goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問105-107「心でも殺さない」ルカ10章25-37節

2018-01-07 20:47:02 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/31 ハ信仰問答105-107「心でも殺さない」ルカ10章25-37節

 十誡を見てきましたが、今日は第六戒を見ましょう。

「殺してはならない」

です。殺してはならない、なんて当たり前のことのように思うかもしれません。読みましょう■。

問105 第六戒で神は何を望んでおられますか。

答 わたしが、思いにより、言葉や素振りにより、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自ら、または他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりすることなく、かえってあらゆる復讐心を捨て去ること、さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を犯したりすべきではない、といことです。そういうわけで、為政者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。

 ここでは「殺す」ことが、思いや言葉や素振りや行為で、誹ったり憎んだり侮辱したりすることも含めている、と言います。また、隣人を直接だけでなく間接的に苦しめることも禁じられている、と言われています。復讐心を捨てることや危険な行為も避けるべきこと、と言います。また為政者に剣の権威が与えられている、とも言っています。これは今では、警察のことを指していると考えて良いでしょう。犯罪を取り締まるのは、神が為政者に委ねられた命を守る役目です。これに続いて、問106問は、

問106 しかし、この戒めは殺すことについてだけ語っているのではありませんか。

答 神が、殺人の禁止を通してわたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみや憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること、またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。

 これはイエスがマタイの五章でハッキリ仰ったことです。殺してはならないと聴いているだろうが、人を馬鹿にしたり呪ったりすることも殺人の罪だと言われました。「嘘つきは泥棒の始まり」と言いますが、「怒りは殺人の根っこ」なのです。神は、私たちが心の中で憎らしい、殺さないけど死んで欲しい、苦しんで欲しい、そう思うことの方を嫌われるのだ、だから「殺してはならない」とは殺人を犯さなければ良い、ということではないのだ、と言うのです。しかしハイデルベルグはここで終わりません。更に

問107 しかし、わたしたちが自分の隣人をそのように殺さないということで十分なのですか。

答 いいえ。神はそこにおいて、ねたみや憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐と平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人の損害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。

 人を殺さないだけではない、「殺したい」と思ってしまう相手、敵をさえ、自分のように愛し、忍耐を示し、その人の損害をできうる限り少なくしてあげよう、善をしてあげよう、ということです。その典型的な例は、今日読みました

「良きサマリア人の譬え」

だと言えるでしょう。サマリア人とユダヤ人は長い確執があって敵対していました。しかし、あるユダヤ人が強盗に会って倒れていた時、神殿で仕えている祭司やレビ人は反対側を通って行ったのに、たまたま通りかかったサマリア人は、可哀想に思い、近寄って手当をして、宿屋に連れて行き、介抱をし、宿屋の主人に彼を託して、できるだけの事をしてあげました。そしてイエスはこの譬えの最後に

「あなたも行って、同じようにしなさい」

と言われます。憐れみ深く生きなさい、と仰るのです。

 とはいえそれは簡単なことではありません。この時代と現代とでは沢山の事情の違いができました。ここから「殺してはいけないのだから死刑制度や戦争もダメだ」という人がいますが、聖書には重罪の場合は死刑は命じられていますし、戦争も行われています。

 現代の死刑制度は問題がありますし、戦争も勿論避けるべきですが、武器や自衛もせずに、侵略されたらそのまま人が殺されたり、悪い思想に再教育されたり、そういう暴力を放っておいて良いのか、という問題があります。

 殺人や戦争で殺されるよりも、交通事故の死亡の方が多いです。

 環境汚染で亡くなる人は6人に一人とも言われます。

 日本では死者の2~3パーセントが自殺でなくなっています。

 心を病む人、過労死、追い詰められている人、生きづらさで苦しむ人がたくさんいます。

 飢餓で亡くなる人は、一分間に17人で、その背後には10億人の飢餓で苦しみながら生きている人がいます。

 産まれてくる子どもは100万人いても、20万件の人工妊娠中絶が報告されています。実際はもっとでしょうが、聖書からすると、中絶は殺人だと考える人もいます。確かにとても複雑な問題です。色々な事情があって、決して堕ろさざるを得なかった女性たちを責めることは出来ません。中絶の苦しみは本人が一番辛いのです。

