聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問49「もろもろの天よりも高く」エペソ四1-10

2017-01-22 16:52:52 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/22 ハイデルベルグ信仰問答49「もろもろの天よりも高く」エペソ四1-10

 今読んだ言葉は、イエスが十字架死の前日に、弟子たちに仰った言葉です。御自身が十字架にかかり、復活した後、天に昇られることを予告しつつ、約束されたのです。

ヨハネ十四2…あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 あなたがたのために、場所を備えに行く。これはイエスが天に行かれた大きな目的の一つです。これは本当に尊いお約束です。それはイエスが大工になって家を作ってくださるとか、ブルドーザーで開墾して、これから場所を作る、という意味ではないのでしょう。むしろ、大事なのは、私たちがイエスとともにいさせていただけることです。ではイエスが天に昇られたことを、もう少し詳しく、どんな恵みか見てみましょう。

問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方が天において御父の面前でわたしたちのとりなし手となってくださる、ということ。第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭(かしら)であるキリストがその部分であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる、一つの確かな保証であるということです。第三に、この方がその保証の担保として御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなくキリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。

 ここでは三つのことが言われています。第一に「執り成し手」であること、私たちのことを天の父なる神様に届けて、間を取り持ってくださることですね。先程のイエスの「あなたがたのために場所を備えに行く」という言葉でも、イエスは「場所を備えに行ってあげるから、あなたがたは一生懸命良いことをしなさい」とか「罪を犯さず頑張りなさい」とは仰いませんでした。私たちは、罪や間違いを離れるよう成長したいものですが、たくさんの間違いや失敗もするのです。完璧に生きる事は出来ません。

Ⅰヨハネ一10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
二1…私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。

 イエスは私たちの弁護士になってくださいます。映画や現実では、弁護士と言えば、お金のために旨い言葉で法廷を丸め込んで悪人も無罪にしてしまう、ブラックな弁護士も想像できますが、イエスは違います。罪は罪とするのです。私たちが悪くないとかばうのではありません。イエス御自身が私たちの罪の供え物となってくださったから、私たちは赦しに与れるのです。イエスは天に昇られて、神の御前で私たちの執り成し手となり、天に受け入れてくださいます。
 第二に、キリストは私たちの「かしら」ですから、キリストが天に行かれたことは私たちも今、天に属しているのです。
 そして、第三に、聖霊が私たちに送られていて、その聖霊のお働きによって私たちは今、地上の事ではなく、天上の事を求めるようにされている、と言います。この二つについては、

コロサイ三1こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

 2あなたがたは、地上のことを思わず、天にあるものを思いなさい。

 3あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

 私たちは実はもう天にいのちと身体を持っている。イエスが私たちのために死んでよみがえり、天に昇られたとはそれぐらいの事なのだ、というのですね。そしてそれ故に、今私たちは、この地上の事しか考えない生き方ではなく、天にあるものを思いながら生きなさい。いつかは終わり、いつなくなるか分からない人生が全てであるかのように生きないで、天の住まいを待ち望みながら、楽しみにしながら生きなさい、と言われるのです。そして、天上の事を私たちが求めるようになるために、イエスは天から聖霊を送って下さり、私たちの心を天に向けて開いてくださったのだ、というのです。今ここにいる私たちのために、キリストが天で執り成しをしておられます。また、私たちの身体は今、天にあるとまで言えます。そこから送られた聖霊が、私たちの心を天に向けて、高い志を下さいます。まるでキリストが天に行かれたことで、私たちと天とが結ばれたような、そんな繋がりが感じられます。イエスは、本当に私たちと天との結び目となってくださいました。橋渡しをしてくださいました。私たちと同じ人となったイエスが天に上げられたのは、私たちに対するそういう生き生きとした保証だというのです。

 キリストが昇天された時、天を見上げている弟子たちの所に、二人の御使いが来て、

使徒一11…「なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

と言いました。キリストは天に上られましたが、私たちはボーッと天を見上げるのではなく、天を見上げつつ、自分の生活を張り合いをもって生きるのです。

これは、私の父の世界。
私が決して忘れないようにしてください。
どんなに悪が強く見えても神が支配者であられるということを。
これは、私の父の世界。
闘いはまだ終わっていないが死を味わったイエスが満足なさる時が来る。
天と地の一つになる時が。

(マルトビー・D・バブコック)『わが故郷、天にあらず』(p.8)

 天を見つめて生きるとは、この世界を嫌ったりいい加減にすることではありません。キリストは私たちのために天に上られたのです。今私たちは天のイエスを頭として、この世界で生きていくのです。イエスが天におられることを思い出しましょう。

ですから、広い空を見上げましょう。徳島の広い空を見上げて、心も広くしていただきましょう。そして、イエスが今も私たちを支えて、やがておいでになる日のことを思いましょう。

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