聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

2017-12-10 20:25:11 | クリスマス

2017/12/10 マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

1.王の誕生

 アドベントの第二週として、マタイの一章を開きました。お馴染みの箇所ですが、もう一度、この箇所から主イエスのお生まれを覚えましょう。聖書を読み始めようと新約聖書を開くと最初に書かれているのが、聞き慣れないユダヤ人の名前尽くしで読む気を削がれてしまうような系図です。これは旧約聖書の歴史の振り返りです。アブラハムから始まり、ダビデ王を頂点として、やがてバビロン捕囚に至った、旧約聖書の歴史が、ここに凝縮されているのです。神が世界の祝福のために選んでくださったのがアブラハムとその子孫でした。そこから王になるダビデがやがて生まれましたが、その後のイスラエル王国は神に背き続けて、遂にバビロンが責めてきて、イスラエルの王家や主立った人たちは捕囚となってバビロンに連れて行かれました。そうしてバビロンから帰ってきた人々が、イスラエルを細々と再建したけれど、その末裔のヨセフは王位継承者とは名ばかりの、一庶民として生きている、そういう始まりなのです。でもそのヨセフが婚約していたマリアが、聖霊によって身ごもって、王位を継ぐ方が生まれる。それがイエス・キリストの始まりなのだ、というとても深い繋がりになっているのです。

 マタイの福音書はイエス・キリストを王として紹介します。アブラハムの直系で、ダビデ王の王位を継承した方がイエス・キリストです。ただ優しく素晴らしい方ではなく、聖書の歴史を貫いてきた系図を引き継いで完成させなさる王なのです。そしてその誕生は、この系図や旧約聖書が示すとおり、沢山の失敗や罪や問題だらけの歩みをしてきた末にやって来た誕生でした。ヨセフ自身、王位とは無縁の生活をしていた人で、マリアの身ごもったことを聞いて、喜んだり受け入れたりするどころか、ひそかに離縁しようとしたのです。そういうヨセフの所に、イエスの誕生が与えられた。私たちはつい、マリアを中心にクリスマスを考えて、このエピソードも「裏話」のように思います。マリアとイエスがメインでヨセフはサポーターのように聞きがちです。そういう先入観を脇に置いて、旧約からこのマタイ一章へと読み進めていくなら、この出来事が、ヨセフにとってどれほど深い意味や励ましだったかに気づくのです。

2.「正しい人」ヨセフ

19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 この「正しい」の理解には幾つかの可能性があります。聖書の律法では姦淫は死刑でした。婚約とは結婚と同じ重みがあり、婚約者の子ならぬ子を宿すことは処刑に当たりました。ヨセフはそういう律法の基準を知って、重んじる正しい人でしたが、マリアをさらし者にはしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った、とも読めます。

 或いはそういう杓子定規な冷たい人ではなく、ヨセフは本当に正しい人だったからこそ、マリアをさらし者にせずに秘かに離縁して去らせることにした、とも説明できます。自分が「婚約者に逃げられた」とか「何故か破談になった」とか噂されようと、汚名をかぶってでもマリアを守ろうとした。ヨセフが本当の意味で正しい人だった、という理解です。

 もう一つは、マリアが聖霊によって身ごもったと分かったからこそ、「正しい」ヨセフは身を引こうとし、ただマリアをさらし者にしないよう、秘かに離縁を図ったのではとも思うのです。

 しかし、ヨセフが思い悩んでいた夜、

20…見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。

 御使いはヨセフの心の

「恐れ」

を指摘します。ヨセフの

「正しさ」

が何であれ、その奥には恐れがありました。それは「律法を守らなければ」という恐れだったかも知れません。マリアと離縁するにしても「さらし者にする」ことへの恐れだったかも知れません。あるいは自分なんかが聖霊によって身ごもって特別な子を産む特別なマリアと結婚することへの恐れだったかも知れません。自分と血の繋がっていない子を愛せるだろうか、自分の子でない子を宿したマリアを愛せるだろうか、という不安だったかも知れません。いずれにせよヨセフは、マリアを秘かに離縁しようと決心しながら逡巡しました。正しい彼の願いは、どうすることが本当に正しいのかという迷い、恐れがつきまとっていました。婚約者が自分の子でない子を身ごもる、という展開は想定外だったでしょう。

 想定外のこと、自分の物差しや基準や経験では対処できない事態に直面した時、私たちは恐れます。自分の経験や基準だけでバッサリ切り捨てることも出来るけれど、それでいいのか。或いはその状況を庇(かば)い、黙認して、なかったことにする、そういう処理の仕方も出来るけれど、それもそれでいいのか、迷うのかも知れません。人間が自分でもっと正しくなり、間違いを糺し、厳格に罪を処罰しようともします。あるいは罪を庇い、問題に蓋をし、遠ざければ解決しようとします。正しい方である神に対して、どうすることが正しいのか、人間は迷い、恐れながら、ますます戦いや断絶を造ってしまうのです。

 主の使いが告げたのはそうした方法よりも、もっと深い

「恐れ」

を取り扱います。恐れることはない、マリアを迎えよ。その子は聖霊によって宿った子だ、この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ。その方は恐れや人の正しさよりも大きなお方だ、というようです。

3.神は「とも」に

 生まれる子どもに名付けよと命じられる

「イエス」

とは「主は救い」という意味です。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ、と言います。人間の罪というのは抽象的な問題ではありません。それは旧約聖書においてとてもリアルに描かれます。アブラハム、ダビデ、ヨセフに至る系図で明らかですし、人間が神を裏切ったり、戦争をしたり家族で傷つけ合ったり、関係を壊したり、恐れや疑いで行動してしまうことにも現れています。そういう歴史の末ともいえるここで、神が示してくださったのは、神が罪からの救い主を送って下さるという道です。神ご自身が、マリアの胎に宿って、罪から民を救って下さるという希望です。正しくない人間、正しくあろうと願いながらも、どうすればいいのか分からずにいる人間のために、神ご自身が来て下さった。この方が私たちの王になり、恐れや心配を取り除いてくださる。

 23節は、旧約聖書のイザヤ書七章に出て来る言葉です。これもまた、イスラエルの歴史でも最悪の王の一人アハズ王が神に背いた生き方を晒している時の出来事です。神を信じない、恐れや問題に向き合えない、そういう人間に対して、神が強くこの言葉を仰ったのです。しかしそれはアハズから何百年も先のイエスの誕生を預言しただけではありません。この時、主はイザヤに自分の幼い子どもを連れて行け、と言われています。その子どもを脇に立たせながら、イザヤはアハズ王に

「男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

と告げるのです。イザヤの脇に子どもがいるように、神は私たちとともにおられる。いや、その「ともにいる神」をそのまま現すような赤ちゃんが生まれる、と仰いました[1]。そして、そのイエスこそ全世界の王であり、今も私たちとともにおられ、私たちにどんな罪や問題や恐れがあろうとも、それでもともにいてくださる、というのです。神は、私たちとともにおられる王です。私たちの恐れや罪や過去や限界も全部承知の上で、私たちから決して離れず、ともにいてくださる。文字通りの「友」、心の理解者です。私たちが正しく生きれば罪を赦してやろう、というお方であれば、私たちの心の底の恐れや不安は決して拭えません。イエスは、私たちのちっぽけな正義や経験よりももっと大きくて、私たちがどんなに不安や恐れに囚われているかもちゃんと見抜いておられます。そういう友の存在こそが、私たちを恐れから自由にして、愛や友情に裏付けられた正しい生き方へと進ませてくれます。それは本当に素晴らしい「救い」です。

「主が私たちを罪から救い、私たちとともにおられます。それゆえ、私たちもお互いに、恐れたり小さな物差しで裁いたりせず、大きな主の御手の中に、あなたの民としてともに歩んで行くことが出来ます。罪や限界さえもあなたが取り扱って、恵みにしてくださいます。そのあなたの良き御支配を心から告白し、あなたが王として完全においでになる日を待ち望みます」



[1] 赤ん坊の形で。七14、3、八8、10も。九章、一一章と、小さな子どものイメージ。実際のイザヤの子ども同伴も。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 問101-102「神の誓い」エレ... | トップ | 問103「休ませてくださる神」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

クリスマス」カテゴリの最新記事