聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き二二章1-22節「話をさせてください」

2018-04-22 14:02:29 | 使徒の働き

2018/4/22 使徒の働き二二章1-21節「話をさせてください」

 このパウロの弁明は、同胞のユダヤの民衆を相手に語られたものです。結局最後は

「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」

という怒号でかき消されてしまいますが、最初からパウロを非国民、神を冒涜して、神殿を汚す不届き者だと殺意に燃えていた相手でした。そういう相手に、パウロが何を、そして何故そんな話をしたのでしょうか。

1.自分の物語を

 まずパウロはここで自分の話をしています。自分の生まれ、育ちを話し、

「今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした」

と語り出しています。4節で

「この道」

と言っているのはキリスト教信仰、ナザレのイエスをキリストと信じる信仰のことです。それをかつては迫害し、捕まえて牢に入れ、死に至らせることもしていました。そういう自分が、6節以下、ダマスコへの道でイエスに出会い、その声を聴いて、目が見えなくなった。その自分の所にダマスコのアナニアという人が来て、祈ってくれて、目が見えるようになった、という経緯を語っています。そういう自分の物語を、淡々と伝えていくのがここでの「弁明」です。

 パウロは自分を殺そうとした人々の殺意を咎めませんし、「その考えが間違いだ」と非難もしません。怒っている相手に「でも」は絶対に禁句ですが、賢明なパウロは説得や議論は避けています。相手のことも「神に対して熱心」と認めますし、自分の証人として大祭司や長老会全体も名指して信頼を寄せています。ダマスコのアナニアのことも

「律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い」

と紹介します。とても謙虚に誠実に語っています。上から目線ではありませんし、権威に訴えるようないやらしさもありません。不用意に反発や敵意を煽るような話し方をしない。自分を殺そうとした相手、敵視している人々です。その相手にパウロは語りかけるのです。抑も22章32節以下で兵士たちに助け出されたまま保護されてもいいのに、わざわざ立ち止まり、

「お願いです。この人たちに話をさせてください」

と言うのが尋常でありません。パウロはこの人々を「暴徒」「無知な群衆」でなく、話し相手、自分を伝えたい相手と思って止みません。相手も神を大事にしていると尊重しつつ、自分の出会ってきた神を語るのです。対決ではなく対話を求めるのです[1]

 こういうパウロの姿勢は、主イエスご自身を思い出させます。イエスは、御自身に敵対する人にも、当時蔑まれていた人や誰に対しても、敵や他人としてではなく人として向き合われました。自分を十字架につけ嘲笑う人々のためにさえ祈られました。そのイエスの心が、パウロの中に生きています。そして私たちのうちにもこのイエスの心を戴きたいのです。

2.「何をためらっている」

 しかしそのパウロの「対決より対話」という姿勢そのものが群衆には我慢なりません。

「こんな奴は地上から除いてしまえ、生かしておくべきではない」

と声を張り上げたのです。「ナザレのイエスをメシアだと言うなんて奴は神を冒涜している。だから捕まえてもいい、殺してもいい」。それはかつてパウロ自身の正義でした。これは「対決型」の信仰です。「報復/懲罰」の正義です。勧善懲悪で考え、神も逆らう者は罰するのだと考えます。ルールに従わない者は罰や暴力を振る舞われても文句を言えない、という論理が罷り通ります。最近、人種差別をテーマにした映画を観て、考えさせられていたら、その映画にも差別が沢山あるという見方もあると知りました。でもその批判が講じて、映画に対して「お前が一番差別主義者だ」とこき下ろしてしまう。自分に気に入らない問題はあったとしても、「だから何を言ってもいい、何をされてもお前が悪い」という懲罰的考えは、悲しいことに私たちに深く染みついています。[2]

 しかし14節以下アナニアは何と言いますか。主はパウロを断罪して懺悔させるより、御心を知らせ、義なる方を見て、御声を聴く関係へと選ばれました。そして義なる神がどんなお方かを伝える証人となさるのです。それは躊躇(ためら)わずにおれない正義でした。パウロは、どう償えば神は受け入れるか、どう自分を罰したら良いかと考えたとしても、アナニアは

「躊躇わずに立ち上がり、主の名を呼び、洗礼を受け、罪を洗い流しなさい」

-償いや反省や自罰的な態度ではなく、躊躇わずに主のもとに行く。その新しいスタートこそ主の求めること、私たちを求めてくださる義なるお方の御心。「悔い改め」を言うならば、「悔い改めなければ受け入れられない」ではなく、主の元に行き赦しを戴く事こそ「悔い改め」なのです。これはかつてのパウロには躊躇わずにおれない考えだったでしょう。しかしそれこそが、主なる神の御心です。神である主はそういうお方だ、という驚くべき出会いをパウロは体験したと話しています。[3]

 その後パウロはエルサレムに帰って、宮で祈っていたと言います。彼はこの後も神殿で祈ることを大切にしていました。また同胞に対する熱い思いも変わりませんでした。しかし主はパウロに

