聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き16章19-34節「あなたの家族も」

2018-02-04 17:23:24 | 使徒の働き

2018/2/4 使徒の働き16章19-34節「あなたの家族も」

 31節「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」

 この言葉に励まされ、また「本当にこの言葉通りになるんだろうか」と疑いながら、信仰の歩みを始めて、歩み続けて来た方は少なくないでしょう。改めてこの言葉のエピソードを味わいます。

1.ピリピの町で

 十五章の最後でパウロはバルナバと別れて、シラスとともに第二回伝道旅行に出発しました。第一回伝道旅行の開拓教会を再訪問して教会を力づけて、そして思いがけず、初めてエーゲ海を渡ってマケドニアに入り、ヨーロッパでの宣教が始まりました。その最初がマケドニアの主要都市の一つ、ピリピでの伝道です。今日の箇所は、そこでの出来事で紹介されている、投獄と地震と看守の入信という出来事です。そしてそこにあの31節が埋め込まれています。[1]

 パウロはこの直前に

「占いの霊」

に憑かれた女奴隷からその「霊」を追い出しました。すると彼女の主人たちは逆上してパウロとシラスを訴え、二人は鞭で打たれて牢に入れられます。鞭打ちで背中の皮がむけ、当然痛いのです。夜も眠れたものではありません。だから二人は真夜中にも起きていたのでしょうか。痛みで愚痴ったり呪いを呟いたりも出来たでしょうが、25節には

「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」

とあります。痛みを我慢して賛美していたというより、痛くて辛くて泣きたい思いも祈っていたかもしれません。パウロは呻きや苦しみを知っていた人です。それを神に祈り、神が聞いてくださる慰めを語った人です。そこから、神を賛美する歌が、口先でなく心から歌えます。そして二人は神を賛美していました[2]

26すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。

27目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

 囚人たちは逃げることも出来たのに、逃げようとしなかったのは、地震や鎖が外れたことへの驚きよりも、パウロとシラスが囚人でも神を賛美している歌のほうがもっと深い、聞き逃したくない衝撃だったからかも知れません。そしてパウロとシラスも逃げませんでした。不思議な地震だ、鎖も外れた、きっと神の導きだ、逃げるチャンスだとは考えなかったのか、まだ鞭打ちの傷が痛くてとても逃げられなかったからかも知れません。そして、パウロは自害しようとする看守に大声で呼びかけて、あの有名なやり取りになるのです。

 当時、囚人が逃げた場合、逃がした看守や番兵は責任を取って囚人達の受けるべき罰を身代わりに受けるのが決まりでした。看守は囚人が逃げたと思い、自分に全員の刑罰が降りかかることを考えたのでしょう。それならもう死んだ方が楽だと思ってしまったのでしょう。でも、パウロは看守が死んでもいいとは思いませんでした。大声で

「自害してはいけない」

と言いました。

「私たちはみなここにいる」。

 こう叫んだパウロの思いに胸が熱くなります。

2.「主イエスを信じなさい。あなたもあなたの家族も」

 看守はパウロとシラスの二人に

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」

と言います[3]。この

「救い」

は明らかに自分の立場や処罰の問題ではありません。鞭打たれて奥の牢に繫いで構いもしなかった二人が、それでも神への賛美を歌っていました。逃げられる時にも逃げようとせず、かえって自分を案じてくれ、

「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」

と叫んだ。そこに彼は自分にはないものを見たのです。「仕事で大きな失敗をしたからもうおしまいだ」、そういう彼の常識や世界を引っ繰り返す強いものを見たのです[4]。彼は二人を「囚人何号」ではなく

「先生方」

と呼んで

「救われるためには何をしなければならないのか」

 つまり「あなたの持っている救いを私にも教えて欲しい」と乞うたのです。すると、

31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」32そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。

 これは、

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます。あなたの家族もです」

という事です[5]。あなたが主イエスを信じさえすれば、自動的に家族も芋づる式に救われる、ではありません。だからパウロは32節で、彼だけでなく彼の家にいる者全員にも主の言葉を語りました。33節で家族全員が洗礼を受けました。34節で一緒に食事をしながら、

「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」

のです。家族も主イエスとはどういうお方で、そのお言葉がどういうものかを聴き、教わり、家族全員でそれを信じて受け入れて、洗礼を授かり、それを心から喜びました。決して、パウロは看守に、まだよく分からないまま「主イエスを信じるか」「はい信じます」では洗礼を授け、それだけで家族も、主イエスが誰で、救いとはどんな救いなのかもよく分からず、神を信頼すべき事も罪の悔い改めも願わないまま、救われる-そういうことはあり得ません。もしそんな無理矢理の「救い」なら、それ自体が喜びどころか暴力です。一人一人が主の言葉を聴き、その素晴らしさに心を打たれ、一緒に神を信じて本当に良かったと、心から言えるようになっていく、そういうプロセスがあるのです。

