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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問96「もっと良い見えない方法」マタイ24章1-2節

2017-11-19 16:29:01 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/19 ハ信仰問答96「もっと良い見えない方法」マタイ24章1-2節

 十戒の第二戒を見ます。

「偶像を作ってはならない」。

 第一戒でも偶像のことをお話ししました。偶像崇拝にはあらゆる形のものがあると先週確認しました。第二戒はどう違うのでしょうか。第一戒では、本当の神、天地を造られて、聖書を与えてくださった神の他に神を持ってはならない、でした。神ならぬものを神とする、という意味での偶像崇拝です。それは第一戒の禁止事項でした。この第二戒はそれを踏まえた上で、

問96 第二戒で神は何を望んでおられますか。

答 わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉の中でお命じになった以外の仕方で礼拝をしてはならない、ということです。

 つまり、天地の造り主、聖書の神を礼拝すると言いながら、そこに偶像を持ち込んでしまうことを戒めています。真の神への礼拝に、自分たちに都合のよい像や形、方法を持ち込み、結局は、神を礼拝するのではなく、自分に都合のよい礼拝をすること。それが禁じられているのです。そして、わざわざそう言われていることが示すように、私たちが実によくやらかしがちな、いいえ、やらかさずにおれない間違いです。

 特にこのハイデルベルグ信仰問答の背景である宗教改革の時期、当時の教会には、会堂の中にたくさんの像がありました。十字架にはイエスがついており、マリアとイエス、聖書の物語、神の像などがたくさん置かれていたのです。それは、聖書の物語をよくわかるためであって、決してこれを拝んだりお願いをしたりするためではない、とは言っていました。しかし、当然ながら実際には、民衆の中にはこうした像を崇める人、神格化する考えが蔓延していました。まだ文字も読めない人が多い時代、聖書も読めないし、教育もない人に分かりやすい絵や像は確かに親しみやすく、インパクトがありました。インパクトがありすぎて、そちらを崇めたて、イエス・キリストよりも像や形に縋りつくようになったのです。つまり、礼拝の方法に「わかりやすいもの」「目に見えるもの」を持ち込むと、礼拝や信仰そのものが大きく変質してしまうのです。ですから

問97 それならば、人はどのようなかたちをも作ってはならないのですか。

答 神は決して模写されえないし、またされるべきでもありません。被造物については、それが模写されうるとはいえ、人がそれを崇めたりまたはそれによってこの方を礼拝するためにそのかたちを作ったり所有したりすることを、神は禁じておられるのです。

問98 しかし、かたちは、一般信徒の教育手段として教会で許されてもよいのではありませんか。 答 いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。

 ユダヤ人は旧約聖書の時代、神殿に偶像を持ち込んで、まさにこの第一戒と第二戒の違反を重ねました。その反省を込めて、それ以降、彼らは厳格に像を造らず、潔癖に生きていました。イエスの時代、ローマ帝国が芸術の文化を持ち込んだ時、たくさんの摩擦がありました。たとえばローマのコインには皇帝の像が刻まれていました。

 ユダヤがローマ帝国の属州になったとき、これを使うのは大変な抵抗があり、神殿への献金には認めず、ユダヤのお金への両替がなされました。そのように徹底した像の排除をしたのです。しかしそれでこの第二戒が守れたのでしょうか。いいえイエスと初代教会との間に確執となったのは、像を排除して神を礼拝した神殿そのものの偶像化でした。弟子たちが立派な神殿を見てイエスに興奮気味に

「この神殿をご覧ください」

と言ったとき、イエスは神殿も何もかも跡形もなく崩れる日が来るとおっしゃいました。神殿の大祭司たちは、教会から向けられた自分たちの見えない問題への指摘に耳を傾けるよりも、神殿を冒涜したけしからん奴らだと応酬しました。

 今の教会もそうです。イエス像やマリア像、聖像や聖画をなくしても、建物を誇ることもあります。会堂が立派だとか、賛美が美しい、音響機器が充実している、牧師が素晴らしい…なんにせよ、キリストが下さった福音や、この恵みの神への礼拝よりも、自分たちの手っ取り早く、居心地の良いものが礼拝の中心となるのです。神が定めたのではない、方法や形を持ち込むと、それは助けではなく、足を引っ張り、全く違う信仰にしてしまうのです。

