聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

2018-04-15 20:43:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/15 ハ信仰問答118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

 祈りについて今まで二回見てきました。それは絵にするなら、聖書に基づいて、私たちがともに祈る、こんな姿に出来るかもしれません。

今日はその続きの118です。

問118 神は私たちに、御自身に対して何を求めるようにとお命じになりましたか。

 皆さんなら、神は私たちに何を求めるようお命じになっていると思いますか? どんな祈りを神は喜ばれるでしょう。逆に、「こんな願いは神に祈ってもなぁ」と思って遠慮した方がいいことはあるのでしょうか。ハイデルベルグ信仰問答はこう言います。

答 霊的また肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます。

 天の神は、必要なことをすべて求めなさいと言われます。ただ信仰や礼拝だけでなく、霊的また肉体的に必要なすべてを祈るのを待っておいでです。今日食べるパンや健康、環境、睡眠など体のことから、信仰や聖さ、聖書の学び、誘惑からの守り、愛を行う勇気…。要するに、霊的また肉体的、というのは、見える必要も見えない必要もすべて、ということです。そうした全てを神に祈り求めるようにと聖書は教えています。

ヤコブ一5あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。

 ここでは知恵も求めるよう言われています。「私は知恵が無くて、もっと知恵が欲しいけどそんなこと祈ったら我が儘だろうなぁ」などと思わず、祈っていいのです。嬉しいことだと思いますね。今日から祈りましょう。でも

「少しも疑わずに、信じて求めなさい」

以下はちょっと厳しすぎると思うかもしれません。私たちは少しも疑うなと言われても、まだ不完全な信仰で、神の偉大さを十分に理解するには到底足りません。ですからここでも、ちょっとでも疑う心があってはダメだというのではなく、堂々と開き直って、疑ってかかる横柄な態度を言っているのでしょう。大事なのは、私たちの側がどれほど神の養いを信じるに足りないとしても、神はすべての良い物を十分に下さって、私たちを養い、喜び、完全な賜物さえ与えてくださっている、という揺るがない真理です。それを人間の浅はかな考えで疑うなんて態度は慎みなさい、と戒めているのです。

17すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

18この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。

 天の父である神は、私たちに全ての良い贈り物を下さり、全ての完全な賜物まで下さって、私たちを生み育てて下さるお方です。そして、神は私たちが霊的にも肉体的にも何を必要としているのか、熟知しておられます。

 最近、こんな図を見つけました。

 ここには人間の持っているニーズ(必要なもの)が九つにまとめられています。ただ食べるものがあれば人間は生きていくのではないのだなぁと気づかされますね。安全も必要です。休息(睡眠、休暇)も大切なのは、十戒で「安息」が命じられている通りですね。目的や意味、生き甲斐もなければ、人間の心は死んでしまいます。コミュニティ、仲間、支えてくれる人、所属できる居場所は本当に必要。共感してもらうこと、心と心が通い合うことがないと生きていけないのは、人間はロボットではないからです。愛、これこそ必要です。喜ばれ、尊重され、大事にされること。失敗や挫折や大きな変化や喪失をしても、変わらず自分の価値を重んじてくれる愛。しかし、愛だけで良いわけでもありません。生命の維持、食事や健康も必要です。そして、自主性。自分の意見を持てる事。自分で選択できる事。自分らしさを受け入れてもらうことも、子どもの頃から必要です。最後に創造性。何かを造り出す事、新しい物を生み出したり、創作したり。神は世界を創造されたお方ですから、神は私たちにも創造性を下さって、何かを生み出す事に喜びを感じたり、それを認めてもらう事に自信を持ったりするように、人間の心を作っておられます。

 こうした沢山の面があって、私たち人間は初めて、満たされて生きることが出来ます。そして、この全てに神が関わっておられます。私たちは、こうしたすべての必要を神に祈り求めるよう言われています。勿論、聖書には聖書の表現で、私たちの祈りの模範が沢山ありますが、そこにも私たちは驚くほど豊かな、私たちの生活の必要を網羅した願いを見る事が出来るのです。パウロはピリピの教会にこう勧めました。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 その願いを神が叶えて下さるとは限りません。しかしそれは、神が私たちの必要をご存じない、ということではありません。私たちは自分にこれがどうしても必要だ、適わないと死ぬ、自分はお終いだ、なんて気持ちで色々な事を願うでしょう。でも、その願い通りでなくても、別の方法でもっと素晴らしく神はあなたの必要を満たしてくださるかもしれません。私たちが本当に求めている必要を、神はご存じです。そして、私たちの必要を豊かに答えてくださいます。その事を信頼して、私たちは人知を越えた神の平安をいただくことが出来るのです。次回から主の祈りを見ていきます。主の祈りには、イエスが教えてくださった、私たちの必要な願いのエッセンスがあります。私たちが自分の毎日の必要を、願いを神に祈るとともに、主の祈りや聖書の言葉を通して、イエスは私たちに、本当に必要なことを教えてくれます。そうして、私たちがシンプルでも、豊かに満たされて生きていく事が出来ます。もう一度言います。何も思い煩わないで、どんな時にも、願い事を祈り、献げて、満たして下さる神の平安をいただきましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 使徒の働き二一章17-32節「... | トップ | 問117「祈りは聞かれます」ル... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ハイデルベルグ信仰問答講解」カテゴリの最新記事