3.家族への広がり

 もっと大事なのは、

「あなたの家族も」

はパウロたちから言われたことです[6]。看守は「私が救われるためには何をしなければ」と聞いたのに、帰って来た答が「あなたの家族もです」。どんな思いになったでしょう。そして一緒に主の言葉を聴いて、一緒に洗礼を受け、一緒に食事をして、神を信じる喜びを分かち合う…それは彼が考え願った以上の「救い」でした。人が家族を案じるに先立って、主は家族にも働いてくださるのです。十六章前半のピリピ宣教でも、15節でリディアがその家族と一緒に洗礼を受け、パウロたちを家に迎えました。リディアだけでなく家族も新しくなりました。キリスト教は、自分の救いだけでなく、周囲にもその家族にもと喜びが広がる救いです。また、そのような大きな神の御手の中に、自分の家族を見るようになり、大事にするようになる変化です。ただの「魂の救い」以上に、今ここでの生き方や関わりも新しくされるほどの「主のことば」に教えられて、今ここで神を信じる喜びで生きるようになる。だから、私たちも自分の家族の救いを信じて期待できます。なかなか家族が信じてくれなくてもどかしい思いをして祈る時にも、私よりも先に救いを用意されている主を信じることが出来ます。「まだ信じていない頑固者」と裁くのではなく「主に招かれている尊い人」として見るように変わりたいですし、何があっても「自害してはいけない。絶望してはいけない。私はここにいるよ」。そう励ますよう変えられるのです。また、自分がその人に代わって信じることは出来ないのですから、その人が主を信じて、御言葉の素晴らしさを知って信じたくなるよう支える。そのように私たちが、主の大きな御愛で家族を受け止める「救い」です。

 パウロの第二回伝道旅行は、青年マルコを連れて行く行かないでバルナバと決裂して始まりました。新しい伝道計画が二度も禁じられました。恐らくパウロの病気のせいでしょう。そうして思いがけずエーゲ海まで来たことが、初めてのマケドニア宣教になりました。でもピリピで捕まって鞭打たれて、牢に入れられて。しかしそれがあったから、この看守とその家族の救いがあったのですね[7]。神の導きは順風満帆で穏やかではありません。人を育てる難しさ、意見の違いや方針転換、病気や回り道、非難や痛む体を押しながらの歩みです。そこでの出会い、その広がりにどんな意味があるのか、すぐには分かりません。自殺したくなる出来事だってあり、家族がいても孤独だったりします。そんな世界だからこそ、まず私が主に出会い、御言葉を聴き、喜びに与ったことが、決して自分独りの救いでは終わらない。家族や周囲への祝福となるために主が導いておられるに違いないと、信じて、祈って、喜んでいきたいと願うのです。

「主よ。あなたが私たちの家族や周囲の人々をも深い恵みをもって見て下さっていることを感謝します。私が自分のことしか考えられず、家族を忘れたり裁いたりしているとしてもあなたはもっと大きな愛と尊いご計画をもって導いておられます。どうぞ私たちの傷も、精一杯の歌声も、ここにいる存在をも用いてください。あなたの救いが届けられるのを待ち望んでいます」



[1] この他、10節で「私たち章節」が始まります。「使徒の働き」の著者ルカが同行したことを示す大きな変化です。こうした意味の多い十六章です。

[2] ここにわざわざ「ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」とあります。二人の歌が上手いとか美しくハモっていて聞き惚れていたではなく、鞭打たれて牢獄に繫がれて、なお神を賛美している二人に驚いて、興味津々で聞き入っていたのでしょう。

[3] 持っていた剣を灯りに代えて牢の中に駆け込んで、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、それから二人を外に連れ出して、という詳しい描写に、看守の心中の動きが現れています。それを伝えようと詳細に記すルカの意図も、人間の恐れ、不安、変化に向けられています。

[4] 看守は牢の外で鍵を持っていましたが、自分のほうが囚われていて、地震や奇跡でひとたまりもない生き方の奴隷だと気づいたのかも知れません。

[5] 「救われます」は二人称単数で「あなた」だけにかかっています。そして最後に「そして、あなたの家族も」と加えられる文章なのです。

[6] 看守が自害した時、家族のことは考えたのでしょうか。それまでも家族との関係はどうだったのでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます」で終わらず、

[7] この出来事は、主イエス御自身とも重なりますし、旧約での創世記終盤のヨセフ物語とも重なります。

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