聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問1 「神の栄光を現すために」ローマ十一33~36

2014-10-07 10:25:35 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/04/27 鳴門キリスト教会夕拝説教ウェストミンスター小教理問答1

「神の栄光を現すために」ローマ十一33~36

 

 聖書の最初の言葉は、「初めに神が天と地を創造した」です。神が天地を創造したことをスタートラインとする聖書の信仰を、今日のところではこう言い換えています。

36…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 天も地も、すべてのことが神によって造られ、神によって存在し続けており、神を目的としている。そういう偉大な神様を、永遠に栄光をお受けになるお方として賛美することが相応しい。そういう告白を、私たちも常に確かめて、深めていきたいと思います。

 私たちも、神様によって造られました。神様が、この世界をお造りになったと同じ、御計画と不思議な力をもって、私たちをお造りになり、生かしておられます。ですから、私たちは、神様の尊い作品です。

「人のおもな目的は、何ですか。答人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」

 ウェストミンスター小教理問答という本の一番初めの言葉です。私たち人間の何よりの目的(ゴール)は、神の栄光を現すことだ、というのですね。幸せになること、でも、有名になる事とも言いません。友達を沢山造ることや人の役に立つ事も、それはそれで大切です。でも、それが目的ではないのです。世界が存在しているのは、神様がお造りになったからです。私たち人間も、神様がお造りになったものです。神様は、私たちを通して、神様の素晴らしい栄光を輝かせたいと思われたのです。

 クリスチャンは、人間の罪を確かに強調します。イエス様が十字架に掛からなければ赦されようがなかったほどの、罪の重さを薄める事なく信じます。けれども、聖書は私たちが元々罪人で愚かで、汚れて、価値がないと言っている、と考えるなら、それは誤解です。そうではありません。聖書は、私たちが、天地をお造りになった神の作品である、と教えます。原点は、その栄光ある神様です。もしも、その神様の作品を、人が「私なんか、詰まらない、ダメなものだ」とばかり言っているなら、謙遜のつもりでも、造り主なる神様に対して、失礼なことを言っていることになりますね。神様も、失敗したのかもしれない、と言いますか。それもまた、神様に対して、失礼ですね。

 勿論、人間が罪人となったのも事実です。でもそれは、神の栄光を現すべき目的を捨てて、神を疑い、神に背いたから、そこにあった本来の素晴らしい価値がなくなった、ということです。電球や蛍光灯には、電気の力で光り輝くという大事な使命があります。それなのに、コンセントを抜いてしまって、いくら自分の長さを自慢したり、ピカピカに綺麗にしたり飾ったりしても、何にもなりません。まして、人間は、この世界の中でも、神様のかたちに造られて、神様との親しい関係を与えられて、神の素晴らしさを輝かせるために造られたのに、その神様との関係を切ってしまったのなら、いくら人間の間で褒められるようなことをしようと頑張ったり、有名になったりしても、何の価値もありません。だけど、それはその人にもともと価値がない、という意味ではなくて、その逆に、もともとは物凄く価値があるのにその価値を放り出して、違うことを目的としている、そんな事に人の価値はない、それは本来の価値からしたら何の意味もない、という意味です。

 このローマ人への手紙を書いたパウロ自身、この言葉を深い感動をもって書いているのだと思います。以前のパウロは、イエス様を知りませんでした。とてもマジメに、一生懸命、神様を喜ばせようと思って、正しいと思った事ばかりしていました。誰よりも頑張って神様に褒められようと思っていました。でも、そうやって燃えていた時に、イエス様が彼に現れてくださいました。そして、自分がやっていた事の間違いに気付きました。でもそればかりではありません。自分が一生懸命、人一倍頑張る事で神様が喜ぶのではない、と気付きました。イエス様は、神様に背いた人間のために、十字架にかかってくださいました。イエス様にそうしてもらうだけの良いところが人間にあったのではありません。むしろ、滅ぼしてしまった方がいいような反逆者たちでした。でも、イエス様は、その人間たちの救いのために、限りなく低くなられて、十字架にまでかかってくださいました。その神様の大きな愛は、私たちが何かをしたから、良い事をするから、もらえるような、そんなちっぽけなものではありません。主イエス・キリストが示されたように、本当に大きく、深い愛でした。そして、パウロは、自分が正しく生きよう、人より頑張って遮二無二生きるという生き方から、一八〇度変わって、正しく生きようとしても人を傷つけて、間違ってしまう、そんな私をも愛して、考えられないほどの犠牲を払ってくださった神様の、赦しの恵み、大きな愛を証しするようになりました。自分をピーアールするのではなくて、神様の栄光を伝えるようになったのです。

 神様の栄光を現す、というのは、何かすごく立派な事や、ビックリするような特別なことをする、ということとは違います。神様は、この世界をお造りになるぐらい、力があり素晴らしい方ですが、人間がいくら強がったりすごい事が出来たりしても、そんなものは神様の偉大さを現すというには儚はかなすぎます。神様が人間に望まれたのも、そういう大きさではなくて、むしろ、神が愛なるお方、慈しみ深く、真実なお方である、という面を現すために人間をお造りになったのです。教会が立派な大会堂を建てたり、沢山の立派な人たちが集まる華やかな社会になったりしても、神様の栄光は輝かせません。むしろ、私たちが、心から受け入れ合い、違う者同士、尊重し合うようになることから、神様の栄光を現す事が始まるのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛し、隣人を自分のように愛することが、最も大事な命令だとイエス様は仰いました。それは、神様が人間をそのような者としてお造りになったということです。

 私たちの周りには、色々な雑音が溢れています。幸せになるためには、あれも必要、これも必要。神様よりも、お金の方がいい。神様なんて助けちゃくれない。人生を無駄にして、負け犬になるな。どれも、神様から私たちを引き離そうとします。でも、イエス様を見上げましょう。イエス様は、神様から離れたこの世界のまっただ中に来て下さいました。そして、十字架で死なれて、三日目によみがえられたのです。神の子イエス様は、私たちが神様に背いていた時に、すでに私たちのために犠牲を払って下さいました。そのイエス様の言葉に、耳を傾けるとき、私たちは自分が神様に造られた、尊い者である事を知らされて、安心することが出来ます。神の栄光を現すために何かをする、というよりも、イエス様によって、神様の限りない栄光を既にいただいている。その恵みに喜び溢れて、聖書に従って生きることが、神の栄光を現すのですね。それが、イエス様の福音です。

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