうになった末に、「我に返って」 、父のもとに帰ろうと考えました。それは、本当の悔い改めとは程遠かったものの、父のもとに帰るなら、飢え死にしないで済むという現実に気付いたのです。同じように、不正な管理人も、乱費(放蕩)した末に首を切られると分かった時、
 4「ああ、わかった、こうしよう。」
と気付いて、乱費をやめて、立場を有効に用いました。放蕩では幸せにはなれません。いいえ、神よりも富に頼り、人生や将来をお金で買おうとしているなら、どんなにうまくいっているようでも、「乱費(放蕩)」に過ぎません。テレビや宣伝に振り回されて、通販だの安売りだのに心が奪われている限り、神に仕えず、失われている生き方なのです。放蕩息子の兄も、父のもとにいても、結局は、「自分には子ヤギもくれなかった、弟は身代を食い潰したのに、あんな弟のために肥えた子牛を屠るなんて」と、やっぱり算盤勘定をしていました。父に仕えていたはずなのに、本当に父親のもとにいる幸せを見失っており、父と一緒に喜ぶ宴会に入れませんでした。これを聞いていたパリサイ人たちもでした。
14…金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
 怒ったり笑ったりして抵抗したいくらい、人にとって富の魅力は強く、抜き取りがたいのです。だからイエス様は語ってくださっているのです。富を神にしていないか。神が手段で財産が目的にはなっていないか。富は使うものであって、愛するには値しない。真の神だけを愛し、この方に仕えなさい。そのために今お預かりしたものを忠実に生かし、そうして永遠への準備をする生き方をしようと、主は私たちを招いてくださっているのです。
 天の父は、私たちを永遠の住まいに迎えてくださいます。私たちのささやかな忠実さえチャンと見ておられます。いつか死んで、すべてのものを手放さなければならなくなっても、実はそれはどれも「他人のもの、正義ならざる富」に過ぎなくて、その先にこそ、天の父が「まことの富」「あなたがたのもの」を用意しておられます。神様の恵みの豊かさ、祝福の計り知れなさにこそ目覚めて、この方が、この方だけが、私たちを幸いにして下さるのだと心得たい。富にフラフラし、どこかでがめつくなってしまうなら、富を神とする偶像崇拝をしているのだと気付かされたいと思います。そして、その失われた生き方の愚かさに気付いて、我に返るために、イエス様は今もあらゆる方法で語り続けておられます。ご自身を十字架に与えて果たされた贖いは、そのようにしても私たちに届けられるのです。

「この世にある限りお金やモノと無縁では生きられません。だからこそ、富の奴隷や幻想から解放されつつ、主からの預かり物、賜物として賢く活かすことを教えてください。今ここで主のために、忠実に働く者とならせてください。生活の隅々まで新しくしてくださる贖いの御業を感謝します。永遠の真の富を望み、喜んで仕える者とならせてください」



文末脚注

1. 小麦の重量を、比重0.55で計算してみた場合。ただし、これは「小麦粉・強力粉」の比重を参考にしたものです。
2. 8節で「抜けめがない」(形容詞)「抜けめなく」(副詞)と訳されている語は、同語根の単語ですが、これは、十二42で「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう」とあった「賢い」と同じ言葉です。
3. ただし、この管理人のした事自体、合法的であった、との見方が優勢です。「しかしデレットによると、ユダヤ教世界においては同胞に対して利息をとることは禁じられていた(中略)が、しかし金銭や食物などによる商行為において、取引きの場合には利息を含めて貸借をする習慣があった。(中略)相互に利益になる交易は禁じられてはいない、というわけである。(中略)たとえば取引証書には百石の麦を貸すとした場合、その全量の返却を当然要求されるが、その中の二〇石は実は利子分である。しかしそれは証書には記されない。通常こういう取引きはいちいち主人に報告せず、家令の裁量で行われていた。/この解釈によると、このたとえは家令が解雇に直面して、取引証書を持ち出して、負債者が利子を払わなくてよいように彼らに書き改めさせた、ということになる。つまり割引いたのは利子分であった(その利子分は家令の取り分だとする者もある)。彼は主人の取り分を窃取して将来の自分の地位、身分の安全を負債者からあがないとった。しかし主人はここで利子分は別として実質的に何も失わなかった。のみならず、律法に則して友人の便宜をはかり援助したということで、主人は栄誉を受ける。…」関田寬雄「ルカによる福音書第十六章一-一三節」『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ ルカによる福音書』(日本基督教団出版局、一九八九年)、四一〇頁。
4.  神様の正義に背いて、自分たちの基準で作り上げられたこの社会、と言えばいいでしょうか。
5. また、十五章の始めは、イエス様の周りに大勢の取税人、罪人たちが近寄って来たのを見て、パリサイ人、律法学者たちが呟いた様子でした。イエス様は、失われた羊と銀貨、そして放蕩息子の話をなさいました。それに続けて、今日のこの話を特に弟子たちに向けて話されたのですが、十六14「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」と繋がるのです。
6. この繋がりを考える時、「放蕩息子」の話においても、弟息子が失われていたのが、金銭の奴隷となっていたからであった、という原因と、それが実に鋭い指摘であるという現代的なメッセージ性とが、もっと強調されるべきだと考えます。
7. ルカ十五17「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」


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