聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答59~60 Ⅱコリント書7章5~13節「良い悲しみ 悪い悲しみ」

2018-12-02 15:50:00 | はじめての教理問答

2018/12/2 Ⅱコリント書7章5~13節「良い悲しみ 悪い悲しみ」はじめての教理問答59~60

 教会で良く聞く言葉の一つに「悔い改め」があります。「悔いる」とはどういうことでしょうか。自分がしたことを悪かった、間違っていたと考えることでしょう。しかし、今日の聖書には、こんな意外な言葉がありました。

「神の御心に沿った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」。

 後悔のない悔い改め。とても面白い言葉だと思います。そして、大事にしたい言葉です。教会で「悔い改め」が言われる時、ともすると、後悔と同じ意味で使われる言葉があります。後悔しても仕方が無いことをいつまでも悔やんで、謝罪し続けるのが神さまの御心だと思われていることもあります。聖書で言う「悔い改め」はもっと積極的で、もっと前向きなことです。

問59 罪を悔い改めるとはどういうことですか?

答 自分の罪を後悔し、憎み、捨て去ることです。

問60 どうして罪を憎み、捨て去らなければならいのですか?

答 神さまは、罪を喜ばないからです。

 神が罪を喜ばないから。この理由は、とても子どもっぽく思えますね。神が罪を喜ばないから、罪を憎み、捨て去るのだ。ここには、神との幼子のような信頼関係が前提にあります。「神が私を愛してくださっているので、私は神が喜ばないことを憎み、捨て去ります。」そう単純に言い切る、基本的な神との関係が大前提にあるのです。

 今日の問いよりも前では、私たちの救いは、私たちの行いによるのではない、神の恵みの契約による、という聖書の教えを確認してきました。救いは、私たちの行いに依るのではありません。悔い改めも、救いの条件ではありません。悔い改めなければ救われないとか、悔い改めなければ神との関係がなくなるから怖くて悔い改めるのではありません。神が私たちに救いを下さって、私たちを神の子どもとして下さいました。神が私たちを喜んで神の子どもにしてくださって、私たちが神と「天のお父さん!」と呼ぶことを喜んでくださるのです。神が私たちを喜んでくださっている。だからこそ、私たちは、自分の罪を後悔し、憎み、それを捨て去ろうとせずにはおれないのです。夕拝の「罪の告白」で引く聖句の一つを思い出してください。

詩篇三二3私は黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

 5…私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪を赦されました。

 罪を認めずに黙っている時、自分が悪くはないのだ、と思おうとしている間、心には呻きがあり、骨まで疲れてしまうのです。そういう強張った生き方から、自分の非を認めて、罪を知らせ、咎を隠さないで告白する。すると、その罪を主は赦してくださった。それはどんなに自由で、喜ばしい経験でしょうか。神の恵みを豊かに知らされて、味わう時に、私たちは、神に逆らっている罪を認めざるを得なくなります。それも、神さまに責められるような思いからではなく、自分の間違いだった、と認めて悔いることで、握りしめていた拳の力を抜いて、手を開くような悔い改めを持てるのです。そうして神の方を向き、罪を認めて、神に向き直ることは、黙っているよりも喜ばしい出来事です。その時には痛みがあるでしょう。罪を認めることは悲しみでしょう。神を知らなければ、その悲しみは重すぎる後悔になります。取り返しのつかない過ちの重さに絶望してしまいます。そういう悲しみは

「死をもたらす悲しみ」

です。

 神を知らない世界の悲しみは死をもたらします。しかし、神は命をもたらすお方です。私たちを喜び、死から命へと移して下さる方です。だからこそ、私たちの心を毒したり、関係を傷つけたりする罪を、神は喜ばれません。罪とは「悪いこと、ひどい思い」という以上に、神の御心に逆らうことです。神に造られ、神に生かされ、神に愛されていながら、私たちの心にはなお罪があります。神に逆らう思い、神よりも他のものを大きく考える生き方、高慢や嘘や憎しみ、醜い心、自分でもゾッとするような妄想などがあります。それは本当に恥ずかしい事、悲しむべき事です。しかし、そんな私たちをも神は愛して、神の方から救いを下さいました。悔い改めたら救ってやろうとか、お前のような罪人は滅びて当然だとか、救ってやるけど後悔して神妙にしていなさい、とは言われません。神は喜んで私たちを子にしてくださいました。だから私たちは安心して自分の非を認めることが出来ます。神に背を向ける罪から方向転換して、神へ向き直れます。それが悔い改めです。罪を認めることは、その時は途方もなく苦しく、黙って済ませたいと思います。一時的な悲しみをもたらします。しかし、悔い改めは悲しみで終わって、死に至る悲しみではなく、救いに至る悔い改めを生じさせるのです。罪を後悔することはあっても、過去をいつまでも後悔することはありません。自分を責めたり、神や誰かに責められているように思ったりして、いつまでもビクビクしている必要はないのです。

 悔い改めとは

「罪を後悔し、憎み、捨て去ること」

です。罪の重荷を十字架の元に下ろす事です。決して罪を背負う事ではありません。自分で罪を担おうとしたり、自分を罰したりすることではありません。「自分は罪人だ」と貶めて、絶望することではありません。「罪の告白」は主の前に罪を手放すことです。惨めになるのではなく、重荷を下ろして楽になるのです。勿論、罪が大きければ痛みも大きいです。大きな犯罪に手を染めたり、大事な人を傷つけたり、取り返しのつかない過ちさえ、私たちに無縁ではありません。その悲しみは深いでしょう。その時も赦しを受け取るのが悔い改めなのです。自分に「罪人」というレッテルを貼ると、却って罪を捨て去ることが難しくなります。私たちは罪を捨て去るよう招かれています。悔い改めとはそういう事なのです。

 悔い改めは、生涯に一度だけ神に方向転換すれば終わりなのではありません。私たちは生涯、自分の様々な罪、悪や高慢、過ちを持っています。毎日悔い改める必要があります。悔い改めなくなるのが理想なのではなく、もっと素直に悔い改めて神を見上げるようになることを目指すのです。何度悔い改めてもまた罪を犯してしまうものです。情けないほどの弱さや過ちを私も抱えています。それでも、神は私を赦して、溢れる恵みの中に生かしてくださっています。本当に深い神の赦しと恵みの中に生かされている事に感謝しながら、罪を悔い改めて、キリストを信じながら歩ませて頂いています。

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