[1] 讃美歌21 233「高く戸を上げよ Macht Hoch Die Tür 」(ドイツの待降節・クリスマス讃美歌)
1 高く戸を上げよ、いざ、門を開け。 救いといのちを この世にもたらす、
栄えの君なる 主イェス来たりたもう。 ほめたたえよ、造り主を。
2 救いと正義に あふれたもう主は、 柔和を身に帯び、憐れみをみ手に、
われらの嘆きに 終りをもたらす。 ほめたたえよ、救いの主を。
3 幸いなるかな、主を迎うる町、 幸いなるかな、主を宿す人は。
主こそは輝く 喜びの太陽。 ほめたたえよ、慰め主。
4 開け、わが心、主イェスを迎えよ。 聖霊のみ神は、
ゆくてを示して 永久の祝福へ われらをみちびく。 神のみ名に みさかえあれ。
[2] マタイの福音書の最初はイエス・キリストをダビデ王の子として紹介し、王の系図から始まりました。二章は生まれたイエスを「ユダヤ人の王」として礼拝しようと遠くからやってきた博士たちの訪問が書かれていました。そして、当時の「福音」とは、「新しい王の即位」に当てはめられた用語です。キリスト教の福音は、神の子イエスが来られて、世界の王、私たちの王となってくださった、という知らせです。
[3] ゼカリヤ書9:9「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」
[4] イザヤ書62:11は「見よ、主は地の果てに聞かせられた。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの救いが来る。見よ、その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」」イザヤ書62章の文脈は、主の慰め、力強い回復が圧倒されるほどのイメージで述べられる、「第二イザヤ」と呼ばれる部分のクライマックスでもあります。ぜひ、前後をお読みください。参考までに続きの12節は「彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、追い求められる者、見捨てられることのない都と呼ばれる。」という言葉です。王の来訪は、すなわち、民の完全な回復でもあります。
[5] この時イエスが乗ったのは、母ロバか、子ロバかは、よく論じられるところです。7節の「その上着」「その上」は両者とも複数形なのです。あえて、両方に跨がった(曲乗り?)と理解する人もいます。また、軛でつないだ状態で、ひとつと数えている、という理解も出来ます。大事なのは、どちらに乗られたか、よりもロバを母子で連れて来られたことに、ゼカリヤ書の預言が成就した、と理解することです。
[6] 民数記16:15(モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」)、Ⅰサムエル記12:3(さあ今、主と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」)、Ⅱサムエル記16:2(王はツィバに言った。「これらは何のためか。」ツィバは言った。「二頭のろばは王の家族がお乗りになるため、パンと夏の果物は若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で疲れた者が飲むためです。」)、Ⅰ列王記1:33(王は彼らに言った。「おまえたちの主君の家来たちを連れて、私の子ソロモンを私の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ下れ。…38 そこで、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それにクレタ人とペレテ人が下って行き、ソロモンをダビデ王の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ行った。…44 ダビデ王は、祭司ツァドク、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、それに、クレタ人とペレテ人をソロモンにつけて送り出されました。彼らはソロモンを王の雌ろばに乗せ、)など。
[7] この場面を描いた多くの絵では、ロバには立派な鞍や美しい織物がかけられていますが・・・。
[8] Ⅱ列王記9:13(すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である」と言った。)。また、外典のマカベア書には、エルサレムが占領された屈辱を奪還した時、棕櫚の葉で祝ったことが書かれています。
[9] マタイの福音書2章3節「これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。」