 また、自殺も殺人ですが、自殺はいけないと禁じたり罪悪感を煽り立てても、何の解決にもなりません。

 「殺してはいけない」とは簡単に見えて、とても複雑です。

 だからこそ私たちは、主が

「殺してはいけない」

と仰るのが、ただの道徳や命令ではなく、私たちの命を愛される叫びだと覚えたいのです。人が「あんな奴はいなくなった方がいい」と思っても、神は「殺してはならない」と仰います。私たちが傷つけ合い、自殺や絶望を止められず、自分の命の価値も見失っているとしても、主は私たちの命を「殺されてはいけない尊い命」と言われるのです。

 だから主は「殺してはならない」と命じるだけでなく、御自身がこの世に来て、十字架に殺される道を選ばれました。

 

 殺人が悪いという道徳や罰をかざしたまま遠くを通り過ぎたりせず、こちら側に来られ、殺されることも厭わずに、私たちにいのちを取り戻してくださいました。憐れんで、出来る全てのことをしてくださいました。私たちはそのイエスの下さったいのちをいただいています。

 私たちが人のいのちや自分のいのちをどう思うかに関わらず、神は私たちのいのちのために、最大級の犠牲をも惜しまれませんでした。その原点に絶えず立ち返りたいと思います。そこから始めるからこそ、飢餓や自殺、戦争、中絶、死刑制度、安楽死、様々な具体的な問題にも取り組み、学び、取り組みたいのです。そしてそれ以上に、いのちを祝いたい。人生という贈り物を喜び、愛して、互いのいのちを生かし合いたいのです。キリストが御自身のいのちを捨ててまで取り戻してくださったいのちです。殺されたり生きながらも魂が死んだように傷つけられている多くの人がもう一度いのちを喜ぶため、まず自分や周りとのいのちを取り戻し、祝うようになりましょう。

 


問104「敬意への自由」エペソ3章14-21節

2017-12-17 16:37:22 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/17 ハ信仰問答104「敬意への自由」エペソ3章14-21節

 十誡を一つずつ見ていますが、前半の四つが神を神とする生き方を教えていたのに対して、今日から見ていきます後半六つは、人との関係について教えています。

「父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない…」

です。そこで、今日はまず第五の戒め、

「あなたの父と母を敬え」

を見ていきましょう。■

問104 第五戒では神は何を望んでおられますか。

答 わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々にあらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを納めようとなさるからです。

 ここには、私たちが自分の父と母だけでなく、すべての

「上に立てられた人々」

に対する尊敬と服従と忍耐が命じられているのだ、と言われています。学校の先生、教会の牧師、国家の政府に至るまで、すべての目上の人。とはいえ、基本は父と母です。それが

「殺してはならない。姦淫してはならない」

よりも先に命じられているのです。

 この言葉は、小さい子どもたちを教え諭す言葉として使われがちですが、ここではそういう限定をしてはいません。既に大人になった子どもたちに、もうお祖父ちゃんお祖母ちゃんになった両親を敬え、と言っています。勿論、小さな子どもたちも親を敬うことは必要です。しかし、それを教える親たちが自分の親を敬っていないとしたら、どうして子どもたちが親を敬うでしょう。親は子どもたちに「嫌な親は敬わなくても良い」という手本を真似て、いつかは自分たちがぞんざいに扱われることになるのです。

 しかし聖書にはそのような、親を悲しませ、親に背く子どもたちの話が満ちています。アダム、ノア、ダビデ、ソロモン、ヨブ。みんな家族のことで苦しみました。聖書は親を理想化して、

「あなたの父と母を敬え」

と言ってはいません。誰でも当然の麗しい家族関係が念頭にあると思ったら大間違いです。また、父と母の問題には目を瞑って、尊敬しなさい、感謝しなさい、服従しなさい、と言っているのでもありません。ここにわざわざ

「ふさわしい従順をもって服従し」

とあるのは、何が何でも言うことを聞きなさい、ではなくて、従うべきでない時もあることを言っているのです。人間に罪があることを聖書は言います。親だって例外ではありません。その親の問題に目を瞑れ、というのではないのです。形ばかり従いなさいと命じられていれば、ますます親を嫌い、遠ざけようとするでしょう。十誡が言うのはその逆です。親の問題は問題として認めつつ、それでも親を敬う道、親との関係の癒やしを告げているのです。