 人間同士でさえ、互いに完璧に理解することは出来ません。「あの人はこんな人だよ」と決めつけた途端、そこには人格的な温かみある関係は持てなくなります。まして「神はこんな方だ、今起きた出来事はこんな意味があるに違いない、神がおられるならきっとこうしてくださるはずだ」と決めつけることはどうでしょう。神は無限で永遠のお方です。私たちは有限で時間の中を生きている、本当に小さな存在です。神が無限である、ということさえ自分の限りある理解の中で小さくしか想像できない、貧しい存在です。

 

 C・S・ルイスの『悪魔の手紙』という本で、悪魔がこんなことを言います。「もし人間が神に向かって、『私の考えているあなたではなく、あなたが知っておられるあなたの御心の通りにしてください』と祈るようになれば、我々には打つ手がなくなる」。私たちが知っているのは、どこまで行っても、永遠なる神のごく一部です。神の考えは、本当に大きく、広く、いつも驚かされます。神の恵みは、限りなく深く、豊かで、絶えず胸が熱くなります。その大きさをいつも弁えるからこそ、自分には思いがけないこと、理解できないことが起こっても、そこにも神が働かれ、益となさり、栄光を現わしてくださると信じるのです。神は私たちに、居心地の良い生活を保障されません。むしろ、私たちが閉じこもっている小さな世界、神を知らない奴隷のような生き方から、神の子どもとしての広やかな世界に連れ出してくださるお方です。それを私たちが引き下げて、神ご自身まで自分の見える形に引き下ろしてしまうとしたら、もったいないことです。

 イエスは見える世界に神の栄光を見せられました。空の鳥を、野の花を見なさい、困っている人を見なさい、パンを食べ杯を飲みなさい、と言われました。見えるものは大事ではない、ではなく、今目の前にあるもの、神が作られた見せる世界の一つ一つが神の栄光を豊かに現しています。それでは足りないからと何かを持ち込み拝むことは不要です。むしろ見える世界、今ある世界、自然や目の前の人の中に、神がどのようなお方が現わされている。私たちも、神の栄光を現わすために、命を与えられている。そう気づかされるとき、ますます神の偉大さ、恵み深さに賛美をするようになるのです。


問95「偶像崇拝という悲喜劇」出エジプト記32章1-8節

2017-11-12 20:46:17 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/12 ハ信仰問答95「偶像崇拝という悲喜劇」出エジプト記32章1-8節

 私たちが、毎日の生活をどう生きていけば善いのか、聖書には「十誡」というエッセンスで神の民の生き方が教えられています。「十の言葉」を一つずつ見ることにして、先週の続きの第一戒を今日もう一回お話しします。第一戒は

「あなたにはわたし以外に、他の神があってはならない」

という戒めでした。その他の神を拝むことの中には、迷信や魔術をしないことも含みますが、第一には

「偶像崇拝」

をしないことです。先回の問94では

「あらゆる偶像崇拝」

をしない、とありました。「偶像」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。

 こういう「いかにも」な「偶像」を思い浮かべるかも知れません。像というのですから、見える形や、礼拝のためにわざわざ作ったものを思うかも知れません。確かにこういうものは偶像です。そして、世界にはまだまだこういう像や宗教を作っては「神」だと呼んで拝んで止まない人がたくさんいるのです。人間が神を作ったり、自分の願いをかなえてくれる神を作れるとしたら、神なんていらないぐらい人間はスゴイことになりますが、そういうちぐはぐなことをしているのです。

 とはいえ、こういう分かりやすい像や人間の作品だけが「偶像」ではありません。

問95 偶像崇拝とは何ですか。

答 御言葉において御自身を啓示された、唯一まことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。

 聖書の御言葉において御自分を現されている本当の神と取り替えて、何かに信頼を置くことは、すべて第一戒が言う「主以外のものを神とする」ということなのですね。それは偶像や宗教ではないかもしれません。それでも、神である主の代わりにしているものは、自分では気づかなくても、第一戒で主が戒められた警告に該当するのですね。

 最近、こんな記事を読みました。イスラム圏で長く暮らしてきた方が日本の大学生に聖書の話を伝える時のことです。「彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。/日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。/そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。」

 「人は誰も「宗教(偶像)」を持っている」。

 これはとても大切で鋭い指摘です。神に作られて、神を礼拝する心を与えられた人間は、神から離れると代わりに何かを礼拝せずにはおれません。自分に安心や価値や幸せをくれる何かに縋ってしまうのです。