[10] マタイ27章15~26節。今日の箇所で、「ホサナ」と叫んだ人たちが、五日後には「十字架につけろ」と叫ぶ、人間の悲壮さ、心変わりのしやすさ、残忍さを言われることがままあります。しかし、今日の箇所も、「ホサナ」と叫ぶ人と「エルサレム」の人々を区別していますし、金曜朝に集まって来たのは「バラバを釈放してもらう」ために集まって来た人々で、巡礼者というより地元のエルサレムの人々であったと考えた方が自然です。もちろん、熱狂的な歓迎が、わずかな時間や風向きの変化で、殺意に満ちた暴徒と変わりやすいことは、私たちの事実です。エルサレムの人々の変心を責めるより、自分自身の行動の間違いやすさを、強く自戒すべき事は、変わりありません。
[11] マタイ26章52節「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」
[12] 「柔和」 優しい、穏やか、思いやりのある、暴力的でない、土地を持たない。ローマ教皇の解説。
[13] 「フライブルク(ドイツ)の、アウグスティナ美術館にある『子ロバに乗るキリスト』は、私の知る限り、もっとも感動的なキリスト像の一つだと思う。(略)十四世紀に作られたこの彫刻は、棕櫚の日曜日に行われた行進で、台車に乗せて引くために作られたのだ。/額の高い、キリストの細長い顔、心の内を見つめる目、長い髪、二つに分けられた少しの顎髭。これらは、キリストの苦しみの神秘を表わし、私の心を深く捕らえて離さない。イエスは、「ホザナ!」と歓呼の叫びを挙げ、枝を切って道に敷く人々に囲まれてエルサレムに入場しながらも(マタイ21・8)、彼自身はまったく別のことに意識を集中しているように見える。/彼は熱狂する群衆を見ていない。手も振らない。そこにあるすべての音や動きを超えて、これから自分の身に起こることを見ている。それは、裏切り、拷問、十字架、死という苦悩に満ちた旅である。焦点の定まらない目は、周りの誰もが見ることのできないものを見ている。長い額は、人間の理解を超えたこれから起こる出来事を知っていることを表わしている。/そこには暗さがあるが、同時に受容の平安もある。移り気な人間の心に対する洞察があり、同時に大きな憐れみが溢れている。これから味わう言語に絶する大きな苦痛を知りながら、神の御心を行なうという強い決心がある。そのすべてに加えて、愛がある。尽きることのない、深く、遠くまで届く愛。それは決して壊れることのない神との親しい関係から生まれるもので、どこにいたとしても、どこにいるとしても、将来どこにいようとも、漏れることなく届く愛である。神には知り尽くせないものは何もなく、愛し尽くせない人は誰もいない。/この、ロバに乗ったキリストを見るたびに、キリストは、罪、罪悪感、恥をすべて持ったままの私を見られ、同時に、すべての赦し、慈悲、憐れみをもって私を愛してくださっていることを思わされる。/アウグスティナ美術館で彼と共にいることは、すなわち祈りだ。私はキリスト像を見て、もっと見て、さらに見続ける。そして私の心の深いところをキリストが見ておられることを知る。しかも私は、それを恐れないでいい。」 ヘンリ・ナウエン『明日への道』(長沢道子・植松功共訳、あめんどう、2003年)、202-203頁。
[14] マタイの福音書の最初から語る「王であるイエス」がここに一つの頂点を迎える。しかし、何よりもクライマックスは、十字架につけられた王である。
[15] 「この「柔和」と訳されている言葉、私は、「柔和」という漢字が原文にたいへんよく合っているように思います。これはギリシア語と日本語が、たいへん巧く対応しているひとつの例であると言っていいと思う。このギリシア語の意味を説明しているある人の論文を読んでみますと、何よりもこれは、友達とつき合う時、一緒に生きる時に、いつでも、その友達の慰めになっているような存在である人間のことを言うと説明しています。この柔和という言葉によって最もよく言い表されるのは「声」だそうです。あの人の声は柔和であるというのです。なるほどと思います。人とつき合うには、声をかけるのです。声にもいろいろあるのです。とげとげしい声、暗い声、明るい声、悲しい声、重い声。けれどもこの声は、柔らかな、やさしい声、そして相手を立てる声なのです。他者を生かす声であります。まるで主イエス・キリストの声が、聞こえてくるようであります。」加藤常昭『マタイによる福音書 4』(ヨルダン社、1991年)、111頁。
[16] この世界の、暴力と傷と、孤独と疲れ、罪と自己嫌悪、絶望と悲願に満ちたこの世界を担うには、キリストにとって柔和な道を担い抜く以外、道はなかったのかもしれません。小さなロバの背に身を任せて、一緒に歩んでくれと、あなたと一緒に歩みたいのだと、それだけがこの世界を神の国とする道なのだと、イエスは思われたのだ、と言えるのかもしれません。コロナ禍で、「コロナより人間が怖い」と言い交わす中で、イエスが私たちの王であること、私たちがではなくイエスが私たちの心を治め、私たちに仕えてくださる。ここに立ち戻りたいと、強く願います。
[17] 詩篇18:35 あなたは 御救いの盾を私に下さいます。 あなたの右の手は私を支え あなたの謙遜は私を大きくします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます