聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マルコ伝2章23~28節「安息の主」

2019-01-15 13:20:15 | 聖書の物語の全体像

2019/1/13 マルコ伝2章23~28節「安息の主」

 「ある安息日」

にイエスと弟子たちが麦畑を歩いていた時、弟子たちが道々麦畑の穂を摘んで食べ始めた。それをパリサイ人が咎めました。

「ごらんなさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」。

 「安息日」とは、毎週金曜の日没から土曜日の日没までを、何も労働をせずに聖なる日として過ごすよう、神から命じられていた日の事です。パリサイ人は律法を厳格に守ろうとする人たちで、「安息日にすべからずリスト」三九項目を作って、更に細かく規定したのです。それによると麦の穂を摘むのは収穫、殻を揉んで取るのは脱穀。それは安息日に禁じられる労働だと、この24節で弟子たちを非難したわけです。

 これに対してイエスは25節26節で旧約聖書の一例を引いて問い返します。ダビデと従者たちが空腹を抱えて逃げていた時、神の臨在のパン、神がそこにおられるという神聖なしるしのパンを食べたことがあったではないか[1]。そしてそこからこう言われるのです。27節、

…「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。

 安息日の律法によって人を縛ったり非難したりでは本末転倒。神が律法で安息日を守るよう命じたのは「人のため」であって、杓子定規に「守らなければ」と細かいリストを作ったのは、勘違いだとバッサリ言われたのです。その後に、もっと大胆な爆弾発言が続きます。

28ですから、人の子は安息日にも主です。」

 イエスはご自分を「人の子」とよく言われました。「人の子」とはメシア(キリスト)を指す言い回しです。イエスはご自分が

 「安息日に(対して)も主」

 安息日にも、というより、安息日にとってもその上にいる主だと言われます。マタイ伝の平行記事では

「人の子は安息日の主です」

とありますが[2]、イエスは安息日の主で、人のために安息日を設けられた主です。

 「聖書の物語の全体像」を考える時、聖書の物語の始まり、天地創造の締め括りは、他でもない安息である事を踏まえたいのです[3]。創世記1章1節からの創造は、こう結ばれます。

二1こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

 創造が完成して、神は休まれ、この日を祝福し、聖となさった。この事が根拠となって、十戒の第四戒では、「安息日」を覚えることが命じられるのです。

出エジプト記二〇8安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 神が世界を造った時、七日目に休まれたのだから神の民も七日目を休むのです。この世界が、神が作られた世界であること、神が喜んで楽しんで作られ、祝福された世界であることを、片手間ではなくすべての仕事を止めて、覚えるのです。「安息日」を命じる第四戒は十戒の中で一番長く詳しい項目です。それだけ肝心なのです。安息日は、過去の回想ではありません。世界そのものが安息のために作られた世界。神が今も安息へと至るよう導いておられる世界。私たちの生きているこの世界が、神の祝福の完成という将来へと進んでいることを覚える日です。また、神ご自身が安息日の主です。いつも何か作っていないと落ち着かない創造主とか、私たちにも禁欲や規則の順守や、労働や奉仕を求める「労働の神」でなく、安息の主。この世界は安息へ向かっている、安息の主が作られた世界だと覚える。そのために、安息日があるのです。

 ところで「十戒」は申命記5章にも再録されていますが、そちらでは安息日の根拠が、創造ではなく、エジプトの奴隷生活から救い出されたことに置かれています[4]

申命記五15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」

 かつてエジプトでは奴隷でした。人の価値が労働力でしかなかった。休みや祝福、遊んだり楽しんだり祝うことは一部の特権でしかなかった。そこから主は力強く導き出して、人を人として取り戻して、本当に人らしい人生を始めさせてくださった。だから、いつも安息日を守りなさい。自分が休むだけでなく、家族や奴隷や家畜も、仕事が途中でもそれを止めて一緒にみんなが休んで、神の創造と解放を祝い、味わう一日を過ごす、そんな幻(ビジョン)を示されたのです[5]

 週に一度だけではありません。レビ記二五章で神は、七年ごとに土地を休ませる

「安息年」

も命じられます。更に、七年の七回、四九年ごとに

「ヨベルの年」

として、すべての負債が免除されるのです。身売りした奴隷も、担保に出されていた土地も帰ってくるのです。それは、それを守る人の体に安息のビジョン、負債の免除と祝宴の青写真を刷り込むための配慮でした。仕事に忙しくしてきた日々も、創造主であり贖い主である主が命を下さり、ともにおられた。エジプトの奴隷生活から解放された神が、今も私たちを業績や比較によらず、人として、私として見てくださって、私たちとともに世界を祝福することを願っておられる。私たちにどんな負債や不足があろうと、神は私たちとともに安息することを楽しんでおられる。そして将来には解放、救い、祝宴を備えておられる。それを覚えるのが、安息日、安息年、ヨベルの年、というリズムでした。またその御心に背いた末に下された「バビロン捕囚」でさえ、裁きである以上に、地が安息を得るためでした[6]。神の願いは、徹底的に、最終的な安息なのです。