 誰もが生まれて最初に持つのは親との関係です。何かの事情で親に育てられない場合も含めて、親との関係は私たちの中に大きな影響を持ちます。でも先にも言ったように親も罪人です。子育てや家庭においてこそ、その罪は最も現れます。そして、子どもは親との関係で安心して育ち、一人前に成長していけば良いのですが、親の罪や我が儘、恐れや不安のあおりを受けます。十分に愛を注いでもらえたと思えず、自信や信頼をもらえないことが多いのです。親との関係で十分安心できないと、自分が好きになれません。だから人を好きになるのも難しいのは当然です。親への憎しみが、他人にぶつけられて、殺人になるかもしれません。親の愛情をもらえなかったのを、他人にもらおうと、結婚や恋愛関係、それどころか不倫に求めることもよくあります。ですから、

「殺してはならない、姦淫してはならない」

というヨコの人間関係を扱う以前に、

「父と母を敬え」

という、最初の基本的な関係、居場所の問題を整理するように言うのです。本当は、尊敬する親を持ちたい、尊敬できる親を持ちたい、というのがだれもが持っている願いです。それが出来ない人の思いを汲み取るようにして、神は、親への素直な尊敬を表すよう、仰っているのだとも言えます。その深い願いを、主が満たしてくださるとき、他の人との関係にもわだかまりなく向かわせてもらえるのです。

 主なる神は神の民に

「あなたの父と母とを敬え」

と仰いました。父にも母にも罪があることも、主はご承知です。神の民の中にさえ、親子関係でどれほどの傷や痛みやこじれた問題が積み重ねられてきたかも、百も承知です。けれども、いいえ、だからこそ、主はその問題に引きずられたまま、他の人間関係まで歪めたり八つ当たりにしたりしないために、あなたの父と母を敬え、と仰ったのです。なぜなら、父と母を嫌い続ける時、私たちはいつまでも自分をも好きになれません。親を憎むなら、自分をも愛せません。そして、自分が親になる時にも、子どもを育てる自信が持てなかったり、親と同じ事をすまいと力みすぎて、結局、自分の親子関係にも親との傷を持ち込んでしまうのです。だから、親の問題を認めつつ、親を好きになれなくてもいい、何でも従え、というのでもない。ただ、親を敬え、恨みやわだかまりよりも、自分の親への尊敬を持ちなさい。そうすれば、その尊敬すべき親の子どもである自分も、憎まなくて良くなっていき、他の人との関係にも尊敬し合うことが始まっていくからです。

 主なる神は、

「父と母を敬え」

と仰っただけではありません。十誡の序言は

「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」

です。主はもう私の神となり、私を神の民としてくださいました。また神の子イエスは私たちと一つとなって下さって、私たちを神の子どもとしてくださいました。神は私たちの

「天の父」

です。この天の父が私たちを生み、永遠に愛し、認め、安心も自信も下さいます。その神が私たちの天の父であることを知ると、地上での私たちの両親も、そのままに認めて敬えるようになるのです。自分の事も愛されていると知るようになります。また自分が親になることも、失敗や欠けがあっても天の父が助け、大切な子どもを任せてくださるのだから、安心して、助け、愛していこう、と思えるようになります。

エペソ人への手紙三14こういうわけで、私は膝をかがめて、

15天と地にあるすべての家族の、「家族」という名の元である御父の前に祈ります。

16どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

 だから親に何でも従うのではなくても、親への尊敬を表してみましょう。親を大切に思っていることを伝えてみましょう。私たちは人からの尊敬を必要としているものです。親からの愛と、子どもからの尊敬を必要としているのです。まず親への敬意を持つ時、親が戸惑いつつもどれほど慰められ、満たされるでしょうか。親子の問題を踏まえつつも、私たちはその関係の修復を必要としています。その一歩を自分から始めるのです。それを始めさせて下さるのが主です。それは実に生き生きとした神のお働きなのです。


問103「休ませてくださる神」マタイ11章

2017-12-10 20:28:37 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/10 ハ信仰問答103「休ませてくださる神」マタイ11章

 今日は十誡の第四戒

「安息日を覚えてこれを聖とせよ」

です。十誡の中で、一番長い戒めです。読んで分かりますように、十誡が与えられたユダヤ社会では、週の六日を働き、七日目を一日、安息の日として、何の労働もせず、聖なる日として過ごす、ということです。七日目ですから、土曜日でした。今でもイスラエルでは正統派のユダヤ教徒が土曜日を一日一切の労働をしないそうです。お店も開かないし、家庭でも極力作業をしないように生きています。しかし、新訳聖書を見ますと、イエスは、当時のそのような安息日の理解に対して、大きく異なる態度を取られて、宗教家たちの強い反感を買いました。ここにはとても大切な、沢山の事が込められています。その全てをお話しすることは出来ません。今日もハイデルベルグ信仰問答に沿って、短くお話しします。

