2017/6/4 使徒の働き1章1-11節「地の果てまでも」
今日から「使徒の働き」から説教をします。新訳聖書では第五番目の本ですが、三つ目の「ルカの福音書」を書いたルカが著者です。ルカは福音書を第一部、「使徒の働き」を第二部として書きました。この上下二巻全体では、新約聖書の四分の一を占めます。パウロよりも多い量なのです。キリストの生涯の延長に私たちがあることをハッキリと教えられるのです。[1]
1.イエスが行い始め(1節)
一1テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、
とあるのは、最初の福音書の事を指しています。ルカはテオピロさんという恐らく求道者か入信したばかりの方のために、イエスの生涯をまとめて書きました。それに続けて、教会が始まっていき、広がっていった様子を、この「使徒の働き」で綴っていくのです。この1節で
「イエスが行い始め、教え始められた」
とある言葉はそういう意味です。イエスがその生涯で行われ、教えられた事は「始め」でした。イエスは天に上げられた後、そこから弟子達に働かれて、教会を生み出され、弟子達とともにいて、宣教の働きをなさったのです。「使徒の働き」というタイトルはついていますが、実際には使徒よりも強調されているのは「主」のお働きです。主の十字架と復活は、主のお働きの前半、言わば半面です。その続きの教会の歩み出しがもう半面、言ってみれば、本論とさえ言えるような書き方をルカはするのです。
この事は、私たちの信仰にとっても、大切な気づきをくれます。ルカはテオピロが福音書と使徒の働きを知ることで、主に対して確かな信仰が養われると考えたのです。主イエスのお働きを書く福音書だけでは不十分であって、その後の教会の歩みについても書きました。主イエスが直接なさった事だけでなく、教会の歩みも主イエスのお働きだと知ってほしい。主イエスの御生涯だけでなく、教会の歩みにも主が生き生きと働いて下さっていて、その証拠を観ることが出来る。いいえ、それを知らなければ、私たちの信仰はとてもあやふやで、心許ないものになる。そういう視点を私たちも持ちたいと思うのです。
今も主イエスは私たちの教会の歩みに働いておられます。それを忘れて
「主イエスの教えを伝えるのだけれども、それをするのは私たちの力で、誰かの立派な功績で教会が活動をしているのだ」
と考えると間違いになります。そして、そういう間違いは、いつのまにか教会が主のためではなく、自分たちのため、自分たちの居心地の良さや、教会の活動の存続自体を目的にするようになってしまうのです。しかし、そのような自己中心そのものから主イエスは私たちを解放して下さった。実はそれこそが、イエスの与えてくださった、神の国の福音なのでした。
2.神の国を伝えるために
ルカの福音書と言えば、クリスマスのマリヤや羊飼いのエピソードが有名です。「良きサマリヤ人」や「放蕩息子」などのドラマチックな例え話もルカにあります。「ザアカイ」や「イエスの隣の強盗」「エマオ途上」など、忘れがたいストーリーも満載です。そのような記事を通して、ルカは神がどんなお方かを、豊かに生き生きと提示してくださったイエスを強調しています。イエスが全世界の王、支配者でありながら、小さな者を愛されるお方、罪深いとされた者や社会の除け者、弱者を引き上げるお方、そのためにご自身を捧げてくださったお方であったことがよく分かるのがルカの福音書です。特に明言されている箇所の一つは、
ルカ十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
でしょう。イエスは、正しい人や善良な人や信仰熱心な人を採用するのでなく、失われた人を捜されて救われる方、そのために、ご自身がこの世に来られる労を厭わないお方です。赤ん坊として生まれ、血と汗を流され、人から笑われたり、罵られたり、文句や中傷、最後には十字架の苦しみさえ浴びせられることをも構いませんでした。そのようなお方としておいでになったイエスは、神から離れてさ迷う人間を、捜し出して、神の御支配の中に取り戻されるのです。そのイエスこそ王である、というのが「神の国」でした。3節に、イエスは復活から昇天までの四十日にそのことを教えました。それこそ教会が証ししていくメッセージだからです。
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
これも教会が「キリスト教」という宗教を広めたり、教会を宣伝したり、入信者を獲得することとは根本的に違います。失われた人を捜して救うために来られたイエスを証しするのです。実際、使徒の働きでは、どんな人が出て来るのでしょうか。物乞いをしていた障害のある人、悪霊に憑かれて占い師をさせられていた女性、監獄で働いて自殺しかけた看守…。しかしなんと言っても一番は使徒パウロです。彼は教会の迫害者でした。キリスト者をとっ捕まえて苦しめてイエスを捨てさせるのが正義だと思っていました。その彼に主イエスが現れて、彼は変えられ、軽蔑して止まなかったはずの異邦人にイエスを伝える人になります。それ自体が、使徒の働きが伝える「神の国」の宣教がどんなものか、教会の宣教のユニークさの物語です。
3.変えられて行く弟子たち
この一章の最初を見てもう一つ気づくのは、弟子達の鈍さ、勘違いではないでしょうか。彼らはイエスの十字架と復活を見て、よみがえったイエスから神の国のことを聞かされてもなお、
6…「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
などと今更のことを聞いています。まだ自分の民族や国家のことしか考えられません。10節では、イエスが天に見えなくなってもボーッと天を仰いでいて窘(たしな)められます[2]。彼らは
「サマリヤや地の果てまでわたしの証人となります」
と言われてワクワクするどころかドン引きで、行きたいとも思わず、上の空で聞いていただけでしょう[3]。パウロの入信も教会には受け入れがたい出来事でした。民族や言葉の壁、過去の問題に教会は免疫を持ち合わせませんでした。しかし主は、そのような私たち人間側の持っている枠組を常に壊しながら、もっと広く、何の差別も分け隔てもなく、どんな民族の人も、どんな過去がある人も、神の国へと招き入れられるのです。当然ながら、そこには問題が起きてきます。人間の集まりとして、文化や言葉が違えば、意思の疎通がうまく出来なかったり、不公平が生じたりします。ですから、教会の中にはいつもすったもんだがあります。外からも批判や疎外が起きます。でもそれが教会です[4]。そして、キリストはそのような私たちの狭くちっぽけな考えよりも大きい王です。人の予想も付かない展開で、神の国の福音を失われた人に伝えさせ、また様々な人を教会に集められます。
教会は、私たち人間の力や善意や計画ではとても進みません。イエスが4節で命じたのも約束を待つことでした。「頑張れ、分からないのか」よりむしろ、信頼し、静まることでした。聖霊を約束されました。8節も
「わたしの証人となれ」
との命令ではなく、聖霊によって証人となる、との約束でした。そして、後の日には再び同じ有様で戻ってくると11節で約束されます。「使徒の働き」の教会は勝利もあれば失敗もします。福音が前進しますが、むしろ教会はそれに戸惑い、驚かされ、主を崇める。そんな繰り返しです。でもそのような教会の歩みにも、主は働かれて、聖霊によって御業を果たし、地の果てまでも、失われた人を捜して救う御業を為し続けられるのです。
私たち自身がそのような神の国の展開の中で、今ここにいます。失われた者ではなく、イエスに見つけていただいた者。民族や身分や財産や過去や、そんないっさいに囚われることなく、愛され、神の家族としてともにここにあり、世界の方々と繋がっています。その御業を知ることは、本当に私たちの信仰を確かにしてくれます。
「教会の主よ。あなた様の素晴らしさ、その愛の深さ、赦しと回復は、私たちの思いを遙かに超えています。その尊い恵みの栄光を現したイエス・キリストが、教会の歩みを通して今も働かれ、教えられ、私どもを証人として御業を進めたもうことを感謝します。聖霊が力をお与えくださり、狭く堅い心を温め、主が戻られる日まで恵みを全ての人と分かち合わせてください」
[1] ルカの福音書一1「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、3私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。4それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」
[2] ここには明らかに、ルカ九章の「山上の変貌」でイエスの栄光を見た弟子たちが「ここに残って天幕を建てて住みましょう」と発言したのを窘められた出来事が、並行関係にあるでしょう。
[3] 実際、八章ではサマリヤに、十章からは異邦人に信者が増えていきますが、エルサレム教会の人々は半信半疑だったり注文をつけたりするのです。パウロの異邦人伝道にも抵抗勢力はありました。
[4] 私たちは人間として自分を良く見せたいし、居心地が良い人生を望みます。自分とは異なる人との面倒はなしで済ませたいものです。それがキリスト者の人間としての実際です。
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