21行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」

と言われます。これを聴いて、人々はもうこれ以上聴いちゃおれんと、話を中断するのです。それは、彼らもパウロの話に躊躇った、あまりの主の恵みの大きさ、途方もなさに聴いていられなくなったからでした。

3.報復から修復へ

 パウロは、宮の冒涜という誤解を糺して自分を正当化するより、この宮の主がナザレのイエスその方だ、赦しの神で、異邦人に自分を遣わされた主だと証ししました[4]。これを聴いて人々が怒り狂ったのも無理はありません。パウロの弁明は失敗だったのでしょうか。いいえ、承知の上でしょう。かつて熱心な迫害者だった自分が変わった奇蹟さえ決定打にはなりがたい人間の頑固さも熟知しています。「だから話しても分かるまい」でなく、それでも語りました。今はこの驚くほどの恵みが理解されなくても、いつか気づく日が来る。かつての自分がステパノを殺したけれど、今あの証しが胸に刻まれているように、そうなる事を願って、精一杯証ししたのです[5]。勧善懲悪という枠を覆す偉大な恵みの神を証しする一石を投じ続けたのです。

 こういう神に対する抵抗が人間に強くあることも聖書には繰り返されています。来週のヨナ書もこれがテーマです。勧善懲悪や因果応報のほうがスッキリするし、自分が正しいと思いたがる。また人を動かすにも「神の御心だ」と脅すのは迫力があります。でも主はそんな杓子定規なお方ではありません。全てを知り、人間の限界や誤解や過ちを知り尽くした上で、裁くよりも回復へと導かれるお方です。その正義は、懲罰や報復よりも修復を目指す正義です。報復という考えから、人間を救い出し修復してくださるのが聖書に繰り返されている神の物語です。人が神の名を振り翳して争ったり傷つけたり怯えるのを止めて、私たちの帰りを待ち、喜んで迎えてくださる神に出会うようにと、主は私たちをじっくりと導かれるのです。自分が正しいと思っていると力尽くで抵抗しますが、自分の限界を知る者にはこの上ない慰めがあるのです。

 それは言葉や思想ではいくらでも言える綺麗事ではありません。主なるイエスご自身が、この世界に来て、十字架と死と復活で証ししてくださった事実です。また、パウロを変えたことも主の御心でした。主は私たちの歩みに今も働いて、断罪とか懲罰とは違う正義、対話や修復という慰めに満ちた正義を築こうとされるのです。この恵みによって、私たちの人との向き合い方を変えて、主の正義の証人としてくださる。人を敵だとか決めつけず、貶(けな)さなくなるだけでもどれほど世界は美しくなるでしょう。そのようにして、主イエスの恵みが伝わるのが伝道です。私たちにそれが出来るかどうかではありません。主が懲罰よりも癒やしを下さる神だ。御自身の十字架の犠牲さえ厭わなかった主だ。この恵みと派遣の主を私たちは信じ、礼拝しているのだ、と確認しましょう。そうして自分をも人をも、主の御手の中に見ていきましょう。私たちのささやかな証しを、主がその時の中で必ず益としてくださると期待しましょう。

「義なる主よ。私たちも、躊躇するほどの憐れみに招かれて今ここにあり、ここから遣わされていきます。どうぞ憎しみに希望で、非難に友情で応えさせてください。脅しや敵意にも恐れず媚びず、友情や祝福を、自由やユーモアをもって応えさせてください。主の恵みの福音が、言葉だけでなく、私たちを生かす恵み、私たちの喜びや成長として届けられていきますように」



[1] 勿論パウロは相手に媚びて怒りをただ宥めようとはしていません。

[2] この場合の「私たち」には、キリスト者も教会も含みます。教会の伝道が「対決型」であったことは歴史において散見されますし、近年の伝道熱心な「福音派」がそのような問題を抱えていたことも今では公に指摘されるようになりました。

[3] 14彼[ダマスコのアナニア]はこう言いました。『私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。15あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。16さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』

[4] これはパウロや新約だけの新奇な信仰理解ではありません。旧約においても、赦しと回復、神の「怒るのに遅く」あられる忍耐などは十分に証しされています。イザヤ書六章で、主は神殿で「私はもうだめだ」と罪を自覚したイザヤに赦しを与えてくださいました。そして、そのイザヤを預言者として派遣されました。パウロはここで、イエスがその主であり、イザヤのように自分に赦しと派遣を与えてくださった、と発言したのです。それは「爆弾発言」でもありましたが、イザヤに起きた出来事の延長でもありました。そして、そのような類似性に気づいたからこそ、彼らには許しがたかったのかもしれません。

[5] 「正しいのは自分の方だ。今に分かるさ」という優越感ではなくて、そういう人間的な「どっちが正しいか」を越えて私たちを迎え入れ、また結び合わせてくださる神の証しです。

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