聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き5章17-32節「辱められたイエスこそ」

2017-08-13 18:20:37 | 使徒の働き

2017/8/13 使徒の働き5章17-32節「辱められたイエスこそ」

 読んでお気づきでしょう。今日の箇所は教会が迫害される深刻な出来事なのに、明らかにコミカルに書かれています[1]。大祭司たちがドタバタ喜劇のお役人様のように翻弄されます。舞台の右ではもう使徒たちは自由になっているのに、左側では大祭司たちがほくそ笑んで、どうしてやろうかと相談している。そこに「牢がもぬけの殻だ」と慌てた知らせが飛び込むのです。

1.「大変です」

 牢は鍵がかかって番人もいたのにと首を傾げていると、すかさず次の知らせが飛び込みます。

25「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」

 そして宮の守衛長たちがまた宮に行って、使徒たちを連れてくる。右往左往して振り回されているのです。しかもそこで彼らは手荒なまねが出来ません。人々の方は使徒たちの教えを喜んで聴いていたからです。無理矢理捕まえたら、自分たちの方が、神を冒涜する者として石で打ち殺されそうな様子だったのです。地団駄踏む思いでしょう。そういう中で、使徒たちは終始寡黙です。最後まで落ち着いています。その対比がまた、笑えます。

 真面目に考えれば、教会にとって深刻な事件です。でもそれを、むしろアタフタする大祭司たちの側から描くのです。それは私たちも、自分の人生を全く違う角度から見られるようにしたいからかもしれません。ユダヤの大祭司や議会の長老たちは、当時の社会の政治や宗教行事を取り仕切る最高権力者でした。28節の言葉のように彼らにとって、民が自分たちの命令に従わないだなんて考えられないことでした。そういう「泣く子も黙る」権力を持っていたはずの議会が、この使徒たちの活躍を妬み、当惑させられ、恐れ、怒り狂い、振り回されています。最高権力者であったはずが、動揺して、落ち着かなくなっています。それが彼らの大声や迫害の正体でした。特に注目したいのは、28節の大祭司の言い分です。こう言われています。

「…エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

 けれども、そうなのでしょうか。ペテロたちはこれにこう応えます。

29ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。30私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスをよみがえらせたのです。

 ペテロは大祭司やユダヤ人たちがイエスを嫉んで捕らえ、十字架に殺した責任に触れています。しかし、それ以上に、そのイエスを神はよみがえらせたと言っています。

31そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

 決してペテロは大祭司たちの罪を論って、その血の責任を負わせ、非難しようと告発したのではありません。むしろ、神はそのあなたがたの暴力から思いもかけない救いを始めてくださった。それこそあなたがたに聞いて欲しい言葉だと言っているのです。

32私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

2.刺々しい耳

 これは驚くべき良い知らせです。20節では

「いのちのことば」

と言われていました。命を与える言葉、イエスが下さる新しい命の言葉です。決して「裁きの宣告」ではないのです。非難ではなく、命が喜ぶような言葉です。神はイエスを通して、いのちを下さいました。イエスに対する妬みや暴力さえ神はそれにまさる復活によって覆ってくださいました。それほどに私たちを新しい命に招いてくださるのが神なのです。しかし、それを聴いても大祭司はそうは聴きませんでした。

「あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

 そうではないのです。なのにそう聴けないのです。イエスを殺したと自分を非難するのか、としか聴けない。自分が卑しめられている言葉だとかみつくしか出来ない。これは本当に悲劇です。

 でもそれは私たちにもない事でしょうか。神の測り知れない恵みを聴いても、その中の自分の責任の部分に引っかかるのです。非難に聞こえて噛みつき、逃れようとする[2]。神の恵みは99%でも自分が1%非難されるに違いないと過剰反応するのです。教会でも今日の箇所を説明するときには、使徒がユダヤ人を非難していると説明しているものが殆どです。ある方は「自分は四〇年前には、使徒たちが責任を追及する鋭い説教だと思っていた。けれど今注意して読むとそれは間違いのようです」と反省しています[3]。それは決して小さくない間違いです。でもそれぐらい人間は怯えているのでしょう。自分は正しくて強いか、非があってダメか、勝つか負けるか、そういうとても殺伐とした、脆い生き方しか考えられないのです。自分の非を認めたら、立つ瀬が無いように思うのです。人間の間違いや限界よりも大きな神の恵みを信じられないので、色々なものにしがみつきます。その立場を危うくされそうで、妬んだり、怒ったり、暴力的な言葉を言うのです。神の恵みにさえ、自分たちの悔い改めや自己非難が必要だと、生真面目な善意で思い込んで、人にもそう教えて結局怯えさせてしまうことが多いのです。[4]

3.悔い改めと罪の赦しを与える

31そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

 罪の赦しを与るではなく、

「悔い改めと罪の赦しを与える」

です。神は罪を赦してくださるけれども、そのためには私たちが悔い改めなければならない、ではないのです。悔い改めさえ、神が下さるのです。神は私たちに「反省」を要求する神ではありません。人間は恵みを聴いてもそこに非難を聞き取って、刺々しい言葉で返してしまう存在です。そんな人間に、神は反省を強制する方ではないのです。自分では悔い改められず、意固地にしかなれない私たちに、罪に気づき神に立ち帰る「悔い改め」の心も神が下さるのです。ですから、私たちは、反省が十分になるまで怒る神をビクビク恐れたりしません。罪に気づき救いを願う心さえ神のプレゼントですから、自分の非は非として素直に認めて謙りつつ、それをさえ益に変え、私を愛して止まない神を仰ぐのです。そういう「いのちのことば」を頂いて、今を生きるのです。