 主イエスは「安息日の主」としてこの世界に来られました。マタイ11章の有名な御言葉、

28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

 マタイ十一章のこの言葉の直後に、今日のマルコ伝の平行記事です[7]。疲れた人、重荷を負う人をすべて無条件で招いて、休ませてくださる主が、人のために安息日を作られたのです。その安息の主は私たちに安息を下さるため、十字架に死なれ、三日目に復活しました。その復活を記念して、今私たちはここにいます。この日曜日は、主が世界を創造された日、イエスがよみがえられた日です。神の創造と安息から始まって、奴隷生活からの解放や主の復活がなされて、やがて主が来られて安息が完成する。そういう大きな物語の中に生かされていることを覚えるのです。だから私たちは、今の生活でも安息のリズムを大事にするのです。

「安息日は、休息する神を選び、心を合わせる、断固とした、具体的な、目に見える方法である」。[8]

 この解放の律法をパリサイ人は狭苦しい雁字搦めに変えていました。教会でも「日曜礼拝と奉仕を死守する一日」と誤解してきた面があります。忙しい現代、一日の安息は簡単ではありません。抑(そもそ)も「将来本当に安息なんてあるのか、想像もつかない」という躊躇(ためら)いの方が大きいかも知れません。その躊躇いの中でこそ、安息日が設けられたのは

「私たちのため」

 重荷を下ろし、負債を免除され、一緒に喜び、安らぐ、そういう物語を生かされている事実を覚えさせるため、という言葉に耳を傾けましょう。その時に向けて今ここでも主を見上げるために生活のペースを落とし、主の恵みをたっぷり受け取って、安息を味わうことは無駄ではありません。そんな生き方によって、創造主であり贖い主である安息の主を証ししていきたいのです。

「主よ。今日ここに招かれ、安息の主なるあなたを礼拝する幸いを感謝します。世界に沢山の遊びや憩いを満たしたもうあなたを賛美します。私たちがあなたを忘れて働き過ぎ、空回りしてしまう時、強いてでも休みを与えてください。あなたが備えたもう大いなる安息はまだ見えませんが、今ここでも休みや喜び、楽しみを選び取り、それを一週間の力とさせてください」



[1] Ⅰサムエル記二一1-6、参照。

[2] マタイ伝一二8。ルカ伝六5も。なお、マタイ12章7節で、「わたしが求めるのは真実の愛、いけにえではない」は、主が私たちに真実の愛(のしるしとしての礼拝厳守、奉仕活動など)だという意味ではありません。「求める」セロー will, intend, desire 主が私たちに求められるだけでなく、主ご自身が願われることです。主が「疲れた者」に休みを与える事そのものが、主が求めておられる「真実の愛」です。マタイ伝はユダヤ人読者を意識して書かれていますので、その辺りが詳細です。マルコ伝は異邦人を主な読者としています。それゆえ、今回の説教でも「安息日規定」の詳細な説明は不要と考えました。

[3] この事は、O・パーマー・ロバートソン『契約があらわすキリスト』(高尾直知訳、PCJ出版、2018年)の112-120頁にも、「創造の契約」の第一の要素として詳述されています。

[4] 民数記五12「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」

[5] 「文化史家ヨゼフ・ピーパーは、中世の人々にとって、勤勉と怠惰ということが、現代人の考えるところとはまったく違う意味を持っていたことを指摘する。中世の人々にとって「怠惰」とは、目の前のことばかりにかまけて、永遠との関わりを忘却し、人間が神のかたちに創造された、その被造物としての尊厳にふさわしく生きることを放棄して生きる状態を意味した。勤勉に労働しないことが怠惰なのではなく、神を忘れて忙しく立ち働くことこそが「怠惰」なのである。文字通り心を亡ぼすまでに忙しく働き、人間に与えられた固有の尊厳を放棄して、究極的な意味で自分自身であろうとしないということの方が怠惰なのである。」芳賀力『大いなる物語の始まり』104頁

[6] レビ記二六34-35「そのとき、その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、その地は休む。そのとき地はその安息を享受する。35地は、荒れ果てている間、休むことができる。それは、あなたがたがそこに住んでいたとき、あなたがたの安息のときには得られなかったものである。」、Ⅱ歴代三六21「これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た」。

[7] マタイ12章-8節。

[8] Walter Brueggemann, Sabbath as Resistance, 10. ピーター・スキャゼロ『情緒的に健康なリーダー・信徒を目指して 内面の成長が、家族を、教会を、世界を変える』(鈴木茂、鈴木敦子共訳、いのちのことば社、2018年)278頁より引用。同書の「第5章 安息日の喜びを味わう」(248-303頁)は安息日全般を具体的に取り上げています。今回の説教準備に大いに参考にしました。

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