聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/3/29 イザヤ書9章6節「100%神、100%人」ニュー・シティ・カテキズム20

2020-03-29 14:51:35 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/3/29 イザヤ書9章6節「100%神、100%人」ニュー・シティ・カテキズム20
 
 今日から、ニュー・シティ・カテキズムの第二部に入って行きます。ここでは「キリスト・贖い・恵み」といったこと、聖書の教える「救い」について知っていきましょう。そしてそれは、私たちが何をしたら幸せになれるか、というよりも「贖い主キリスト」が私たちと神との関係を回復してくださる、という救いなのです。まず、そのキリストがどのようなお方であるのかについて、しばらく御言葉を開いていきましょう。■
第二十一問 私たちが神に立ち返るためにはどのような贖い主が必要ですか?
答 本当の人であるとともに本当の神である方です。
 人と神との贖い主であるキリストは、どんなお方でなければならないのですか、と問うてまず第一に、
「本当の人であるとともに本当の神である方です」
というのです。このキリストは本当の人で、本当の神。100%神で、100%人。私のお世話になった宣教師の方も、繰り返してこのフレーズを話していました。難しい言葉で「キリスト二性一人格」と言います。これは、キリスト教にとっての根本的に大事な告白です。どうしてキリストが、神でなければならず、人でなければならないのかは、次回、一つずつ扱われます。今日は、キリストが神であり人であること、そのものを見ます。
 まず、聖書そのものが、イエスが「私たちと同じ人」であると言い、イエスが「礼拝されるべき神」であると言っています。今日のイザヤ書もその箇所の一つです。
イザヤ9:6ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
 他にもたくさん、イエスが私たちと同じ人間であることを伝える言葉と、イエスが神の子であり、天の父と共に永遠からおられた方であることを伝える言葉があります。ですから、イエスが人であることと、イエスが神であることとは、聖書に土台があります。では、その二つをどう組み合わせればよいのでしょうか。この告白に至るまで、教会の中では長い論争がありました。「イエス・キリストは、神なのか、それとも人なのか」は何百年も掛けて、「神だ」「いや人間だ」と議論がされてきたのです。
 そこで、教会の中に出て来たいくつかの考えがあります。
 まず、イエスは神であって、本当に人間になったのではない、そう見えただけだ、という考えが広まったこともありました。これは否定されました。見えただけで本当に人間ではないなら、嘘になります。
 次に、イエスは人であって、本当の神ではない、一番偉い天使ぐらいで、人間よりは上だけれど、神よりは劣る、という考えもありました。これも否定されました。もしイエスが神でないなら、神ではない天使や被造物を礼拝したり信仰することは十戒の第一戒に違反することです。
 それから、イエスは半分神で、半分人だ、とする考えもありました。そして、イエスの中には、神の人格と人間の人格とが二つあった。二重人格だったと考える人たちもいました。それは、やはり、神としても不完全で、人間としても不完全だったとなってしまいますし、二重人格という状態はますます分からなくなってしまいます。だからこれも、否定されました。
 また、イエスは神と人とが混じり合った、ミックスした人格だとする考えもありました。これもやはり、結局神でもなく人でもない、ということでしょう。ギリシャ神話などでは、こういう「半神半人」という存在は出て来ますが、聖書の神は、世界を造られたお方ですから、そういうお方ではありません。


 こうした説明はどれも無理があります。だから、教会はそれらを退けた上で、説明は出来ないけれども、イエスは100%神で、100%人だ、と言ったのです。
 この、二つの関係を「二性一人格」と言いますが、五つのポイントがあります。
①イエスは、神性と人性の二つがある。
②それぞれの性質は完全。
③それぞれの性質は区別される。
④キリストの人格は一つだけ(神としての心と、人としての心の二つはない)。
⑤ひとつの性質に真実なことは、他方の性質にも真実。イエス様が悲しいとか喜ばれたとか、痛いとかそこにおられたとかは、神としても人としてもいつも両方なんだ、ということです。
 このようにまとめることで、イエスは、神であり、人である、という二つのことを、どちらも軽く見ずに言い切ったのです。
 頭で考えると難しい事ですから、これは理解するというよりも、無理に説明しようとすることを止めたと考えてください。そして、驚いてください。天地を造られた神、永遠の造り主なる神であるキリストが、私たちと同じ人間になってくださった。こんな途方もないことを、私たちは告白しているのです。この世界よりも大きなお方が、私たちを贖うために、この世界の小さな人間の一人となってくださいました。それは、私たちを救うためでした。私や皆さんを救うために、神が、人となってくださった。それは、到底理解できないことです。さっきの図のように、半円にしたり混ぜたり出来ないことです。水と油といいますが、オーケストラと虫が共演するとか、稲妻と線香花火が半分半分とか、太陽と砂粒が結婚したとか、そんなナンセンスな話です。神が人となったなんて、それより遥かにかけ離れたことです。しかし、この世界をお造りになった神は、この世界の最も小さいものさえ、限りなく愛おしんで、最も近くおられます。そして、私たちは、この世界の造り主なる神のひとり子イエスが、私を贖うため、神に立ち返らせるために、人となってくださったと信じているのです。これは途方もない告白です。
 二性一人格を図にすることは出来ませんが、こんな図を書きましょう。キリストは永遠に神でした。神である、ということは永遠の昔から、将来も終わり無く永遠まで神だと言うことです。しかし、イエスは最初から人ではありませんでした。人性を取る前があったのです。それは、受肉、クリスマスのあの出来事からです。



 イエスはマリアの胎に宿って、人としての歩みをあの時から始められたのです。神であるイエスは私たちのために人となってくださいました。この贖い主を信じるのがキリスト教です。愛の宗教とか、神を信じて良いことに励むとか、そういう事よりも、永遠の神が私たちを立ち返らせるために、完全な人となってくださった。こういう大胆な告白が私たちの信仰です。

「神の子、そして人の子であられるイエスよ。あなたは歴史を通して預言されていました。神でありながら人でもあるあなただけが、私たちの身代わりとなるために完璧な従順を全うしてくださいました。あなたの他に、神に近づく道はありません。アーメン」
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