 皆さんは何に縋っているでしょうか。教会に来て、イエスを知り、他に神はいないと言いつつも、知らないうちに神のように、神以上に大事にしているものがないでしょうか。男性は仕事が偶像になりがちです。就職試験に落ちたら自分の価値がないように思ったり、出世や職場の評定を人生の絶対的なもののように考えてしまいやすいです。そのために健康や家族を犠牲にしたりします。私も、自分の「牧師」という仕事が自分の評価や全てにならないように気をつけたいと思っています。また、趣味も、行き過ぎて、自分のすべてになってしまうことがあります。「健康」や「若さ」「体」を鍛えることが偶像になる場合もあります。スポーツ選手もそうですし、老いることや死ぬことを恐れて、お金を惜しまない現代は、自分の身体を崇めんばかりに大事にする風潮があります。「アイドル」というのは分かりやすいですが、まさに「偶像」という意味です。色々なアイドルがあり、あらゆるもののオタクがいます。また、親からの評価や拒絶を恐れて、それが人生のすべての土台になることもあります。その結果、兄弟や自分の子どもや友人、団体との尊敬を得よう、見捨てられないためならひどいこともする。自分を犠牲にして、愛情を勝ち取ろうとしてしまったりします。そういう「人間関係での承認・尊敬」が偶像になっていることもあるのです。他にも、華やかなスターになれば幸せになれる、ステキな恋愛をすればバラ色な人生が待っているとか、国家や人類全般、イデオロギーとか色々なものを偶像にしてしまいます。

 人は誰もが何かしらの「宗教(偶像)」を持っています。そして、それを手に入れなければ幸せになれない、それさえ手に入ればきっと幸せになれる、というストーリーを思い描いています。でも、そういうものは実際には神ではありません。神に代わって私たちを幸せにすることは出来ません。私たちが信じてしまっている成功や幸せの物語はいつか終わるのです。

 神は世界の創造主であり、私たちの父、恵みの神となってくださるお方です。聖書はそのような神がご自身を啓示され、恵みによる物語を通して、私たちに語って下さった本です。神は人間が、神ではないものを神のようにして、追い求めたり、絶対視したり、そのために犠牲を払うようになってしまう空しい結果をご存じですから、人間に神ならぬものを神としないよう、とても強く命じて下さっています。そして、聖書を通して、神ご自身が人間を愛され、追い求められ、祝福してくださっている、という事実を語っています。お金や名声や出世や健康は大切ですが、うつろうものです。そこに私たちの価値や命を置くのは危険ですし、痛々しいのです。私たちは既に神に愛され、価値を認められています。力のない偶像に犠牲を払うのではなく、私たちのために既に犠牲を払い続け、イエス・キリストの十字架という犠牲をも惜しまなかった神にこそ、自分の命をかけたほうが現実的ですし、幸せが約束されています。

 そのために、イエスは来てくださいました。聖書は、神がイエスにおいて、人間に回復と救いを与えてくださる福音を啓示しています。だから私たちはこの神以外のものを神のようにしないのです。どんなに脅されたり、失うものが大きかろうとも、勇気をもって、私はこの世界を作られた、唯一真の神様だけを礼拝します、と喜んで言うのです。そう言わせて下さる神なのです。


問94「神だけを礼拝する幸せ」マタイ4章1-11節

2017-11-05 20:32:59 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/05 ハ信仰問答94「神だけを礼拝する幸せ」マタイ4章1-11節

 私たちの生活に、キリストはどのような教えを下さっているでしょうか。聖書全体が神から与えられた、生活の規範ですが、その中心にあるのは「十誡」です。今日からこの十誡を、第一戒から順番に一つずつ、繙(ひもと)いていきましょう。第一戒は

「あなたはわたし以外に他の神々があってはならない」

です。主以外に神があってはならない。

問94 第一戒で主は何を求めておられますか。

答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避け逃れるべきこと、唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。

 読んで分かるように、ここでは聖書が示す、まことの神である主以外のものを礼拝したり、信仰の対象としたりすることを厳格に禁じています。そして、

「真の神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、恐れ敬うこと」

と言っています。

 これだけを読むと、こう思う人も多いでしょう。「キリスト教は排他的だな。他の宗教や神々を認めないなんて、独善的だ」。そう嫌悪する方もいるでしょう。確かに、そう言われるような面もあります。何しろ聖書は、世界にある沢山の宗教の一つ、人間が考え出した神々の一つとしての神ではなく、世界をお造りになった神、人間をもお造りになった神を神としているからです。この神が、すべてのものを創造されて、私たち人間との生きた関係を始めてくださった、と聖書は語っているのです。この神以外の「宗教」や「神々」は人間が自分なりに考え出したり造り上げたりした神なのです。

