2016/04/24 ハイデルベルク信仰問答8「生まれ変わる恵み」ヨハネ3章3~5節
誰もが、多かれ少なかれ、「自己嫌悪」とか「劣等感」を持っているのではないでしょうか。また「人生をもう一度やり直せたら」という願望があって、そうしたドラマが流行るわけです。今日の説教題「生まれ変わる恵み」という言葉をよくよく考えてみるなら、「私を生まれ変わらせてくれる神様がいるなら、そうしてほしい」と思う人は決して少なくないと思うのです。でも、そんなことは諦めている人もたくさんいますね。先に読みました、ヨハネの福音書3章でも、ニコデモは年配だったのでしょう。
ヨハネ三3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
とイエスに言われながら、■
4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。
と答えるのです。自分は新しく生まれるなんて無理ですよ。すると、
5イエスは答えられた。まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。…
新しく生まれるとは、母親のお腹にもう一度入り直すことではない。それは、水と御霊によって生まれ変わることです。「水と御霊」とは、当時の言い方で、水のような働きをする御霊、ということです。神の聖霊が私達を洗って、新しくして下さる、ということです。水による洗礼は、その洗いを象徴する儀式で、洗礼で受ける水に力があるのではありません。神の聖霊が、私達を洗って、新しく生まれさせてくださり、神の国を見るようにしてくださる、というのですね。自分で何とかして母親のお腹に入るとか、そんなことを例え出来たとしても、それで人は新しく生まれ変わることは出来ません。タイムマシンや魔法を使って、過去に戻ることが出来たとしても、それで幸せになることは出来ないのですね。なぜなら、問題は、もっと深く、私達の心にあるからです。
問8 それでは、どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。
答 そうです。わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは。
とても強い言い方がされています。
「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている」。
そんなに悪いですか。今の震災でも、ボランティアや募金に沢山の人が惜しみなく捧げていますよね。人の行動の美しさや立派な奉仕や自己犠牲の生き方に、私達は心を打たれます。私にはとても叶わないことをなさる方がたくさんいます。だからそういう人を否定して、人は全く良いことをせずに、あらゆる悪いことしかしないのだ、と言うのだとしたら、とてもそれは傲慢で、間違った、失礼な言い方です。
しかし、同時にやはり私達は、善意や立派な行動にも、すぐに競争とか、下心とか、甘えなどが入ってくる現実も目にしています。救援活動の現場ではガッカリするような見栄や甘えも目にします。
三浦綾子の『氷点』という小説があります。主人公が、自分の娘を誘拐されて殺される。しかし、主人公はその犯人の娘を、自分の養女に引き取るのですね。彼は聖書の言葉のように「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に強い憧れを持っていて、犯人の娘でも愛そう、という思いがありました。でも、同時に、娘が誘拐されたときに、自分の妻が娘にかまっていなかったことを恨む思いもあったのです。その妻を罰したくて、犯人の娘をそれと知らずに愛し育てる所を見てやりたい、と言う醜い復讐心もあった。そういう相反する二つの思いが同時に主人公の心にはあった、と言うお話しです。善や愛や誠実さを願うし、人の悪を批判するのです。でも、同時に、恨みとか復讐心とか、自分の損得やあわよくば、という思いもあるのが人間です。
シモーヌ・ヴェイユという女性が『重力と恩寵』という本を書いています。私達の中には、人を押しのけようという思いがある。その下へ向かう力、悪くなり、滅んでいこうとする傾向は、まるで「重力」のように私達の中に働いている。そこから上に上らせるのは、ただ神の「恩寵」(恵み)による以外にないのですね。自分の力や良いことを積み上げることによってではなく、ただ神の恵みによって引き上げて戴くことで、重力のような罪から私達は救われるのです。それを私達は待ち望むだけです。そう、シモーヌ・ヴェイユは書いたのです。今日の問8を読んで思い出すのが「重力と恩寵」です。
神の御霊は、悪に傾いてしまう私達を生まれ変わらせてくださいます。それだけが私達の唯一の望みです。とはいえ、それは、すぐに心が丸きり新しくなって、どのような善も行えるようになって、あらゆる悪に傾かなくなる、という意味ではありません。ここではそんなことは言っていません。「私達は堕落しているのです」と言っているのであって、「堕落していたのです」と過去形では言いませんね。ただ、神の御霊によって再生されることによって、堕落している私達の中に変化が始まったのです。ですから、まだ自分の中に私達は狡さや悪い心、悪への傾向があるのを忘れてはなりません。自分はもう神の御霊を戴いたのだから、善意で生きています、悪い思いはなくなりました、などと自惚れてもおかしな事になります。でも、自己中心の思いや罪があるからといって、自分がダメだ、まだ再生されていない、と悲観する必要もないのです。悪への重力があるからこそ、神の御霊による恩寵が私達を新しくしてくださる希望があるのです。
「救いの確信」という言葉があります。自分は神の救いに確かに預かっている、と信じることです。皆さんはどうでしょうか。自分は神の救いに確かに預かっていると信じていますか。ある方がこう教えてくれました。心や生き方が汚れていて、「自分なんかが救われるんだろうか」と思う事がある。でも、そのように自分の罪や堕落ぶりを、自覚できること自体が、聖書によれば、神の御霊によって初めて持つことが出来ることです。御霊によって再生されなければ、自分が神の恩寵を必要としている、と正直に認めることなど出来ません。だから、自分なんかが救われるんだろうか、と思うこと自体が、御霊によって再生され始めている証しです。御霊は、私達の中に働き続けている重力よりも強いお方ですから、確実に救いを完成させてくださいます。救いを確信してよい。これは私にとって、本当に有り難い慰めでした。生まれ変わらせて下さる御霊のお働きを信頼しましょう。どんなに悪への傾きを痛感しようとも、神のご計画を信じましょう。
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