聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記三一章(1-13節)「歌なら忘れない」

2016-07-24 17:49:11 | 申命記

2016/07/24 申命記三一章(1-13節)「歌なら忘れない」

1.大きな変化の中で

 申命記は、荒野での四〇年の放浪から、カナンの地に入って行こうとしている時に語られたモーセの遺言説教です。遊牧の生活から定住の農耕生活になる、大変化です。加えて、モーセからヨシュアに指導者が替わります。そういう変化の中で、人間は誘惑に弱くなります。道を見失い、神から離れがちです。この三一章は、そうした変化を感じさせますが、それだけに私たちにもとても身近な章です。私たちも変化の中で不安になります。時代の流れや生活が変わる中で、孤独や焦りを覚えることがあります。逆に、「昔は良かった」と過去を美化して懐かしむ事に逃げ込むかもしれません。モーセの言葉はそういう後ろ向きな所がありません。

 6強くあれ。雄々しくあれ。…恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれる…。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 特に、ここでは、若い指導者ヨシュアに向けて励ます目的で語られています。新体制を意識した言葉です。そこでも、主がともにいてくださるのだから、強く、雄々しく、恐れず、自分の責任を果たしなさい、と言われますね。また、9節以下では、レビ人や長老たちに、これからも七年ごとに、この申命記の言葉を繰り返して朗読し続けるよう命じられます。それは、その規則を形式的に守り行わせるためではありません。12節13節で繰り返されるように、

「あなたがたの神、主を恐れ」

て生きるためです。その根拠は、主がともにおられることなのです。

2.三一章のテーマは「主がともにおられる」(3、6、8、17、23節)

 環境は変わり、生活も一変しても主はともにおられます。新しい指導者ヨシュアが、モーセのようなカリスマ性や経験や資質がなくても、モーセを懐かしんだり比較したりせず、主を恐れて新しい体制を受け止めるのです[1]。なぜなら、主以外のものは、生活も人間も環境も時代もすべては変わっていくからです。でも、そこでも主がともにいてくださるのです。この三一章の9節には

「契約の箱」

が出て来ます。神の臨在のしるしであり、律法の板が納められたあの聖なる箱ですね。14節には

「会見の天幕」

が出て来ます。これも、神がモーセと語られた、特別な幕屋のことです。でも、

「契約の箱」

「会見の天幕」

も、申命記ではここだけしか出て来ないのですね。14節で主がモーセに語り掛けられますが、主が直接語られるのも、申命記では初めてです。今まではずっと、モーセが説教をしてきたのです。モーセの引用ではなくて、主が直接語られるのは、申命記では初めてのことです。そして、15節で主は雲の柱のうちにモーセとヨシュアに語り掛けられます。つまり、この三一章は、契約の箱、会見の天幕、雲の柱のうちから主ご自身が語られる、主の臨在が強調されるのです。

 でも、一方で、その主が16節以下で語られるのはどんなことでしょうか。主の民がカナンの地に入ったら、ほどなく偶像の神々に浮気をして、主との契約を破るつもりでいる、と見抜いておられる予告なのですね。それじゃダメだ、なんとしてでも御言葉を守れ、といきり立つのではなく、もう今彼らの中に、主に逆らう悪意が芽を出している、というシビアな言葉なのです。モーセもこの言葉を受けて、最後の26節以下でイスラエル人に直接、言っていますね。

29私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行い、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。

 けれども、その時のために、と主が語っておられたり、三二章の「歌」を授けたりするのは、何のためでしょうか。予防線を張るためでも、後悔させるためでもないのです。

17その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか』というであろう。

 いいや、そうではない、神がおられないからではない、神はおられる、そして、人間が神に逆らい、祝福を慢心に変えて、神に背を向けることも知っておられて、罰を下された。そして、その罰の末に、彼らが自分たちの間違いに気づいて、神に立ち戻るため、歌を授ける、というのです。神がおられない、ではなく、神こそ私たちとともにおられ、この神以外に自分たちとともにいます神はいない、と思い出す。私たちが恐れたり疑ったりして、主から離れて、勝手な道を歩んで、その報いを我が身に招いたとしても、そこでも主は私たちとともにおられ、私たちを待っておられる。そのことを思い出すために、三二章の歌が伝えられるのです[2]

3.歌なら忘れられない(19-21節)

 三二章の歌、どうぞ皆さん次までに読んでみてください。三千五百年も前の歌と、現代の演歌やJポップとは簡単に比較は出来ませんが、たぶん私たちがそれぞれに忘れがたい思い出の歌を持っているように、この歌も記憶に刻まれるには最適な方法だったのでしょう。そして、そのようにしてまでも主が思い出させたかったのは、主が私たちの中におられる、という現実でした。御言葉を守らなかったために罰が下った、という非難や自嘲ではないのです。もう主は私たちとともにおられない、と突き放すためではないのです。主がおられるとは到底思えないどん底でも、主はともにおられると思い出させたい。そのために、歌なら忘れられないからと、この歌まで用意してくださったのです。そうして、主がともにおられることを思い出して、心から主に立ち返って、心から主の言葉に従わせたい。どんな時も、主は私たちを見捨てず見放さないと悟ってほしい。強く雄々しくあってほしい。恐れずおののかず、先立ってゆかれる主に従って欲しい。それは、私たちの日常においても変わらない、主の願いなのです。

 先週から、青年会と中高科で「あしあと」という歌を歌っています[3]。マーガレット・パワーズというアメリカの長老教会の方が書かれた、有名な詩です。

あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 イエス・キリストの生涯は「神は我らと共にいます」のメッセージでした。私たちの所に来て、ともにおられる愛を生涯掛けて、いのちも捨てて、示してくださいました。私たちが一番辛い時、孤独な時。その時こそ、主が私たちを背負ってくださいます。だから、私たちは、恐れないでよいのです。人や環境が変わろうと、死が近づこうと、主は私たちとともにおられます。違いに直面しても、今までのやり方や伝統や常識を握りしめ、押しつけ、拘るのでなく、柔軟に変わることが出来ます。主は私たちに変化や違いを楽しみ、喜ばせてくださるのです。

「主は私たちとともにおられ、道を示し、勇気を、歌を授けてくださいます。どんな環境の変化も、願いに反する現実にも、あなたはともにおられます。自分自身の失敗や、体が衰え死を迎える時、そこにもあなたはおられ、私たちを導かれるのです。朽ちる物の中で生きる私共を、どうぞ、変わらないあなたの御臨在を、共にいます愛を証しする存在とならせてください」

 

今日は、夏期学校でした。14名の子どもたちといっしょに、「空の鳥を見よ」のメッセージ、モビール工作、そして「鳴門教会スペシャルホットサンド」を食べました!

[1] モーセに代わる指導者ですが、しかし、モーセと同じだけのリーダーシップはヨシュアにはありません。モーセと同じような預言者が将来現れることは、一八章18節以下で約束されていましたが、それは少なくともヨシュアではないのです。

[2] ヨシュアに対して語られるのも「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」(23節)、これを聞かせることが、主がヨシュアを呼んだ理由でした。この先に多くの心配もあり、民が背信していくこともハッキリ分かっているのに、これだけが、主のヨシュアに対する言葉でした。ヨシュアは、民の背信を止めることは出来ません。そのように努力する必要もありませんし、その努力を後押しするために、「強く、雄々しくある」のでもありません。ヨシュアもまた、困難な中で、主がともにおられるゆえに、どんな状況でも、強く、雄々しくあることだけを求められたのです。これは、ヨシュア記のテーマにそのまま通じていきます。

 

 

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