問103 第四戒で神は何を望んでおられますか。

答 神が望んでおられることは、第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、わたしが、とりわけ休みの日には神の集会に勤勉に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な献げ物をする、ということ。第二に、わたしが、生涯のすべての日において、自分の邪悪な業を休み、御霊を通して主にわたしの内で働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです。

 この答で分かるように、ハイデルベルグ信仰問答も余り深く長い説明はしていません。ただ、一つには

「休みの日」

日曜日には神の集会に集い、御言葉を学び、聖礼典に預かり、一緒に祈りや賛美を献げよう、そして献金をしよう。もう一つは、安息日だけでなく、生涯の全ての日において、永遠の安息をもうこの生涯において始めるようになる。それが安息日において神が望んでおられることなのだ。その二つに絞っています。日曜日を、教会において過ごす、というとても具体的な実際的なことと、永遠の安息がいまここでの毎日において始まる、というとても大きな、想像しづらいこと。その二つが、この第四戒を通して教えられているのだ、ということです。

 イエスは仰いました。

マタイ十一28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 これは教会の看板や集会案内、HPに大きく書かれていることの多い有名な言葉です。ここに

「休ませて…安らぎ」

という言葉が出て来ます。それは、今日の

「安息日」

と通じます。それは「教会にいらっしゃい、日曜日の礼拝に是非ご一緒ください」という具体的なお誘いでもありますし、同時に、イエスが下さるのは永遠の安息であり、イエスを通して、今ここで安らぎのある毎日を送ることが始まる、という意味でもあります。日曜日だけ、慌ただしい世間を離れて、教会の礼拝に来て、現実逃避や休息をする、という意味ではありません。イエスとともに歩み、イエスから学び、イエスから託された軛や荷を担う生き方をする時、いつでもどこでも、魂に安らぎを得ながら歩む、ということです。そしてそれを味わう始まりが、毎週、仕事の手を休めて、礼拝に来て、こうして一緒に過ごすような時間の使い方にあるのだ、ということです。

 イエスは

「全て疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」

と言われました。「全て立派な人、良いことをした人、頑張った人」とは言われませんでした。イエスが下さる「休み」は「ご褒美」ではないのです。全て疲れた人、重荷を負っている人を休ませて、休息を下さると仰いました。イエスは、休ませてくださるお方です。無条件に休ませてあげようと言って下さる神です。イエスはご自身を

「安息日の主」

と名乗られました。そして、それはイエスを通してハッキリと知らされる、聖書の神のとてもユニークな本質です。

 第四戒の安息日律法の根拠は、神が六日間で世界を造られ、七日目に休まれたことにある、とありました。神が休まれた。勿論、神は世界を造って疲れたから休みたかったのではないはずです。世界を治め、今も原子やクォークから銀河に至るまで神はすべて支配しておられる全能で無限のお方ですから。また、何か神が淋しくて、何か物足りなくて世界を造られたとも考えられません。聖書に出て来るのは、神がこの世界を造られ、それを美しいものとして愛でられ、眺めて祝福されたことです。そしてその祝福を楽しみ、一緒に喜ぶようにと、神は人間をお造りになり、一緒に休んで喜ぼう、楽しもう、と言われるのです。神が人間に求められるのは、神が造られた世界の中で一緒に喜び、楽しみ、祝うことです。そして、やがて永遠に安息をする世界へと入れたい、そのために、全ての人に

「わたしのもとに来なさい」

と言われる神です。

 左は、それを図にしてみた神の創造の世界です。神の創造が土台になり、その土台の上で人間が作られて、存在し、労働も休みも与えられています。とても安定しています。しかし、そのような神を知らない人間中心の考えが右です。神という土台がないので、信頼できるものがなく、いつも自分の努力をしていなければ安心できません。自分が頑張れば神も祝福してくださるかもしれないし、頑張らない人には休みももらえない。土台は自分たちの努力次第、ということになります。神が安息の主だとは思いもしません。

