聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問82「弱さと不信仰は違う」イザヤ書一章11-20節

2017-08-13 18:23:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/13 ハ信仰問答82「弱さと不信仰は違う」イザヤ書一章11-20節

 

 教会の案内に「どなたでもお入りください」と書いてある事があります。それを見て、本当に誰でも勝手に入ってくると、やっぱり対応に困ってしまうことになります。違う宗教を持ち込んだり、商売を始めたい人、ただ逃避したい人が来たりしたら、お帰りいただいたほうがお互いのためかもしれません。勿論、そういう人が、教会でイエス・キリストと出会い、違う宗教からキリストに興味を持つかも知れませんし、自分の人生を新しく見つめ直すこともあるでしょう。ですから、「教会はイエス・キリストを信じる場所です。神を礼拝し、聖書の話を聴きたい方ならどなたでも」と言った方が誤解はありません。ただ「どなたでも」ではない、というのは閉め出すためではなく、聖書を通して、本当に招いてくださっているイエスを大事にするのが教会ですよ、と踏まえた上で「どなたでも」だ、という事です。それは、この福音を表す主の聖晩餐にも言える事です。聖餐は、誰もが与れるわけではありません。そしてそれ自体が福音です。

問82 それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。

答 いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリスト教会はキリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで鍵の務めによって閉め出す責任があります。

 信仰告白が他の神々でもいいとか、聖書の教えに反した事を信じているとか、生活において不信仰や背信、ハッキリした不道徳や犯罪や不正を行っている人も、聖晩餐に与れるのですか。いいえ、そういう人はダメです。主の聖晩餐、即ち、主イエス・キリストが私たちをご自分の食卓に招いて、御自身のいのちに与らせてくださる儀式は、だれもが招かれています。全ての人が、イエスの救いに与って、罪の赦しを戴き、新しい人生を歩み出す事が約束されています。でも、その事を信じようともせず、イエスに背いた生き方をしたいと思っている確信犯まで、パンを食べ、杯を頂けるのではない、という事です。なぜならそれは、イエスがご自分の十字架の死によって立てて下さった

「神の契約」

を侮辱することだからです。罪が赦されて、新しい歩みを下さるという約束を踏みにじる人にまで、イエスは大目に見て下さると考えるのは、根本的な勘違いです。

 ただ前回の問81でも見たように、罪が少しでもあればダメだとか、信仰に誤解や疑いが混じっていれば不適切だ、ということではありません。私たちは自己を嫌悪するような罪を持っています。未だに

「残る弱さ」

があります。間違いや愛のなさ、自分の中に悲しいほど闇や弱さがあるのです。その弱さもイエスは覆って下さるという慰めがあります。そうした

「残る弱さ」

を通して、私たちはますますイエスにすがりつかずにはおれません。罪や弱さがあるからこそ、赦しと憐れみを求めて、私たちはイエスに依り頼み、主の聖晩餐に来て、恵みに与るのです。

 ここで言う

「不信仰」

とは、

「残る弱さ」

そのものではありません。イエスの元に行こうとしない頑なな態度です。赦されたくない、変わりたくないと、頑固に心を閉ざし、神の契約を侮辱する態度です。それは赦されたいとさえ思っていないのですから、神は赦す事が出来ないのです。それでも傲慢にもいいとこ取りだけの祝福をもらうために、主の聖晩餐に来続けるなら、それは自らに裁きを招く事です。

「悔い改めない者や偽善者は「自分自身に対するさばきを飲み食いしている」」

のです。誰も見ていないところで罪を握りしめたまま主の聖晩餐にあずかってさえそうです。そして、それが公に生活や信仰告白に現れている場合はもっと有害です。それは本人だけでなく、周りにも悪影響を及ぼします。周りも誘惑に負けて、神の契約を軽視するようになり、やがては神の御怒りを招くでしょう。ですから、教会はそのような人を聖晩餐から閉め出します。

 ここに、

「キリスト教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで鍵の務めによって閉め出す」

とあります。人々を招かれたキリスト御自身が、不信仰者や背信者に対する定めを命じておられました。決して、キリストは愛のお方なのに、教会が後から敷居を高くして、排除するようになったのが陪餐の制限ではないのです。先に読んだイザヤ書一章の言葉を思い出しましょう。

16洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。

17善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」■

18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

19もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

20しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。

 悪を除け、悪事を止め、善をなすために、来なさい、と仰いました。罪がどんなに真っ赤でも、雪のように白くする、羊の毛のようにする。善い物を食べることが出来る。それが主の招きでした。しかし、そのような主の招きに背いて、自分の道を進むなら、それは自滅しかありません。主が怒って罰するというよりも、主は救いと新しい歩みを約束して下さっているのに、それを拒む以上、救いそのものを拒絶するのです。

 私たちの中には、どんなに愛され救いを差し出されても、その恵みにさえ便乗して、神の契約を侮辱する歪んだ傾向がある。それは厳粛に弁えるべき罪の事実です。そのような場合に聖餐が取り上げられるのは冷たい仕打ちや愛のなさではありません。それは気づくためです。

「生活を正す」

ための愛です。聖餐を禁じられることで私たちはハッとさせられます。見える形で、自分の選んでいる愚かな過ち、でも致命的な危うさに気づかされるのです。そして、そこで私たちが悔い改めて、自分の生活を変えることを願うなら、主の食卓に迎え入れられるのです。

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