聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記三三章(26-29節)「家なる神」

2016-08-14 20:10:16 | 申命記

2016/08/14 申命記三三章(26-29節)「家なる神」

 申命記もあと一章です。そのクライマックスとなるのが今読んで戴いた26節以下ですが[1]、改めて、この申命記が語っていたのも、私たちの「しあわせ」だったことを教えられます。

1.モーセの祝福

 前回の三二章は「モーセの歌」でした。歌の形式で、イスラエルの民に主を思い起こさせる言葉が連ねられていました。それに続くこの三三章は

「モーセの祝福」

と呼ばれています。モーセはこの申命記を語った後、自分が死のうとしていることを知っていましたが、最後の最後に、約束の地に入って行くイスラエルの民のために、それぞれの部族に向けての祝福を語っていくのですね。そして、部族毎に「祝福」を語った後、この26節以下では民全体に対しての祝福が語られます。とはいっても、祝福を与えるとか、神に祝福を祈り求めるのではありませんね。もう既にあなたがたは祝福されている、神は本当に大いなる方であり、その神を自分たちの神とするあなたがたはどれほど幸いか、を宣言し、銘記させる「祝福」です。

26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。
神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。

27昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。…[2]

29しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。
主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。…」

 こんな言葉が出るとは誰が思っていたでしょうか。神が民の「住む家」となってくださり、永遠の腕を下に伸ばして、民は「安らかに住まい」(28節)、他にはないしあわせを味わわせてくださる、というのですね。説教題を「家なる神」としました。神を表現したり持ち上げたりするには色々な言い方があるでしょうが、「私たちの住む家」と呼ぶだなんて、思いつかない言葉です。しかし、神は私たちの「住む家」となってくださる。神との関係は、私たちが我が家に帰ってきたように、そしてずっとそこに住み、生活するような、そのような関係なのです。実際この地球は、人間や動植物が生長するのに、絶妙な環境です。太陽との距離や地軸の傾き、科学的には最高のバランスなのだそうです。それは、神ご自身が私たちを迎え入れ、養い、安心させて、いつまでも住まわせたいと思われているお心の表れでしょう。神は、私たちを喜んで御自身のうちに迎え入れ、永遠の腕で支え続けてくださるお方です。[3]

2.平等ではないが

 しかし、その前にある6節から25節までの十二部族への言葉は随分とアンバランスです。祝福の良い言葉ばかりではありません。最初の6節のルベンや、22節のダンへの言葉は祝福なのか、どういう意味かさえ良く分からない、短い言葉です。それより「シメオン部族」は名前さえ出て来ないのですね。一方で、モーセの属するレビ部族や、13節以下のヨセフにはこれでもかとばかりに祝福や勝利の言葉が十九行も並べられます。後の七部族は、言葉も短いですし、よく意味の取れない文章が多いのです。バラツキが著しい。決して平等ではありません。

 この部族の順番は大雑把に言って、それぞれの部族毎に与えられる土地を、南から北に上って行くような並びで挙げられていきます。そうすると、その部族毎の土地の気候も広さも地の利も、バラツキが出て来ざるを得ないわけです。農業の祝福もここでは言及されていますが、産物もそのしやすさも違ってくるのですね。一律でも、公平でもないのです。

 しかし、そういう扱いの差は激しくあった上で、最初に申しましたように、26節以下で、神が住む家となり、あなたがたは他の誰よりも幸せだ、と言われているということですね。これは大事なことです。十二部族はそれぞれの部族の特徴や歴史、伝統がありました。人は誰も過去を変えることは出来ません。部族ごとの背負っているものは違うし、それを放り出すことは出来ないのです。それでも、それぞれの部族毎に違いがあっても、決して平等ではなくても、神はどの部族をも祝福してくださるし、一人一人に幸せを下さるということです。比較したり妬んだりせず、「どうせ自分は出だしが不利なんだし」といじけたら分からなくなる「幸せ」です。ハンディもあり、経済的な差や、文化や気質の違い、色々な差があっても、その「変えることの出来ない」ことを「不幸」だと被害者意識を持っていては見えなくなる祝福です。

 ここで祝福の言葉を見てみてもどうでしょうか。ヨセフには13節から十行以上、賜物、最上のもの、恵みが畳みかけられますが、21節ではガド部族に

「最良の地」

とあり、23節ではナフタリに

「主の祝福に満たされている」。

 そして24節ではアシェルが

「子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ」

と言われています。さて誰が一番祝福されているのでしょう-なんて質問は野暮で、無意味ですね。それぞれが「自分は祝福されている、最良の地、祝福に満たされた者、最も祝福されている」と思えるのが幸せなのです。比べだした時点で、求めているのは祝福ではなくて、プライドや競争心でしかなくなります。それぞれが、酸いも甘いもある、労苦の絶えない生活で、神が自分の神、自分の家となり、救いと幸せを今ここで注いでくださり、私にとっての最高の祝福をくださっているのだと受け止めていける。それこそ本当の幸せな人生です。幸せを戴いた人です。

