聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記二章26節~三章11節「強い町はひとつもなかった」

2014-09-06 18:55:43 | 申命記

2014/09/07 申命記二章26節~三章11節「強い町はひとつもなかった」 (#237)

 

 今日の箇所は、イスラエルの民が、ヘシュボンの王シホンと、バシャンの王オグと戦って、その地を聖絶したことが書かれています。現代の私たちの感覚で考えますと、信じられないほど残酷だと思ってしまうところでもあります。特に、

33私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子等と、そのすべての民とを打ち殺した。

34そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々-男、女および子ども-を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。

 同じ事が三章の6-7節にも書かれて、最後には略奪もしています。「皆殺し」にした訳ですから、残酷だと思うのは当然です。反対にこの箇所を逆手に取って、「今でも、聖戦・聖絶というのはあるのだ。神に逆らう国家があれば、力尽くでねじ伏せるのが正義だ。その財産を分捕ってもいいのだ」と言って憚らない人々もいます。それは、完全にこの箇所を読み誤っています。確かに、現代の私たちと、三千五百年以上昔の当時では、かなり「国際感覚」や「平和」のイメージが違います。今では誰もが願う世界平和も、当時の民族主義の時代にはなかった感覚です。戦うにせよ同盟を組むにせよ、あくまでも「他民族」でした[1]。そうした時代に、その中でも取り分け暴力的で、道徳的にも甚だしく乱れていたこの地域の人々を、長い忍耐の末に、神がイスラエルの民を通して裁き、滅ぼすことにされたのです。その戦争は、現代の私たちが感じるほど強引ではなかったのでしょう。

 けれども、その中でも特に目を引くことがあります。その一つは、イスラエルの民が、この二つの国と戦うことは非常に不利だった、圧倒的な劣勢という事実です。二36で、

…私たちよりも強い町は一つもなかった。

とありますが、それはイスラエルの民の方が強かった、ということではなくて、

…私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。

と説明されていますね。主が渡してくださったから、すべての町々に負けなかったのです。次のバシャンの地は、更に強大でした。

三2…「彼を恐れてはならない。…」

 こう言われたのは、モーセの中には恐れがあったからでしょう。決して、軍隊の数や勢い、戦術において有利だったのではありませんでした。

 5これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。…

というのも彼らの地がどれほど堅固で難攻不落であったかを確認しています。三8以下ではここで占領した、ヨルダン川東部の地域の広大さを改めて確認しています。11節に、バシャンの王オグが並外れた巨体の持ち主で、4メートル×2メートル近い超ビッグサイズのベッドに寝ていたとありますが、それもまた、強大な彼らをイスラエルが倒したことが、自分たちの力によったのではない、驚くべき証しとして書かれているのです。

 後に、イスラエルの民がカナンの地に入った時、エリコというこれまた堅牢な要塞都市と戦うのですが、その前にスパイを遣わした所、エリコの住民はこう言います。

ヨシュア記二10あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。

11私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。[2]

 イスラエル民族がシホンとオグを打ち負かした、という事は真の神が彼らとともにいるからに違いないと周囲の人々さえ納得せざるを得なくさせる、驚くべき勝利だったのです。

 今日の箇所、申命記二章三章で、モーセがこの出来事をわざわざ思い出させているのは、彼らが自分たちを強めてくださるお方、そして、悪を憎まれる聖なる神であることを心に刻むためでした[3]。これから約束の地に入ろうとしているイスラエルの民は、次々に起こってくる困難を前にして、怖じ気づき、逃げ腰になり妥協したくなるでしょう。あるいは、その地の、忌むべき習慣に流されて、不品行や偶像崇拝、欲や不正にまみれた生き方にも誘惑されていきます。だからモーセは言うのです。シホンとオグを打ち負かさせて下さった主は、これからも私たちを支えて下さる。そして、シホンとオグを裁かれた神は、罪に染まる者を、やがて必ず滅ぼされる。だから、この出来事を覚えていなさい[4]

 ですから、私たちもここから、正しく、シッカリと教訓を聞き取りたいと思います。時代的な制約を無視して、今も「聖戦」とか正義の戦争があるわけではないし、ましてそんな看板を掲げて、自分たちの欲や利権のために戦うことが「集団的自衛権」だなどと言ってはならないことが一つ。そして、やはり主は本当に聖なるお方、厳しい方でもあられて、私たちも世界も、このお方の完全な裁きの前に立つのです。今も罪を悔い改めて、神さまの祝福を喜び楽しみながら生きるように変えられることが大切です。そして、もう一つは、私たちが今の生活にあって、目の前に本当に困難な壁が高くそびえていて、にっちもさっちもいかないような思いをするとき、到底勝ち目の無いような相手に負けそうになるとき、主が私たちを強めてくださって、御心ならば勝利させてくださる、という望みです。

 加えて言うなら、勝てそうにないような小さなイスラエルを通して、主はシホンとオグに最後の呼びかけをなさいました。これが、主の方法です。脅迫して、脅しながら、有無を言わせず服従させる、ということも出来るのに、主はあえて、取るに足らないと見えるような方法で、人間に語りかけられます。私達が、神を信じ、私たちのために十字架にかかりよみがえってくださったイエス様を信じたのもそうではありませんか。
 本当は、シホンとオグのように、滅ぼされても文句は言えませんでした。神様は、ご自身に逆らう人間を全員聖絶されてもよかったでしょう。しかし、主はそうなさらず、私たちの心を征服してくださって、悔い改めて信じるように導いてくださいました。だが、力で圧倒しての説得ではありません。奇跡や癒しやしるし、華やかな方法で心を痺れさせても、本当の回心や愛や信仰にはなりません。主の御業は今も、私たちに静かに語り続けています。自分のためにも、他の人が信じるためにも、そういう力を求めてはならないのです。
 大きく強く、圧倒的な存在感を持てたら伝道も効果的に出来るなどと夢見てはなりません。小さい私たちの労苦を通して、主が聖なる計画をお進めになっていることを、私達は信じるのです。

 

「聖なる主よ。聖絶という厳粛な出来事の前に、私達は戸惑い、恐れます。分からないことは多くありますが、聖なるあなた様がやがて万物を裁かれ新しくされるとの予告が改めて身に迫ります。私達を滅ぼすのではなく、聖徒としてお救いくださった御心を感謝します。私達を強めて、誘惑から救い、置かれた場で、小さくとも喜び歩む者としてください」



[1] そして、戦う以上は、白兵戦で、相手の血を流すことはアタリマエだったのです。

[2] ヨシュア記九10では、ギブオンの住民が同じ理由から、イスラエルとの同盟を申し出ています。

[3] 後々もこの出来事は教訓とされます。申命記二九7でも繰り返されますし、ヨシュア九10、詩篇一三五11、一三六20なども参考に。

[4] この面は、たとえば、申命記二八52などに。「その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、」


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