聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問101-102「神の誓い」エレミヤ書4章1-2節

2017-12-03 17:12:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/26 ハ信仰問答101-102「神の誓い」エレミヤ書4章1-2節

 今日も十誡の第三戒

「主の御名をみだりに唱えてはならない」

という言葉をお話しします。私たちも自分の名前がどう呼ばれるか、大切に名前を呼ばれるか、馬鹿にされたりからかって名前を噂されるかどうか、とても気になるものです。まして本当の神の名前を、私たちが丁寧に呼ぶことはとても大切なことです。かといって、名前を恭しく唱えなければ、と一切神様の名前を呼ばない、というのもおかしな話になります。今日はそうした極端な間違いの一つ、「誓い」「誓約」のことを取り上げます。

問101 しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。

答 そのとおりです。為政者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合、です。なぜなら、そのような誓いは、神の御言葉に基づいており、旧新約の聖徒たちによって正しく用いられてきたからです。

問102 聖人や他の被造物によって誓うことはよいのですか。

答 いいえ。なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと、呼びかけることであり、このような栄光はいかなる被造物にも帰されるものではないからです。

 ここでは二つとも「誓約」(誓い)が取り上げられています。自分の考えや行動の裏付けとして「神」を持ち出すことはよくあります。「神がこうなさったのだ」とか「神も罰せられるだろう」などと言う場合です。もっとハッキリ「神の前に誓う」形もありました。

 このハイデルベルグ信仰問答が作られた16世紀、社会では、神の前に誓うことがありました。裁判所での証言、結婚の誓約、またここで「為政者が」とあるように、政治の場面や公職に就く場合、神の前に誓約を立てることがあったのです。ところが、その頃、極端な改革をする人々は、そういう誓約もしてはならない、と考えました。なぜならイエスが「山上の説教」で

「誓ってはならない」

と仰ったからだ、というのです。確かにイエスは、当時の人々の「誓い」に対する姿勢を非難なさいました。神の名前は使わずに、天やエルサレムを指して誓っては、いい加減に済ませる、というのが当たり前だったようです。そこでイエスも厳しく、誓うよりも、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい、と仰いました。

 この言葉を拡大解釈して、「もう一切誓わない、イエス様が仰ったのだから、誓約することは禁じられています。誓約は罪です」と考える運動がありました。そうすると誓約が求められる仕事にはつけません。政治家や公の仕事には就任する際に誓約が求められていましたから、彼らは最初から国や市のことには携わらず、社会そのものを軽蔑するような、とても極端な運動になっていったのです。こういう運動を意識して、今日の問101では

しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。

答 その通りです。…

と言います。イエスが仰ったのは、誓ってはならない、誓約することは罪だ、ということではありません。為政者が国民に求める場合もあるし、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合もある。そしてそう言えるのは、聖書の御言葉の中に、沢山の誓いの例があるからです。旧約聖書でも新約聖書でも、誓約の良い例はたくさんあります。だからイエスが仰った一箇所の言葉の字面だけを取り上げて、「誓ってはいけないと言われたのだから誓ってはいけないのだ」という考えを窘めているのですね。

 また、今日読みましたヘブル書の言葉では、神ご自身が「誓った」とありました。神が誓われて、キリストを私たちの大祭司として立てることを誓ってくださいました。

ヘブル人への手紙7章21節この方は、ご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました。「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」

22その分、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです。

 神が誓うなんて、本当は不必要ですね。神の仰ることを私たちはそのまま信じ受け取れば良いのです。しかし、神はご自身の言葉の確かさを私たちに確証するために、わざわざ誓って、本当だよ、偽りではないよ、と強く仰ったのです。ですから私たちも、誓いがなくてもいつも真実を語り、必要な場合は誓うことも躊躇ってはならないのです。問102の通り、私たちは

「ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、私が偽って誓う時には私を罰してくださるようにと、呼びかける」

 そういう正当な誓いをするのです。誓わなければ良いとか、神の名以外のもの(聖人や他の被造物)に誓うのであれば良いとかではないのです。いい加減な事を言わずに、全てを知っておられる神の前に、心の奥までもご存じである神の前に正直に語れば良いのです。

 しかし聖書には、間違った誓いの例も沢山あります。国主ヘロデは酔った勢いでとんでもない誓いをしました。弟子のペテロは殺されるのが恐くて

「イエスを知らない」

と呪いをかけて否定しました。そういう場合、間違った誓いでも果たすべきでしょうか。嘘で誓った場合、それは許されない罪なのでしょうか。いいえ、イエスはペテロを愛されました。言葉で間違うのも人間です。その場合は謙って自分の非を認め、良い形で責任を取って事態の収拾に努めるべきです。そのような回復を、主は助けてくださいます。

 主は本当に真実で恵み深いお方です。主の御名には、主の御真実が凝縮されています。だから私たちは主の御名をみだりに唱えてはならず、主を恐れ、愛し、賛美しつつ御名を口にするのです。主もまた、私たちに御名をみだりに唱えるなと命じるだけではありません。実に主は、ご自身の御名を聖書の中で繰り返し、新しく教えておられます。

 

 これはその主なものです。クリスマスが近づきましたが、クリスマスにも主は

「インマヌエル」

「ユダヤ人の王」

「ナザレ人」

「いと高き方の子」

「聖なる者、神の子」

「主キリスト」

そして

「イエス」

と新しい名前で呼ばれています。主は、私たちのために、沢山の名前をもってご自身を私たちに紹介してくださいます。名前をみだりに唱えるな、という以上に、神の御名の素晴らしさ、確かさ、真実さを教えてくださっています。自分の不真実や、口の軽さ、失敗で、いい加減に語ったり、神のお約束さえ割り引いて考える私たちに、神は、ご自身の御名が聖なる名であることを強調されます。更には、多くの名で私たちにご自身を名乗られます。何より、イエス・キリストの御生涯そのものが、神の自己紹介でした。この方の前にあって私たちは生きています。

 この方がすべてを聞いておられます。すべてをお見通しで、心の奥までご存じの神です。そして、私たちが嘘やはったりで庇ってまで隠そうとする事実を、ありのままに受け入れて、祝福して下さる神です。その神を思いつつ、いつでも真実に語れる恵みがあるのです。

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