3.神は、我が家

 申命記では、ここまで様々な命令や条文がありました。あの全部が、やはり面倒臭い決まり事に見えて、実は、主が民を幸せにしたいから、幸せな社会を作らせたくて授けられた指針なのです。そして、その条文が想定していたのは、様々な民事事件や揉め事、人間関係の衝突でした。主が約束されていたのは、人生の揉め事がない「祝福」ではありませんでした。自分たちにとって居心地の良い「幸せ」ではありませんでした。むしろ、社会に付き物の問題がある中で、その中で少しでも公平に、正しく、冷静に、そして恵み深い心で対処していこう、というあり方でした。生活や経済や対人関係が円滑でなくても、隣の芝生が青く見えても、文句を言うのではなく、出来る正義をしていく。それが申命記の律法の意味だったのです。そして、その根底には、生ける本当の大いなる唯一の神が、私たちの神となり、私の人生をかけがえのないものとして、見えない手で下から支えてくださっている。そういう信仰があるのです。

 繰り返しますが、私たちが何もしようとも神は幸せを下さる、という事ではありません。申命記は、主の言葉に背いて、神ならぬものを神として生きる時にどんなに荒廃や呪いを呼び寄せてしまうかを強調していました。この三三章の祝福もこのまま成就はしませんでした[4]。思い上がって道を外れて[5]、早々と自滅していった部族もあるのです[6]。私たちの応答や選択は決して小さな事ではありません。自分勝手に生きれば、その刈り取りは必ずすることになるのです。でも、そのような責任を語ってきた申命記の最後に、モーセが歌うのは祝福です。大いなる神にある幸せです。その神に信頼して、今ここで感謝をもって生きる。他の生き方に憧れたり、他の何かを神のように縋り求めたりせず、自分の人生を受け止めさせていただくのです。

 イエス・キリストは人としてこの世においでになりました。最も貧しく、母子家庭で、長男として弟や妹を養い、ナザレの田舎っぺとして、見栄えのないお方でした。不利な境遇で育ち、最後は十字架に死なれました。しかし、不遇の辛さを身を以て味わい知りながら、イエスが聞いていたのは、天の父が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と仰った言葉でした。そのイエスが聞かれた、主の声を聞き、主の幸いを戴きたいと思います。主が私たちの心を導き、変えてくださって、妬みや不平から自由にされ、自分は最も祝福されている、世界一の幸せ者だと思える心を、そういう人生を下さるよう、願い求めようではありませんか。

「主よ、ここにいる私たちもそれぞれに違います。個性も課題も何もかも、決して平等ではありません。それでも自分にもお互いにも、かけがえのない主の愛と最高の幸いが注がれているのだと信じ合うことが出来ますように。壊れるべきものが壊れて悲しみ苦しむとしても、下には永遠の腕があると揺るぎなく告白しながら、あなた様に栄光を帰させてくださいますように」



徳島は阿波踊りのシーズン真っ盛りです~
 
[1] 最後の一章となる三四章はエピローグのようなものですから、今日の三三章が実質総まとめのクライマックスだと言って良いでしょう。

[2] 省略しましたが、ここには「あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた」とありますし、他にもこの三三章には戦闘用語が多数あります。現代の感覚とは大きく異なる、価値観の差があります。ですからこれをこのまま、現代に適用して、戦争の正当化や勝利主義の根拠としてはなりません。むしろ、この時から三五〇〇年の歴史の数々の反省をすべき責任が、今の私たちにはあります。この敗戦の8月に、平和を唱えるだけでなく、「ねたみ」や「むさぼり」が他国への戦いへと安易に引き込もうとする、その誘惑をも意識しなければなりません。申命記の時代と同様、この社会での歩みは、決して楽天的には済まないのです。

[3] 3節には「国々の民を愛する方」とあります。驚くべき事に、イスラエルだけでなく、「国々の民」を愛する、といわれるのです。それゆえ、私たちは、イスラエルだけが神の民ではなく、イスラエルが証しとなって、諸国の民に、神の偉大で憐れみに満ちた恵みが告げ知らされ、招かれていると、ここに既に約束を聞くことが出来ます。

[4] 創世記四九章の「ヤコブの祝福」との比較も面白いでしょう。ヤコブの言葉では呪いであった部族が、モーセの言葉では祝福に転じたり、祝福された部族があっさりと流されていたり、という違いは、「モーセ五書」が示している、歴史による変遷と人間の応答の及ぼす結果のダイナミズムを表していると思えます。神は人間を応答的な存在としてお造りになりましたから、人間の応答によって、歴史の展開は変わるのです。言い換えれば、神の摂理とは決して「運命論や決定論」ではない、ということです。

[5] その端的な例は、エフライム部族です。ここでは最も長く祝福されていますが、彼らはそこに優越感を抱き、後にはダビデ王朝に対抗し、北イスラエル王国を築いていきます。そして、王朝乱立の末、南ユダ王国より一〇〇年も早く滅亡するのです。その後に北イスラエルに誕生した「サマリヤ教団」は、この申命記までの五書のみを「サマリヤ五書」として正典にした教義を作ります。ヨセフ部族への祝福、優位性に執着してしまいます。勿論、そのような偏った聖書引用は、聖書全体で見ても受け入れられません。

[6] 困難な状況ほど、神を慕い求める契機となる。逆に、祝福にこそ、人は思い上がりやすいことも言われていた。それでも、主は祝福することを止めない。おしみなく、祝福を語り、示されるのである。

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