聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

2021-08-14 12:44:54 | こども聖書
2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

 今から3500年ほど前、神様がエジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、その奴隷生活から解放してくださったことは、聖書の物語にある大きなクライマックスの一つです。エジプトの王ファラオは、「神の子」を自認して、絶対的な権力をもっていました。しかし、本当の神である主は、ファラオよりも遙かに強く、イスラエル人を救い出して、神の民として新しい歩みをくださったのです。これは、聖書を通して、ずっと私たちを励まし、力づけてくれる、すばらしい出来事です。
 しかし、イスラエル人がエジプトから出て行った後、エジプトのファラオや家臣たちはすぐに考え直し始めました。勿体ないことをした、イスラエル人を手放したのは間違っていた、と思ったのです。奴隷にしていたイスラエル人がいなくなって、自分たちが仕事をしたり片付けや料理をしたりしなければならなくなって、嫌気がさしたのかもしれません。エジプト人はイスラエル人を連れ戻して、また自分たちのために働かせよう、と考えてしまったのです。そして、馬で引いた戦車を600台、いやもっとたくさん送り出して、イスラエル人を追いかけていったのです。
 エジプトから出て行ったイスラエルの人たちは、ちょうど葦の海の前まで来ていました。前に道はなく、どう進めば良いのかと思っていた所に、後ろからエジプトの戦車がたくさん押し寄せてきたのです。前は海、後ろは軍隊、どちらにもいけません。挟み撃ちです。そこで人々は、神様に叫んで祈り、指導者のモーセにこう悪態をつきました。
出エジプト記十四11…「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
 なんて勝手な言い分でしょうね。しかし、神様はこれを聞いておられました。そして、神は、わざわざ彼らをこの絶体絶命の挟み撃ちの状態に置かれたのです。それは、とても大事なことを人に教えるためでした。神はこう仰っていました。
十四4わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。
 「もうだめだ」-人がこんなふうにしか思えない時にも、神はそこに道を創造するお方です。その事が、この時に明らかにされたのです。ではどのようにしてでしょうか。
21モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。22イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
 主が言われたように、モーセが杖をもった手を海の上に伸ばすと、海の水が分かれて、道が出来ました。その道をイスラエル人たちは歩いて、向こうまで渡って行けたのです。道のない所に、神は道を作りました。逃れる事が出来ない試練の中で、脱出の道を備えてくださいました。もうダメだとしか思えない時に、神は救いを備えてくださいました。こうしてイスラエル人は、絶体絶命の場所から救い出されたのです。



 しかし、その後を、
23エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入っていった。…26主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」27モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。28水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
 神が海の中に道を作られたのを、エジプト人も利用しようとしましたが、神はそれを許しませんでした。神のなさることを、悪人がつけ込んでやろうと思う事はあります。でも、決してこっそりと神を欺すことは出来ません。神はちゃんとすべてをご存じです。神は、囚われていた人を解放します。後から、追いかけてくるひとたちが大勢いても、私たちが諦めてしまっても、神を打ち負かすことは出来ません。ところで、この場所は、
出エジプト記13:18「神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。…」
とあり、欄外に「あるいは紅海」と書かれています。この舞台は長く「紅海」、今でも地図にある、広い海で起きたと考えられていました。たくさんの映画で、モーセが紅海を二つに分けるシーンが、大きなクライマックスになります。



 けれども今は、これはもっと北の「葦の海」と理解されています。それは、葦が生えた、紅海よりも浅く、小さな水場です。だとしたら、紅海よりももっと地味なことだったのかもしれません。



 それでもこの出来事が奇蹟であって、神様でしか出来ない力強い解放だったことは変わりがありません。そして、大事なのは、この時にどんなにすごい奇蹟があったかどうかより、このお方が、今でも私たちに働いておられると信じることです。紅海が二つに割れる壮大な光景が起きたと信じながら、今ここで、神が囚われていた人を自由にし、人を束縛しようとする人間を退けられるとは、信じてもいないなら、意味はありません。主は、今もこれからも、卑しめられている人、傷つけられ、悩む人々を憐れんで、不思議な方法で救い出され、偉ぶったり差別したり神に背を向けるひとを打ち負かされます。
 出エジプトは、やがて訪れるイエス・キリストの救いを表しています。小羊の血を流した過越は十字架を表して、葦の海に道が出来た奇蹟はイエスの復活を表していました。復活は、十字架の死が、絶望やおしまいではなく、いのちの証しとなり、永遠のいのちへの道を示した出来事でした。それは、エルサレムの片隅で起きたことですが、私たちの人生を一変させる御業でした。海に道を開き、イエスを死からよみがえらせた方は、この世界の暴力や罪の支配を終わらせるお方。私たちをも導いてくださるお方です。

「世界の造り主なる神、あなたは囚われていたイスラエル人を解放し、奴隷に引き戻そうとするファラオの軍勢を海に放り込まれました。どうぞ、今も私たちの世界に働いて、あなたに背く世界に穴を空け、道を開いてください。また、卑しめられている人を解放して、私たちの冷たい心にも命の道を開いて、私たちを自由に、新しくしてください」
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