聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き二八章1-16節「親切と尊敬があれば」

2018-07-15 14:16:42 | 使徒の働き

2018/7/15 使徒の働き二八章1-16節「親切と尊敬があれば」

 「使徒の働き」最後の章です。嵐の地中海を2週間漂流して、最後には全員が無事に助かりました。その辿り着いた先がマルタ島で、そこでの顛末が少し書かれた上で、目的のローマに到着する流れになります。マルタ島は鳴門市の面積の二倍ほどの島で[1]、小説や映画でも知られていますが、今は絶景の観光地として売り出しています。その南に一節の海岸があります[2]

1.「人殺し」から「神様」に

 パウロたちは上陸した海岸で島の人々に助けられます。欄外に

「バルバロイ」

とありますが、バルバルとは日本語の「ベラベラ」みたいなもので、何を言っているのか分からない野蛮人を指す、蔑んだ差別的な言い回しです。ローマ帝国では野蛮人と蔑まれている人々が

「非常に親切にして」

くれました。雨や寒さの中、暖を取れるように火を焚いてくれました。276人の遭難者が暖を取れるためにはかなりの薪が必要でしょうが、その手間を惜しまないでくれました。

 そこでハプニングが起きます。3節でパウロが枯れ枝を一抱え集めて、火にくべると薪の中から蝮が這い出してきて、パウロの手にぶら下がったのです[3]。島の人々はこれを見て、

「この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。」

と言いますが、しかしパウロが平気でいるのを見て考えを変え、

「この人は神様だ」

と言い出すのです。非常に親切な人たちでしたが、蛇に噛まれると「折角この嵐を助かったのに、それでも毒蛇に噛まれるなんて、よっぽど悪人に違いない」と決めつける。それが助かったら、今度は掌を返すように「この人は神様だ」と持ち上げる。似た事が前にもありました。14章のリステラでパウロたちの奇蹟を見て、「神々だ」と驚喜した人々が、直ぐ後でパウロに石を投げつけて殺そうとしました。ここでもパウロが毒蛇よりも強かったスゴイ奇蹟とか、そのために人々がパウロを崇めたから万歳、ではないのです。むしろ人は「あの人は人殺しだ」と言った舌の根も乾かぬうちに「神様だ」と言うものなのです。人の評価など聞き流して善い。聖書は単純な因果応報、何かあったらそれは何か原因があるに違いないと決めつける考え方から人を自由にします。

 パウロは過去に多くの信徒を殉教させた迫害者ですが、それでも神の恵みのゆえにこんな言葉を受け流せています。私たちも人の非難や賛美は気にしなくてよいのです。

2.深い尊敬を

 大事なのはその続きです。7節以下、島の長官プブリウス[4]がパウロたちを歓迎して親切にもてなしてくれました。彼の父親が病気で伏せっていたため、パウロはそこに行って手を置いて祈り、癒やしました。続いて島中の病人がやって来て癒やしてもらいました。そして人々はパウロたちに深い尊敬を払うようになり、三ヶ月後に船出する際は必需品を用意してくれる程の強く温かい関係が築かれていたのです。最初に「人殺しだ」とか「神様だ」とアップダウンした単純な見方から、病気を癒やされ、痛みを理解してくれたことで、もっと深く強い絆が始まったのです。パウロは島の人の病気を見て「きっと何かのせいだ」とは言いません。自分が言われたように「正義の神の裁きだ」と言ったり、悔い改めや改宗を求めず、癒やしたのです。

 この三ヶ月にパウロがマルタで伝道した様子はないし、尊敬は受けたけれども主イエスを信じた人があったとも書かれていません。パウロはこの島のバルバロイを「伝道対象者」とは見ませんでした。そうではなく、父親の所に行って手を置いて祈り、他の病人たちが来ても癒やしてあげた。その姿こそ、逆に尊敬になったのです。蝮に噛まれたのは人殺しだから、病気になったのは祟りがあるから、何か問題があると神が怒っているに違いない、そういう考えに人間は陥りがちです。パウロはそのような単純な発想から自由でした。相手が「野蛮人」であろうとその親切を感謝して受け取って、「人殺し」と言われようと「神様」と言われようとスルーして、病人がいれば行って手を置いて祈り、他の病人たちにもそうしました。

 もしそこでパウロが、これをチャンスとして癒やしのカリスマ的な力でカルト集団を作ろうと思えば出来たかもしれません。「蝮殺しのパウロ様」を人々は恐れたでしょう。でも、いくらそこに「深い尊敬」は築けなかったでしょう。

 先日オウム真理教の教祖たちが死刑を執行されました。宗教がどんなに魅力的で、スゴい奇蹟や預言や体験を提供できても、反対者への暴力を正当化するなら、それは最悪の宗教です。人の禍につけこんで、人をコントロールするような宗教はたとえキリスト教の看板を掲げていても、ない方がよいのです。イエス・キリストは正義の神でありつつ、人に天罰を与える神ではなく、人間の一人となって苦しみや痛みを味わわれ、病や孤独に苦しむ人の所に行き、手を触れ一緒に食事をし、仕えて希望を与えた。それがイエス・キリストでした。パウロはそのキリストの愛をもってここで人々と過ごしました。そしてその素朴な姿が、親切で善意に溢れてもまだ因習に囚われていた人々の中に、尊敬と交わりを呼び起こして、新しい交わりを生み出して、彼らはここを去ることになったのです。

3.勇気づけられた

 三ヶ月後、航海が安全になった頃に、パウロたちはマルタからシチリア島のシラクサを経由して、遂にイタリア半島に着き、ローマに到着します[5]。プテオリで一週間滞在したのは、ローマに彼らの到着を知らせたためでしょうか。15節でローマから兄弟(教会の信者)たちが迎えにやって来てくれました[6]。この時パウロは