 安息日は、そのような人間の考えを脇に置いて、神の前に静まり、世界を楽しみ、神を心から賛美する日です。言わば自分が働かなくても、世界はちゃんと回っている、ということを謙虚に覚えるのです。神を礼拝し、イエス・キリストの恵みを覚えて、自分の頑張りや企みやプライドや不安も、全て主にお委ねするのです。やがて、神の安息がこの世界を覆う時が来る。主が私たちの功績や努力によってではなく、恵みによってその安息に迎え入れられる日が始まる。その日を待ち望んで、今ここでも安息日を休みつつ、六日間は精一杯働きつつ、ともに休める社会、恵みに立った生き方、疲れている人が憩いを得て生きていける社会を造るのです。日曜に行事の多い、また日曜しか休めない日本で、私たちが本当に安息の礼拝の日とすることには知恵や柔軟性が必要です。でもその根底にあるのは、教会で忙しくする日曜日ではなく、働き過ぎる空回りを止めて、安息の主を礼拝して、私たちが安息へとともに招かれていることなのです。


問101-102「神の誓い」エレミヤ書4章1-2節

2017-12-03 17:12:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/26 ハ信仰問答101-102「神の誓い」エレミヤ書4章1-2節

 今日も十誡の第三戒

「主の御名をみだりに唱えてはならない」

という言葉をお話しします。私たちも自分の名前がどう呼ばれるか、大切に名前を呼ばれるか、馬鹿にされたりからかって名前を噂されるかどうか、とても気になるものです。まして本当の神の名前を、私たちが丁寧に呼ぶことはとても大切なことです。かといって、名前を恭しく唱えなければ、と一切神様の名前を呼ばない、というのもおかしな話になります。今日はそうした極端な間違いの一つ、「誓い」「誓約」のことを取り上げます。

問101 しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。

答 そのとおりです。為政者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合、です。なぜなら、そのような誓いは、神の御言葉に基づいており、旧新約の聖徒たちによって正しく用いられてきたからです。

問102 聖人や他の被造物によって誓うことはよいのですか。

答 いいえ。なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと、呼びかけることであり、このような栄光はいかなる被造物にも帰されるものではないからです。

 ここでは二つとも「誓約」(誓い)が取り上げられています。自分の考えや行動の裏付けとして「神」を持ち出すことはよくあります。「神がこうなさったのだ」とか「神も罰せられるだろう」などと言う場合です。もっとハッキリ「神の前に誓う」形もありました。

 このハイデルベルグ信仰問答が作られた16世紀、社会では、神の前に誓うことがありました。裁判所での証言、結婚の誓約、またここで「為政者が」とあるように、政治の場面や公職に就く場合、神の前に誓約を立てることがあったのです。ところが、その頃、極端な改革をする人々は、そういう誓約もしてはならない、と考えました。なぜならイエスが「山上の説教」で

「誓ってはならない」

と仰ったからだ、というのです。確かにイエスは、当時の人々の「誓い」に対する姿勢を非難なさいました。神の名前は使わずに、天やエルサレムを指して誓っては、いい加減に済ませる、というのが当たり前だったようです。そこでイエスも厳しく、誓うよりも、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい、と仰いました。

 この言葉を拡大解釈して、「もう一切誓わない、イエス様が仰ったのだから、誓約することは禁じられています。誓約は罪です」と考える運動がありました。そうすると誓約が求められる仕事にはつけません。政治家や公の仕事には就任する際に誓約が求められていましたから、彼らは最初から国や市のことには携わらず、社会そのものを軽蔑するような、とても極端な運動になっていったのです。こういう運動を意識して、今日の問101では

しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。

答 その通りです。…

と言います。イエスが仰ったのは、誓ってはならない、誓約することは罪だ、ということではありません。為政者が国民に求める場合もあるし、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合もある。そしてそう言えるのは、聖書の御言葉の中に、沢山の誓いの例があるからです。旧約聖書でも新約聖書でも、誓約の良い例はたくさんあります。だからイエスが仰った一箇所の言葉の字面だけを取り上げて、「誓ってはいけないと言われたのだから誓ってはいけないのだ」という考えを窘めているのですね。

 また、今日読みましたヘブル書の言葉では、神ご自身が「誓った」とありました。神が誓われて、キリストを私たちの大祭司として立てることを誓ってくださいました。

ヘブル人への手紙7章21節この方は、ご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました。「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」