 ところが、聖書にはそのおかしな事をし始めた人間の物語が書かれています。聖書の始まりから終わりまで、そこに書かれているのは、本当の神から離れてさ迷い出す人間の歴史です。神に背いてしまう人間を取り戻すため、世界に来て、関わってくださる神の謙遜と忍耐の限りを尽くす物語が、聖書なのです。

 今読んだマタイの福音書四章には、イエスがキリストとしての働きを始めた最初に、荒野で受けた悪魔の誘惑が書かれていました。極限状態の中、悪魔はイエスに三つの誘いかけをしました。その三つ目は、第一戒に関わる誘惑でした。

マタイ四8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

 悪魔は、イエスに全世界の国々とその輝かしさを見せて、自分を拝むなら、これを全部上げようと言いました。これをイエスは、神ならぬものを拝むなんてことはしないと拒まれたのです。これは考えてみればアタリマエの話です。イエスが、サタンを拝むだなんておかしな事です。サタンも奇妙な取引を持ちかけたものだ、というのは簡単です。でも、サタンの経験則からすると、確かに人間は、自分の欲しいものを手に入れるため、簡単にサタンにひれ伏し、悪に流されてしまうのです。最初のエデンの園で、人間に神を疑わせて、神に従うより自由に生きた方が幸せそうだと思い込ませるのに、サタンはまんまと成功しました。それ以来、人間は、簡単に主を捨ててしまいます。神ならざるもの、力や権力、欲望やうまい話にコロッと騙されて、神に背を向けてしまうのです。主が素晴らしい恵みを下さったら有頂天になるけれども、何かあると遅かれ早かれ、神から離れて、神ならざるものに飛びついてしまう。それが人間の姿です。でもそれがどんなに人間の習い性で、無理もないとしても、それでも神ならざるものが神に代わる事はありません。神が下さる「魂の救いと祝福」はないのです。

 ここでは大胆にこう言っています。

「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために」。

 これが第一戒の最初に確認されます。エデンの園以来、人間の心には神への不信感が根を下ろしています。神は私たちの幸せよりも、自分への服従を求める、と考えます。しかしここでは、自分の救いと祝福を捨ててでも神だけを拝むべきだとは言いません。人は、自分の救いと祝福のためにこそ、神ならぬものを避け、真の神を正しく知り、この方にのみ信頼するのです。勿論誘惑や戦いはあります。一時的に幸せを諦めたり楽を拒んだりすべき時はあります。イエス御自身が、サタンの誘惑と戦われました。イエスは十字架の苦しみでも、人間に嘲笑われ、苦しめられ、呪われながらも、その人間のために十字架に留まる道をイエスは命がけで守り通されたのです。真実に生きる道とは、決して簡単ではありません。神の御旨に従うことを選ぶため、目の前にぶら下げられたニンジンを我慢することも必要でしょう。いいえ、ここで最後に言われているように、

「すべての被造物の方を放棄する」

こと、お金儲けや成功のチャンスを拒否したり、時には自分の命をも捨てて殉教を選んだりすることさえあるのです。

 いつもお話ししているように、私たちが自分の努力や信仰で魂の救いや祝福を得るのではありません。イエス御自身が私たちの罪の救いのために、すべてをしてくださいました。御自身が人となって、あらゆる誘惑に打ち勝ってくださいました。御自身が

「謙遜と忍耐の限りを尽くして」

くださり、神を私たちの天にいますお方として信頼するよう結び合わせてくださいました。イエス御自身が、私たちのために御自身の楽も名誉も命さえも放棄してくださいました。それが本当の神です。その神を、私たちが人間と同じように考え、他のものと取り替えようとするとはなんと愚かなことでしょう。

 その愚かから救われていく途中に私たちはあります。真の神は私たちを救い祝福するために、惜しみなく犠牲を払い、今もともにいて、導いておられます。そうして、私たちがこの方だけを神として信頼し、この方のみを神とする幸いな生き方を導かれています。ですから、私たちも主を愛し、主以外のものを恐れたり神のように崇めたり慕ったりしないよう、心から願うのです。誘惑に遭うときには、賢明に勇気をもって負けることないよう助けてください、日々、神のみを神として歩ませてくださいと祈るのです。


問92「はじまりは神」出エジプト記20章1-17節

2017-10-17 08:42:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/10/8 ハ信仰問答92「はじまりは神」出エジプト記20章1-17節