 その言葉は、私たちの心を新しくします。良い知らせを聴いても非難に聞こえなくなります。人の人気を見て妬みに燃えることもなくなります。自分が全部を仕切っているつもりで、端から見ればドタバタ喜劇の笑いものになっている滑稽な生き方から、そういう自分も含めてみんなと一緒に笑えるようになります[5]。売り言葉に買い言葉で返さなくて良くなります。イエスは使徒たちをそのように変えて、新しい心で生かしてくださり、証人としておられます。

 神は私たちに色々な悲しみさえ通らせながら、どんな苦しみや痛みよりも強い愛に私たちを成長させます。この愛が私たちを生かすのです。それが分かるまで、人は何かあれば妬み、腹を立て、心を閉ざします。神の恵みを聴いても自己防衛的になり、噛みつきます。そこに飛び込んで来られたイエスは、人の上辺の言葉や脅しにいちいち反応せず、辱められ、権力の暴力の極みさえ味わう生涯を全うされました。その十字架が、復活により神の愛のしるしに変わった。これが「いのちのことば」です。イエスは人を、死や妬みや怒り、被害者意識から救い出し、悔い改めと罪の赦しを下さいます。徹底的に恵みの言葉で、深い平和を持たせてくださり、話の聴き方さえ変えてくださいます。人の言葉や言葉尻に反応しなくてよくなり、権力者の虚勢や脅しや過剰反応が喜劇に見せるようにさえしてくださいます。相手も自分も「いのちのことば」を必要とする者として見るように変えられます。十字架を証しさせてくださるのです。

「平和の主よ。いのちのことばを語り続けた使徒たちに続いて、私たちも主の救いの証しとならせてください。人の言葉はどんなに偉そうで私たちを痛め苦しめても、いのちのことばの方が強いのです。私たちを生かすため、辱めをも厭わなかったイエスが、私たちをどんなときも支え、殺伐とした言葉や暴力が溢れる世界に、深い慰めと喜びを届けるためにお遣いください」



[1] 12節から16節に書いてあるのは、まだ生まれて間もないキリスト教会がますます伸びやかに成長した様子です。周囲からも尊敬され、信じる者も増え、病人の癒やしを求めて縋る人々まで現れました。この後、六章七章とステパノの殉教やそこから始まる大逆風の迫害がありますから、この箇所は、エルサレムでキリスト者が最も人気のあった時期を伝えています。後は厳しくなります。人気が高まったからこそ、嫉む人たちもいました。まず大祭司やユダヤの議会が妬みに燃えた。そして、使徒たちを捕らえて留置場に入れたのです。

[2] イエスの福音を聴いても、そこに非難や裁きを聴いてしまう。それが私たち人間の発想です。教会や牧師、神学者でさえまだまだ思い込みで小さく考えてしまうのです。それが人間です。そして、神の福音はそうした人間の考えよりも遙かに大きいのです。「そういう聴き方しか出来ないなんてやっぱり人間は(私は)ダメだ」とまた、刺々しい聴き方をしてしまうのが人間でしょうが、それもまた「恵みならざる」言葉です。

[3] 「もう、この使徒言行録を連続説教したのは四十年以上前になるわけですが、その時のわたくしは、ここら辺りまでユダヤ教と渡り合う使徒たちの姿や言葉を見ながら、何度も何度も“あなた方が十字架につけて殺したイエス”“あなた方が殺したイエス”というふうに、どんどんどんどん責任を追及している鋭い説教だなぁと思って、前回は読みました。ところが、今回改めて注意深く読んでみると、さっきも申しました通り、どうもそれは間違いのようです。そうではなくて、最初のキリスト教会が一所懸命ユダヤ教に宣べ伝えたことは、“あなた方がイエスを殺したのは無知のためだったのだから、今から悔い改めなさい、遅くはない、イエスは生きておられる”、こう言って、悔い改めと罪の赦しを受けるようにと一所懸命に勧めている説教だということが、とても印象的であります。(以下、続く)」榊原康夫『使徒言行録講解 2 4-7章』(教文館、2012年)、115-116頁。

[4] 「非暴力コミュニケーション」で言うと、これは「ジャッカル」の言葉です。何に対しても、暴力と受け止め、暴力的に返してしまうのです。

[5] 使徒たちがそうでした。捕らえられて留置場に入れられても嘆いたり腹を立てたり、呪ったりしませんでした。夜、主の使いが救い出してくれて、やれやれと家に帰るのでなく、夜明け頃から宮で教え始めました。そこでまた捕まっても「せっかく自由になったのに」と抵抗せず、黙って議会に来て、淡々と弁明します。最後の40節では「鞭打ち」で39回も背中を打たれて大変な痛みだったでしょうに、「41…御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」のです。辱められたことを喜んだのではありません。辱められるに値する者とされたことを、です。なぜなら、イエス御自身が辱められた方だからです。私たちのために鞭打たれ、十字架につけられ、妬みや怒りや脅しで殺されたお方だから、それに似た扱いを受ける事は「はずかしめられるに値する者とされた」ことだと受け止めたのです。そして、大祭司に対しても「いのちのことば」の証人になろうと努めます。彼らはもう知っていたのです。五章最初にあったように、自分を良く見せようと背伸びする必要は無いのだと、知っていたのです。

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