goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問18 「いつも悪いことだけに傾く」創世記六5-8

2014-09-06 18:52:50 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/09/07 「いつも悪いことだけに傾く」創世記六5-8

                                                                                    ウェストミンスター小教理問答18

 罪についての問答が続いています。前回、堕落によって陥ったのが、罪と悲惨の状態であることを見ました。その罪の状態を、今日の18が、そして「悲惨の状態」について、次回の19で見ることになります。

問 人間が堕落して陥った状態の罪性は、どのような点にありますか。

答 人間が堕落して陥った状態の罪性は、アダムの最初の罪の罪責と、原義の欠如と、一般に原罪と呼ばれている、人間の全本性の腐敗、および、原罪から生じるすべての現実の違反、とにあります。

 ここには、私たち人間が負っている罪が、四つの面から教えられています。

 第一の「アダムの最初の罪の罪責」は、問16で学びましたように、アダムとともにアダムにおいて神に背いた、その有罪判決を負っている、ということです。

 第二の「原義の欠如」とは、神様によって作られた時点では、知識と義と聖性において神に似た、正しい者であったのに、その本来の義を失ってしまった、ということです。この二つは、簡単にしておいて、第三をよくよく考えて見ましょう。それは、

一般に原罪と呼ばれている、人間の全本性の腐敗

とあります。「原罪」という言葉を聞いたことのある方もいるでしょう。広辞苑では「アダムが神命に背いて犯した人類最初の罪行為(旧約聖書の創世記)。また、人間が皆アダムの子孫として生まれながらに負う虚無性。宿罪」と説明されています。でも、何となくそこには、過去の罪の咎め、心の底にある暗いシミ、というようなニュアンスがあるのではないでしょうか。ウェストミンスター小教理問答は、

一般に原罪と呼ばれている、人間の全本性の腐敗

という言い方をわざわざします。そうすることで、原罪というイメージをただそうとしてくれているのだと思います。つまり、アダムから引き継いだのは、その罪責とか一つの原罪、というものではなくて、人間の全本性が腐敗していることなのだ、と念を押すのです。私たちの本性は基本的に、概ねはきよくて、無垢なのだけれども、悲しいことに原罪というどうしようもない罪も背負っている…というのではないのです。私たちの全本性が腐敗して、正しい事を願うよりも、自己中心的な願いを持っている。きよらかな心に、罪の大きな染みがある、というのではなく、心の全体が、どこをとっても、罪によって本来の状態でなくなっている。それが聖書の教えだ、というのです。

 先に読みました創世記の六章は、アダムが堕落した後の歴史を神様がご覧になって、その行き着いた状態を見て下された結論です。

創世記六5主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 6それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 7そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の表から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 神である主がご覧になったのは、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くという現実でした。勿論、それは、人間が悪い事、悪事だけを行って、善を願うことが全くない、という意味ではありません。人間は、神のかたちに造られたものですから、願うのは善であり、愛や協力、祝福です。犠牲的な行為を褒め、善のために労を惜しまない人を偉いなぁと思い、社会貢献を勧め、子どもには正しい生き方を教えようとします。けれども、そう願いながら、どんな時も私たちは自己中心的なエゴイストでもあり、評価や損得を考えます。完全な愛によって生きる神のかたちに造られたのに、完全な愛ではなく、自分の利益や打算が入るのです。人を支配しようとしますし、また、神様からの支配を拒みます。それが、人間の姿です。

 主がこう仰せられて、ノアの大洪水が引き起こされました。そうでもしなければ、人間はもっと酷くなったでしょう。主は、どうしようもなくなった人間を、地から一掃されました。ノアの家族だけが、箱舟を造って、生き延びました。けれども、箱舟から出て来たノアたちを見ながら、主が仰ったのは、

創世記八21「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心に思い計ることは、初めから悪であるからだ。…」

というシビアな言葉だったのです。ノアの大洪水ほどの大竹篦返しを食らっても、人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、また悪を思い計るようになります。旧約の歴史を見ると、どんな奇蹟を見ても、律法を与えられ、失敗を繰り返しても、人は懲りることなく、神から離れ、神を侮り、自分のしたいようにしよう、という姿です。エレミヤは、

エレミヤ十七9人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

と嘆きました。人の心が、まだ完全に真っ黒けにはなっていなくても、どこも罪で薄汚れ、段々と黒くなっていく一方であることは明らかです。願っている所が神様から離れているのですから、人間の力で良くなったり悔い改めたりすることは出来ません。

 けれども、聖書はそこから再出発させてくださる主のご計画を語ります。

創世記六8しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 ノアの心も原罪と無縁ではありませんでした。でも、主はノアをその心にかなうものと認めてくださいました。そして、そのノアの子孫が初めから悪を思い計る事もご承知で、それをいくら罰しても懲りはしないことも、熟知されるからこそ、ご自身からの一方的な恵みによる救いを備えて、ひとり子イエス・キリストの十字架と復活による、尊い贖いを果たしてくださったのです。

 私たちは今も、この自分の罪を深く思い知らされて、自分に呆れます。そこから初めて、一方的な恵みによる救いを痛み知って、主に栄光を帰するのです。そして、善人ぶるのではなく、主が私たちをすべての罪からきよめて、新しくしてくださることを願うのです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルカ18章18~30節「天に宝を... | トップ | 申命記二章26節~三章11節「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

ウェストミンスター小教理問答講解」カテゴリの最新記事