 ハイデルベルグ信仰問答の第三部から、キリスト者の生活について学んでいます。今日の問92は率直にこう問います。

主の律法とはどのようなものですか。

答 神はこれらすべての言葉を告げられた。

 以下に書かれているのは、今読みました、出エジプト記の20章、あるいは申命記の5章に書かれている「十誡」と呼ばれる戒めです。

出エジプト記二〇1それから神は次のすべてのことばを告げられた。

2「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

3あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。

4あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

7あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

8安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

12あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

13殺してはならない。

14姦淫してはならない。

15盗んではならない。

16あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

17あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

 長いですがそのまま本文には記載されています。そして、これ以降、十誡を一つ一つ丁寧に取り上げながら、そこで教えられている神の命令を見ていく、という構造を持っています。

 これは、ハイデルベルグ信仰問答の前に夕拝で見ていた「ウェストミンスター小教理問答」でも取っていた形式です。他にも多くのプロテスタントの基本的な信仰問答も変わりません。十誡と「主の祈り」そして「使徒信条」の三つは、キリスト教会が共通の基盤とするもので

「三要文」

と言われるのです。特に十誡は旧約聖書に、主の祈りは新約聖書に、直接記されています。聖書に書かれた、いや神ご自身が人間に与えてくださった、大切な律法、私たちの生きる指針です。この十誡は、神の民として生きるとはどういうことか、が雄弁に物語られているのです。

 しかし、ひょっとするとこの「十誡」を「十の戒め」、堅苦しい規則で拘束するものだ、自由を奪うものだと考える人もいるでしょう。いや、教会自体、何度もそう誤解してきました。神が下さった十の命令、それも、殆どが禁止事項だ。やっぱり神は私たちは「あれをするな、これをするな」と命じ、押しつけてくるのだ、と思うのです。また、クリスチャンとはそういう道徳を守ることによって救われて、敬虔な生き方をする人々だ、と自他共に誤解してきたのです。しかし、思い出して下さい。もしそんなことだったら、この十誡の解説だけで教会の教育は済んだでしょう。これは、問92ではなく、もっと早く、問1でも良かったでしょう。

 でもこれは問92です。ここまで90問、神とはどんなお方か、私たちと神との関係はどんなことか。丁寧に教えられてきたのです。ですから、十誡の第一戒は、主の他に神があってはならない、なのですが、いきなりその戒めを命じることはしません。その前に、

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」

の序言があるのです。神が既に私たちの神となってくださいました。奴隷の家から導き出してくださいました。自由の民としてくださいました。その主を「私の神」とする民に与えられたのが十誡なのです。

 十誡というと古い映画を思い出す方もいるでしょう。「十戒」という有名な映画がありました。

 そこでも描かれていたように、苦しい奴隷生活から、主はじっくりと力強く、彼らをエジプトから救い出してくださいました。海が二つに割れて、その中を通るような大きな出来事もありました。そして、荒野を通って、彼らはシナイ山まで導かれました。そして、これからは神の民として生きるために与えられたのが十誡です。山の麓で、イスラエルの民は待ち、モーセが山の上でこの十戒が書かれた板を授かったのです。それは、神の民としての堂々たる生き方、神だけを神とする、晴れがましい生き方でした。

 決してここには無理なこと、高尚すぎることは命じられていません。聖人君子のように生きろとか、信仰の鉄人になれと言われているのではないのです。本当の神だけを神として生きなさい、互いにも殺し合ったり裏切ったり嘘のない生き方をしなさい、とごくごく真っ当な道が示されているのです。

 しかし、これをイスラエルの民が守ることが出来ないのも、聖書に記されている歴史です。エジプトでの生活で染みついた奴隷根性が、立場が解放されても彼らの中には染みついていて、欲望や愚かさの奴隷になってしまうのです。本当に自由な生き方ではなく、責任を持てない生き方をしてしまうのです。それは後の教会もそうですし、今の私たちも変わりません。この単純な神の民としての生き方が出来ないで、誤魔化したり、感情に流されたりして、恥ずべき行動を取ってしまう所が私たちにあるのです。

 でもだからこそ、この十戒が私たちを守ってくれるのです。神は私たちに、神の民としての生き方を示してくださり、私たちを守ってくれるのです。ダビデは言いました。

あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。 詩篇119篇105節

 旧約で「御言葉」という時はまだ聖書は殆ど書かれていませんから、今でいう聖書ではなく、この十戒を指しているのです。十戒、主の御言葉が、自分の歩みを照らしてくれる。自分の道の光となって、守ってくれる。これが、ダビデの心からの思いでした。私たちが十戒を守らないといけない、のではないのです。十戒が私たちを守ってくれるのです。私たちが聖書の言葉や戒めに縋り付くのではないのです。神が私たちを守られるからこそ、私たちの立つべき大切な原点を、十戒を通して教えてくれるのです。

