聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問23 ヨハネの黙示録十一章15節 「キリストは、預言者・祭司・王です」

2014-10-23 19:18:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/10/19 ウェストミンスター小教理問答23 ヨハネの黙示録十一章15節

                                          「キリストは、預言者・祭司・王です」

 

 「キリスト」とはどういう意味か、知っていますか。それは「油を注がれたもの」という意味のギリシャ語です。油を注ぐ? 聖書の舞台となったイスラエルの世界では、油を注ぐのがおもてなしであったり、おしゃれであったりしたのです。それよりも大切なのは、人の上に立つ大事な任務に着く時に、儀式として、油を注ぐということをしたのです。油注ぎの儀式をしたと書いてあるのが、特に、祭司と預言者、そして、王様です。そして、新約聖書の時代には、「油注がれた方」と言えば、神様から私たちのために任命されて来てくださる、すばらしい支配者、完全な王様のことを指すようになっていました。イスラエルの人たちが話していたヘブル語では「メシヤ」、そのギリシャ語訳が「キリスト」です。でも、もともとは油注ぎをしたのは、預言者と祭司と王という三つの指導者です。そこで、今日の所ではこういう問答をしています。

問 キリストは、私たちの贖い主として、どのような職務を遂行されますか。

答 キリストは、私たちの贖い主として、謙卑と高挙いずれの状態においても、預言者と祭司と王の職務を遂行されます。

 イエス様がキリストだ、ということは、どういうことでしょうか。それを分かりやすくするために、キリストとは、「預言者と祭司と王の職務を遂行される」と考えたらいい、ということです。ただの、「救い主」とか「助けてくださる方、愛して、守ってくださる方」でも間違ってはいないのですけど、聖書に出て来る「キリスト(油注がれた方)」はハッキリと、預言者、祭司、王に任命されたのですから、イエス様も私たちの預言者で、祭司で、王様、なのですね。次から詳しく一つずつ見ていって、その後に、

…謙卑と高挙…

についても見ることにしますから、今日は黙示録から、イエス様がどのように描かれているかを見ておきましょう。

ヨハネの黙示録十一15…天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

 この世の国はすべて、イエス様のものとなる。そして、主は永遠に支配される、というのは、言い換えれば、イエス様が王であられる、ということですね。メシヤを英語では「メサイア」と発音しますが、「メサイア」という長い音楽があってその一番有名な部分が、この言葉を歌詞にして歌う「ハレルヤコーラス」ですね。The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of his Christ! と歌い上げるのです。

 そして、同じ黙示録の一章に、イエス様がヨハネに姿を現す場面があります。イエス様が栄光に光り輝いて現れます。想像しながら、絵に描いてみてください。

ヨハネの黙示録一12そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

13それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

14その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

15その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。

16また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

 どうですか。七つの金の燭台とは教会のことだと書かれていますが、その真ん中に立っておられるのがイエス様です。足まで垂れた衣で胸に(腰にではなく)金の帯を締めているのは、正装している格好で、大祭司に通じます。頭も髪の毛も目も足も、燃えるように光り輝いていて、限りなく力強い。そして、

…口からは鋭い両刃の剣が出ており、…

とあるのは何でしょうか。これは、イエス様の口から出る御言葉です。神様の御言葉をもし見ることが出来るとしたら、それは、両刃の剣のように、鋭く、戦って負けることがないのですね。これは、イエス様の「預言者」としての面です。「預言者」という時は、未来のことを「予言する」ではなくて「言葉を預かる」と書きますね。神様からの言葉を預かって、人間に伝えてくれるのが預言者です。イエス様は、究極の預言者として、私たちに真理の御言葉をお語りになります。

 イエス・キリストを信じる、というのは、昔々、遠いユダヤでイエス様が十字架に掛かられたと信じるだけのことではありません。今、見えないけれどもどこかで私たちを見守っておられる、と信じることでもありません。十字架にかかり、よみがえられたイエス様は、今も生きておられて、私たちに真理の言葉を語っておられる預言者です。今も、私たちと天の神との間に立って、私たちの手をとって、神様に執り成していてくださる大祭司です。私たちの世界の真ん中に立っておられて、私たちを支配しておられる王様です。もし、このようなイエス様でなかったなら、私たちはどうなったでしょうか。私たちは神様から真理を教えられることがなくて、真っ暗な世界で迷うしかなく、不安で愚かな生き方をするしかなかったでしょう。でも、イエス様は私たちの預言者として、私たちに生きた御言葉、剣のような力強い真理を教えてくださいます。

 私たちは、神様の前に出ることなど出来ないし、神様に怒られて滅ぼされるしかない醜い罪の心がありますが、イエス様は私たちの大祭司でもあられます。私たちひとりひとりのすべての罪を取り扱って、神様の前に出られるようにしてくださいます。

 そして、真理を知らされても、罪を執り成して頂いても、それでも逃げ出すかもしれない、勝手なことをしてしまいかねない私たちをも、イエス様は「王」として治めて、しっかりと支配しておられます。私たちの歩みだけでなく、私たちの心も治めて、また、私たちに降りかかる悪い事も、この世界の全てのことを支配していてくださいます。そうやって、私たちを、罪と悲惨から確かに救い出してくださるのが、イエス様なのです。

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