22その分、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです。

 神が誓うなんて、本当は不必要ですね。神の仰ることを私たちはそのまま信じ受け取れば良いのです。しかし、神はご自身の言葉の確かさを私たちに確証するために、わざわざ誓って、本当だよ、偽りではないよ、と強く仰ったのです。ですから私たちも、誓いがなくてもいつも真実を語り、必要な場合は誓うことも躊躇ってはならないのです。問102の通り、私たちは

「ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、私が偽って誓う時には私を罰してくださるようにと、呼びかける」

 そういう正当な誓いをするのです。誓わなければ良いとか、神の名以外のもの(聖人や他の被造物)に誓うのであれば良いとかではないのです。いい加減な事を言わずに、全てを知っておられる神の前に、心の奥までもご存じである神の前に正直に語れば良いのです。

 しかし聖書には、間違った誓いの例も沢山あります。国主ヘロデは酔った勢いでとんでもない誓いをしました。弟子のペテロは殺されるのが恐くて

「イエスを知らない」

と呪いをかけて否定しました。そういう場合、間違った誓いでも果たすべきでしょうか。嘘で誓った場合、それは許されない罪なのでしょうか。いいえ、イエスはペテロを愛されました。言葉で間違うのも人間です。その場合は謙って自分の非を認め、良い形で責任を取って事態の収拾に努めるべきです。そのような回復を、主は助けてくださいます。

 主は本当に真実で恵み深いお方です。主の御名には、主の御真実が凝縮されています。だから私たちは主の御名をみだりに唱えてはならず、主を恐れ、愛し、賛美しつつ御名を口にするのです。主もまた、私たちに御名をみだりに唱えるなと命じるだけではありません。実に主は、ご自身の御名を聖書の中で繰り返し、新しく教えておられます。

 

 これはその主なものです。クリスマスが近づきましたが、クリスマスにも主は

「インマヌエル」

「ユダヤ人の王」

「ナザレ人」

「いと高き方の子」

「聖なる者、神の子」

「主キリスト」

そして

「イエス」

と新しい名前で呼ばれています。主は、私たちのために、沢山の名前をもってご自身を私たちに紹介してくださいます。名前をみだりに唱えるな、という以上に、神の御名の素晴らしさ、確かさ、真実さを教えてくださっています。自分の不真実や、口の軽さ、失敗で、いい加減に語ったり、神のお約束さえ割り引いて考える私たちに、神は、ご自身の御名が聖なる名であることを強調されます。更には、多くの名で私たちにご自身を名乗られます。何より、イエス・キリストの御生涯そのものが、神の自己紹介でした。この方の前にあって私たちは生きています。

 この方がすべてを聞いておられます。すべてをお見通しで、心の奥までご存じの神です。そして、私たちが嘘やはったりで庇ってまで隠そうとする事実を、ありのままに受け入れて、祝福して下さる神です。その神を思いつつ、いつでも真実に語れる恵みがあるのです。


問99-100「ていねいに語る」エレミヤ書4章1-2節

2017-11-26 20:39:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/26 ハ信仰問答99-100「ていねいに語る」エレミヤ書4章1-2節

 十誡の第三の戒めは

「主の御名をみだりに唱えてはならない」

です。神の御名をぞんざいに、ふさわしからぬ唱え方をしてはならない、というのです。私たちも自分の名前が丁寧に呼ばれるなら嬉しいですし、名前でからかわれたりしたらとても悲しいです。人の名前で遊んだり貶めたりすることは、決してしてはいけません。まして、神の御名を軽々しく口にすることは厳重に禁じられるのです。ハイデルベルグ信仰問答です。

問99 第三戒は何を求めていますか。

答 わたしたちが、呪いまたは偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない、ということ、要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いることをしない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と業とによって賛えられるためです。

問100 それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、それをできるだけ阻止したり禁じたりしようとしない人々にも神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。

答 確かにそのとおりです。なぜなら、神の御名の冒涜ほどこの方が激しくお怒りになる罪はないからです。それゆえ、この方はそれを死をもって罰するようにもお命じになりました。

 神の御名を唱える代表的な場合が

「呪いや誓約」

です。つまり

「御名をみだりに唱える」

のよくあるケースが、「神に賭けて誓う」とか「神があなたを罰するだろう」などということ。自分の行為や考えの正しさを裏付けるために、神を持ってくることですね。神の御名を乱用して、自分の正しさを確信する。あるいは、自分の嘘を誤魔化そうとする。あるいは、神の御名を使われたら相手は怯みますから、そうやって自分の思い通りにしよう、相手を言いくるめて、コントロールしよう、ということもあるでしょう。■

