2018/12/9 ヨハネ6章26-35節「キリストは信頼できる」はじめての教理問答59~60
夕拝では「初めての教理問答」に沿ってお話しをしています。先週と今週は「悔い改めと信仰」のことを考えています。今日は「信仰」について問61から見ましょう。
問61 キリストを信じるとは、どうすることですか?
答 自分の救いのために、キリストのみに信頼することです。
問62 自分の力で、悔い改めてキリストを信じることができますか?
答 いいえ。聖霊がわたしの心を変えないかぎり、悔い改めて信じることはできません。
問63 どうすれば、聖霊の助けを得ることができますか?
答 神さまは、聖霊の助けを祈り求めるようにと命じています。
キリストを信じるとはキリストのみに信頼することです。私たちにとって、罪を悔い改めてキリストを信じることはとても大切です。それは自分の力では出来ないことで、聖霊が私たちの心を変えて、悔い改めてキリストを信じることが出来るように、助けを祈ること。毎日の生活の中で、とても大事なこととして、聖霊の助けをいただいて、悔い改めと信仰を持たせてくださいと祈ることが大事だと言われているのです。
ところが、「毎日祈ることが大事ですよ」と言われると、途端に「毎日祈らなければならないなんて、自分には難しいなぁ。しなければならないって言われたら、窮屈だし、疲れてしまうよ」と思う気持ちが生じないでしょうか。これは、他の事でも言えます。「勉強が大事、運動が大事、栄養バランスのある食事を採りましょう、礼拝は休まず行きましょう、奉仕をしましょう、聖書を読んで祈りましょう」…。どれもそれは大事な事です。けれども、慣れていないことを「したほうがいい」と言われると、なかなか続きませんし、もっと自由にさせてよという思いが心の中に積もっていくのです。
ヨハネの福音書6章で、イエスはわずかなパンと魚を五千人もの人たちのために増やしてあげて、十分に満腹させるという奇蹟をなさいました。それで群衆達はイエスを追っかけてきて、イエスに王になってもらえば、いつまでも食いっぱぐれなくて済む、と考えました。これに対してイエスは「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。なくならない食べ物を得る生き方とは何か。それは
29「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
とイエスは仰いました。すると群衆は
「じゃあ、あなたを信じられるように、しるしを見せてくださいよ。モーセの時代には荒野の何にもないところにマナを降らせて、民を養ってくださいました。ああいうしるしを見たら信じられます」
と言います。イエスは
「天の父があなたがたを生かして下さる。天からいのちを与えるパンを下さるのです」
と言います。信じるための証拠として奇蹟があるのではないですよ。奇蹟がなければ信じられない、ということではないですよ。天の父が、あなたがたを養ってくださるお方だ、そう仰るのです。そして群衆が
「その天からのパンとやらを私たちにお与えください」
と言われた時には、
「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」
と言われるのです。
イエスが仰る「信じる」は、イエスに信頼する、という言い回しです。イエスがパンなら、食べる。イエスが海なら飛び込んで泳ぐ。それが信仰、信頼です。ある方は
「信仰というとよく分からなかったけれど、信頼と言われたらとてもスッキリよく分かった」
そうです。信じるとは、イエスに信頼することです。私たちの救いや人生について、イエスに預ける、イエスに信頼して着いていくことです。私たちの側の信心深さとか信仰心が大事なのではなくて、イエスが信頼できるお方だと知って、お任せしていく。それがキリストへの信頼、信仰です。ここで群衆達は、イエスにでも神にでも、信頼して着いていこう、という考えはありません。「パンを食べて満腹したから、これからも満腹させてくれたらいいなぁ。自分たちに楽をさせてほしいなぁ。信じなさいと言うなら、しるしが欲しい、マナのような奇蹟か天からのパンを降らせてくれたら信じましょう。」そういう態度です。だから、イエスが「わたしがいのちのパンです」と言った時、ガッカリしてしまいます。全く話が噛み合っていないのですからね。
イエスに信頼すること。イエスが来られたこと自体が、神が私たちにいのちをくださるというしるしだと嬉しく思うこと。そして、イエスに信頼して歩んで行くことに、豊かないのちが約束されています。でもこれは、決して、強制は出来ません。「信じなければいけません」とか「信じるべきだ」といくら強く言われても、信頼することは出来ません。そもそも信頼とは強制や脅迫によっては決して出来ない関係なのです。イエスを信頼するよりも、自分の食べ物や生活の心配のことを考えている人に、いくら信じなさい、信じないとダメだと言っても、無駄なことで、かえって五月蠅く、脅すのがキリスト教伝道だと思わせてしまうことでしょう。そこから信頼は決して生まれません。
信頼は、相手が信頼に足る方だと分かることから生まれます。イエスが本当に信頼できるお方、嘘のない方人生をお任せしてよい方、私たちにいのちを与えるために天から来て下さって、私とともに歩んでくださる方だと、一生掛けて知っていく中で、信仰(信頼)が育っていくのです。聖霊が信頼させて下さることを求めて待つのです。
イエスは私たちに信仰を無理に強いません。聖霊が悔い改めと信仰を持たせてくださるよう祈り求めることも、強制や義務ではありません。勿論、それはしてもしなくてもどっちでも構わないことではないです。大きな益が約束されています。その大きな祝福が伴う祈りが私たちに与えられています。私たちも祈ることが出来ます。祈ってよいのです。私たちもイエスを信じて良いのです。いつでも教会に帰ってきてよいのです。信じたくない気持ちがあるなら、その事も聖霊に正直に祈ってよいのです。
「聖霊なる神様、私がいやいやイエスを信じるのでなく、心から信じられるように、イエスの素晴らしさを教えてください」
と祈っても良いでしょう。どんな時も私たちは、祈って良い。神は私たちの祈りを聴いてくださいます。イエスは「わたしに信頼しなさい」と私たちに仰ってくださいます。どんな時も、私たちはイエスに信頼することが出来ます。そして、イエスは信頼する私たちを強めて、いのちを豊かに持たせてくださいます。クリスマスは、イエスが私たちの「いのちのパン」として来て下さったというメッセージです。
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