「神に感謝し、勇気づけられた」

と言います。パウロは勇気づける立場だったのではないでしょうか。今まで弱気や緊張などは見せていませんでしたが、でも「勇気づけられた」という素直な言い回しです。ここでしか使われない言葉で、パウロのもらった力、特別な勇気を感じさせます。Ⅱコリントではパウロは教会の兄弟姉妹、諸問題、悩みを思う時に心が痛まずにはおれず、自分が弱くなると正直に告白しています[7]。だから「勇気づけられた」というのもパウロの実に素朴で、飾らない感情表現です。パウロは鉄の心臓で何にも動じない人ではありませんでした。人に勇気づけられる人でした。それも嵐の中のサバイバル体験でも、蝮にも負けない奇蹟や、人の病気を癒やして大勢の人が押し寄せてくるような出来事でも「勇気」にはなりませんでした。このローマから兄弟たちが何人か、自分を迎えにやって来てくれた、その単純な歓迎で、神に感謝し勇気づけられた、と言える人でした。言ってしまえば「淋しい人」かもしれません。でも、寂しさを恥じずに、「人から勇気もらった」って言えたらどんなに素晴らしいでしょう。カルトの教祖や諸団体のリーダーが自分の寂しさを認められたら、犯罪やテロなど起こさずに済んだのではないでしょうか。

 この時パウロを迎えに来たローマ教会も、八年程後、パウロが再び投獄された時、ローマの監獄でテモテへの手紙第二を書いた時には、パウロが囚人であることを恥じて、会いに来る事が少なかったようです[8]。教会のキリスト者の思いも、いつも愛や温かさがあるわけではなく、移ろうものです。自分たちの思いも、何かあれば揺れて消えるような感傷に過ぎません。でもその迎えでパウロは勇気をもらいました。また、マルタ島の人々が示した親切を受け取り、その尊敬を有り難く受け取りました。そういうパウロの影響が静かに、力強く証しされています。

 マルタ島の人々同様、今の私たちも、悪いことがあれば原因を探し、いい目を見た人がいればその人をヨイショしてしまいます。そういう言葉や考えは、人を結びつけません。親切を終わらせます。イエス・キリストはそのような単純すぎる見方から私たちを解放してくれました。私たちが蛇に噛まれたり嵐で全てを失ったりカルトに巻き込まれたりして苦しんでいるどんな人を見ても、何の役にも立たない憶測をやめることが出来たらどんなに世界は住みやすくなるでしょう。自分とは言葉も考えも通じない人にも小さな親切を与えて、その人の中に神を見て尊敬をすることを選べたら、イエス・キリストが新しいことをなさるお手伝いになるのです。

「私たちの旅路を導かれる主よ。嵐に流された先にも、あなたの新しい業が始まりました。私たちがあなたに導かれて出会う先々でも、あなたの命の御業がなさってください。互いに助け合い、不幸や奇蹟があってもなくても、互いに尊び合い、親切を尽くせる。寂しさも勇気も隠さず分かち合える。そういう主の御業を、今ここでも作るよう、私たちを新しくしてください」



[1] マルタ島の面積は246 km²。「マルタは地中海に浮かぶ諸島で、シチリア島と北アフリカ沿岸の間に位置します。ローマ人、ムーア人、マルタ騎士団、フランス人、イギリス人により支配されてきたこの国には、その一連の歴史に関する史跡が残っていることで有名です。たくさんの要塞、巨石神殿群が存在します。また紀元前 4000 年頃に造られた埋葬室と広間からなる複合的な地下建造物として有名なハルサフリエニの地下墳墓が残っています。」Wikipediaより。

[2] マルタ島の「St. Paul’s Beach」は現在も観光地の一つです。

[3] 新改訳は「かみついた」とし、新共同訳は「からみついて」としています。新共同訳の方が、直訳です。

[4] 「新改訳」では「ポプリオ」でしたが「新改訳2017」では「プブリウス」になりました。これはローマによくある名前ですが、有名なのは前4世紀の政治家前4世紀頃のローマの政治家。「4度執政官 (コンスル ) に就任。前 339年に最初のプレプス (平民) 出身の独裁官 (ディクタトル ) にもなっている。またプレプスのパトリキ (貴族) に対する社会的平等の闘争に画期的な3つの法制定に貢献している。その法は,(1) 戸口総監 (ケンソル ) 職がプレプスに開放されたこと。 (2) 平民会の投票がローマ国家全体に拘束力をもつようにしたこと (ホルテンシウス法制定への関与) 。 (3) 父権に基づく提案は,ケンツリア会に提出されるまでは形式上の承認にとどめたこと。彼は最初の法務官 (プラエトル ) にもなり (前 337) ,戸口総監として新しい部族マエキアとスカプチアの創設に助力し,前 327年の執政官のときにはネアポリス (現ナポリ) を包囲した。内政上では対立した保守派のアッピウス・クラウディウスの南進政策に協力した。」 コトバンクより。https://kotobank.jp/word/プブリウス-125682

[5] マルタに滞在していたアレクサンドリアの船については「その船首にはディオスクロイの飾りが付いていた」とあります。ディオスクロイは「神の子ら」、すなわちゼウス神の双子カストルとポルックスです。それは船旅の守り神の飾りでした。嵐の中を助かったキリスト者にとって、異教徒の「お守り」は皮肉な意味合いしか持ちませんが、しかし、パウロはそれを揶揄したりしません。なんとも不思議なこの挿入です。

[6] ローマからアピイ・フォルムまでは、64kmほどだそうです。

[7] Ⅱコリント十一28-29、十二9-10など。

[8] Ⅱテモテ一8、12、16-17。

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