 他にも、御名をみだりに使う場合として想定されるのは、軽々しく、馬鹿にするために神を語ることです。英語で「ジーザス」と言っているのが、「イエス様のことかな」と思ったら「しまった」とか「畜生」という使い方がよくされるのです。神さま、というのも、「あらら」とか「ひどい」という時だったりします。こういう言い方(スラング)は当然冒涜です。嫌なことがあった時、自分の名前を叫ばれて笑われるなんて、こんな失礼はありません。神を礼拝する者として、いつも神の御名は大事にしたいのです。

 しかし、そういう極端な分かりやすい場合だけではありません。キリスト者でない人、いわば第一戒からして知らない人が第三戒を守らないのは不思議でもないのです。第一戒と第二戒、神だけを礼拝し、正しい方法で神を礼拝している上で、その神の御名を本当に神に相応しく口にせずに、軽々しく口にしてしまうことがここで言われています。「本当の神だけを礼拝している、自分は聖書の方法で神を礼拝している」と自負する時こそ、その神を礼拝する口と、心における態度がちぐはぐになってしまいやすい自分を省みる必要があるのです。神を礼拝しながら、不平や不満で一杯になっている。神などいないかのように、また、神を小さくつまらなく考えてしまう。そういう心のまま、ただ口先で神を礼拝したり、美しい讃美歌を献げたり、立派そうな祈りを蕩々と唱えたりしても、それは神は喜ばれないのです。また、神が憐れみ深い方だと言いながら、自分の狭く堅苦しい偏った思いで人を裁いて、「そんなことは神様は喜ばれませんよ」などと言うなら、それは間違った熱心でしょう。なぜなら、人はそのような言い方を聞くうちに、神ご自身を誤解し、憎んだり、蔑んだりするのも当然だからです。

 神の御名は、神のすべてが込められた名前です。神のご人格、御性質、神の御業、イエス・キリストの受肉と十字架の死と復活。そのような神のすばらしい御業が詰まっている名前です。神の御名を口にするとき、私たちは、その神の素晴らしさ、偉大さ、正しさ、真実の前に、良い意味で襟を正させられるはずです。それは私たちの普段の言葉も、丁寧に語るように変えずには起きません。軽々しく神を考える反対に、神を味わうことによって、私たちの普段の言葉が、ゆっくり真実を語るように変わるのです。

エレミヤ書四1「イスラエルよ、もし帰るのなら、-主のことば-わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。

 主を知ることは、忌まわしいものを取り除き、真実と公正と義によって誓うこと、互いに祝福し合い、主を誇って生きる、晴れやかな生き方なのです。主は、決してご自身の名前そのものが大事だから、私たちに御名をみだりに唱えるな、と厳しく仰るのではありません。そうでなければ、御名をみだりに唱える人をたちまち滅ぼされたでしょう。しかしイエスはこう仰ったのです。

マタイ十二31ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」

 第三戒を字義通りに延長すればこんな言葉は出て来ません。イエスに逆らう言葉、イエスを冒涜する言葉は極刑だと言われたでしょう。しかし、イエスは天の神への冒涜も、ご自身への冒涜も赦されると言われました。ただ、聖霊が私たちの心に働きかけて、神への信仰を持たせて下さる時、神の御名を知って、神の恵みや正しさを知らされて、自分の生き方も深く新たにされようとするときに、なお拒んで、神の御名に背く生き方をするならば、それは赦されることそのものを拒むことだと警告されました。それは私たちのための注意であって、決してご自身の怒りや脅しではないのです。

 そして事実イエスは、人から罵られ、その名を嘲られながら、黙って十字架に架かりました。イエスはそのような逞しく恵み深いお方でした。この方がおられることを思い起こさせるのが主の御名です。その御名を、噛みしめて唱えましょう。イエスは「主の祈り」で最初に「御名が聖とされますように」祈るよう教えられました。みだりに唱えぬよう、おっかなびっくり、いっそ黙る、ではありません。何よりも素晴らしい名にふさわしく、主がどんなお方で何をしてくださったかを噛みしめ味わい、御名を心から賛美する。です。