聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問86「感謝で生きるしあわせ」コロサイ1章9-14節

2017-09-03 21:21:32 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/9/3 ハ信仰問答86「感謝で生きるしあわせ」コロサイ1章9-14節

 今日から読んでいくハイデルベルグ信仰問答の86から最後の129まで、第三部になります。第一部では「人間の悲惨さ」、第二部では「人間の救い」がテーマでしたが、この第三部は「感謝について」というのです。悲惨に陥った人間が、神の恵みによって救われて、その後の生き方を「感謝」という言葉で語っていくのです。キリスト者の生活を特徴付けるのは神への感謝です。これは今までにもお話ししてきましたし、これからも何度もお話しする事です。今日もう一度この事を一緒に分かち合えるのが感謝です。

問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善き業をしなければならないのですか。

 問いは実に真っ直ぐな問いかけです。なぜ私たちは善き業をしなければならないのですか。キリスト教の福音は、自分が善い行いをすることによって救われることは出来ないと教えます。ただキリストの恵みによって救われるのです。それを信じて戴くのですけれども、その信じる信仰さえ、キリストの恵みによるのです。だから、救われるために善い行いをする必要はありません。だったら、なぜ私たちは善き業をしなければならないのですか。そう改めて問い直すのです。

 ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀まで、教会には善い行いをしなければ救われない、という考え方が入り込んでいました。それに対して、宗教改革者は善い行いをするから救われるのではない。でも、だから善い行いが要らないのではなくて、感謝をもって善い行いをしていくのがキリスト者の歩みなのだ、と言ったのです。ハイデルベルグ信仰問答はその路線で、しかもとても美しく、私たちの生き方を説明しています。神様の恵みによって救われたことへの感謝。これが、私たちの新しい生き方です。

答 なぜなら、キリストはその血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自分のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。

という言葉は、救いというのが私たち自身の変化であることを教えています。ただ、救われて滅びない、ではなく、新しい生き方が始まるのです。その特徴が「感謝」だと言えます。しかし、注意して欲しいのは感謝とは「恩返し」という意味ではないということです。神様に恵みを頂いたのだから、その恩に報いて、善いことをする。そういうことではありません。そうでないと、善いことをしなければ「恩知らず」という事になる。神様の恵みに恩返しをするべきだから善いことを励みましょう、という意味ではないのです。この違いは微妙ですが、決定的なことでしょう。その違いを表すのは、ここにある、キリストが

「ご自身のかたちへと生まれ変わらせてくださる」

という言葉と

「敬虔な」

という言葉です。この二つの言葉を手がかりに、考えてみましょう。この

「敬虔な」

はインテグレートという言葉で、全体が調和している健全さという意味です。本当にその人が調和して、自分の願い、喜び、必要が満たされる状態です。統合していること、バラバラだったものが一つにまとまっていくこと、そういう状態です。それと私たちがキリストの形へと生まれ変わっていくことは繋がっています。私たちは神のかたちに造られた存在です。その本来の人間らしい生き方、神に似るようにと造られた人間の調和を取り戻してくださるのです。それがキリストの救いです。

 私たちには色々な必要があります。安心したい、認められたい、愛されたい、役に立ちたい…。それは神様が人間に下さった大事な願いです。どれも大切な人間の必要です。しかし、神から離れて人間は自分が分からなくなり、バラバラになり、必要が満たされない生き方になりました。

「自分で何をしているか分からない」

 これはイエスもパウロも口にした人間の現実です。愛されたくて偉そうにしたり、役に立ちたくて張り切りすぎたり、認められたくて「良い子」「良いクリスチャン」のふりをして、でもそれで疲れて、こっそりと欲望を満たしたり、バラバラな生き方、結局自分が何をしたいのか分からない生き方をしてしまうのです。イエスの救いはそういうバラバラだった私たちが調和し、満たされ、健全になるという救いでもあります。私たちを愛し、理解し、成長させ、楽しみを下さいます。心配しなくてもよく、神の家族という居場所を下さいました。こうして本当に深く神の恵みに満たされる時、本当に私たちは調和していきます。神の恵みに感謝するほかありません。神が私たちを新しくし、私たちのすべてを受け入れてくださる時、私たちは神に感謝しつつ、喜んで生きるようになります。心から善い生き方をするように変えられます。神を喜ばせるため、恩返しをするため、ではなく、神に愛されている者として、善いことを喜んでするようになっていくのです。

 第一、キリストが私たちに下さった恵みは余りにも沢山で、決してお返しをすることは無理です。私たちの善い行いに価値がないということではなく、神の恵みが大きすぎて、豊か過ぎるのです。だからこそ、そんなにも愛されて、恵みを頂いていることを知る毎に、私たちは感謝が溢れ、その感謝の心から、善い行いをするようになる。

コロサイ一9こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。10また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。11また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、12また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 感謝に生きるようになる、その恵みの力を信じて、祈り合う教会でありたいのです。教会の歩みでも、「聖書を読むべき」「奉仕すべき」という言い方をしてしまうことがあります。しかし、そういう「べき」では、それ以上はしたくなくなるでしょう。そうではなく、神の恵みに深く根差し、自分自身の願いや必要と、お互いの必要とを一緒に大切にしていきたいと思います。その時、本当の恵みと喜びで成長していくと信じています。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 使徒7章48-60節「二つの叫び」 | トップ | 使徒8章1-24節「思いがけな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ハイデルベルグ信仰問答講解」カテゴリの最新記事