 聖書には「十戒」という言葉は出てこず、

「十のことば」

と言います。「戒め」「規則」ではなく「言葉」なのです。ただあれをしなさい、これをするな、ではありません。まず、神が「わたしはあなたの主、あなたを奴隷の家から連れ出した神である」と宣言して下さった。その主の民として、誘惑や恐れに流されない生き方をしてゆくのです。

 次回93問では、この十戒が神に対する義務と隣人に対する義務の二つに分けることが出来る、という事を扱います。それは来週の話です。ただ、聖書にも神が二枚の石の板に十戒を与えてくださった、という表現が何度も出て来ます。

 最近まで、この二枚は一枚に前半の神の戒めが、もう一枚に人間への戒めが書かれているのだろうと思われていました。最近の考古学の発見で、どうやら二つは同じものの写しなのだろうと考えられるようになりました。二人の間で契約を交わす時に、両方が契約を書いた同じ内容のものを持つのですね。今なら紙ですが、当時は板にシッカリと書くのです。つまり、十戒が二枚の板に書かれたというのは、それが本当に神の確かな約束だ、ということでした。揺るがない神様の契約として、私たちは神の民であり、新しい生き方を示されているのです。

 それは人間の力では出来ません。でもイエス・キリストは、私たちのために救いの御業を果たして下さいました。私たちの心に、この神の戒めを刻んでくださる、進むべき生き方へと導いてくださると約束されています。私たちの中には、まだまだ狡い自分がいます。弱い、誘惑に負けやすい自分がいます。でも、そういう私たちのままではおらせず、イエスによって神の子どもとされた新しい生き方を、聖書ははっきりと力強く示してくださっています。それを来週から学んでいきましょう。


問93「神と私と隣人と」マタイ22章36-40節

2017-10-17 08:25:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/10/15 ハ信仰問答93「神と私と隣人と」マタイ22章36-40節

 

 先週から「十誡」をお話ししています。

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

殺してはならない。
姦淫してはならない。

盗んではならない。
あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

 十誡は、神が私たちに与えてくださった、神の民、神の子どもとして生きるための大切な導きです。十誡を守ることによって救われるのではなくて、救われたからこそ、十誡によって守られながら、神に愛されている者らしく生きるようにされるのです。聖書の律法の土台が、この十誡に要約されています。今日の問93は、この戒めを大きく二つに分けています。

問93 これらの戒めはどのように分かれていますか。
答 二つの部分に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人にどのような責任を負っているかを教えています。

 確かにそうです。第一戒から第四戒までは、他の神があってはならない、神の形を造ってはならない、主の名をみだりに唱えてはならない、安息日を覚えよ、と神に対するふるまいを教えています。その後の、第五戒「父と母とを敬え」から、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証をしてはならない、ほしがってはならない、は神に対してというよりも直接は隣人に対してどんな責任を負っているかを教えていますね。
 神に対してと隣人に対しての言葉に大きく分かれています。そこで、先ほどのマタイの福音書でもイエスは

「律法の中で大切な戒めはどれですか」

と聴かれて、

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」

を第一の戒め、そして、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

を第二の戒めとなさいました。神を愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること。これが最も大事な戒めなのだとイエス御自身が言われました。十誡を見ると

「愛する」

という言葉は一言も出て来ませんし、

「してはならない」

という否定的な禁止ばかりが目に付きますが、そういう禁止を受け入れると、残るのは、神を愛すること、隣人を愛すること、なのです。そうイエスはこともなげに仰ったのです。

 イエスは子なる神です。律法を与えられた神御自身です。そのイエスが、仰ったのですから、律法を通して神が私たちに求めておられるのは「神を愛し、隣人を愛する」ことです。そして、そもそも神が人間をお造りになった時に、神を愛し、隣人を愛するような存在にするために、私たちをお造りになったのです。神はご自身が愛ですから、愛なしには何をすることもなさいません。そして、神はこの世界に、御自身に似たもの、

「神のかたち」

として人間をお造りになりました。神は、人間に惜しみなく愛を注がれて、人間もまた神を愛し、お互いに愛し合うようなものとしてお造りになったのです。

 でも、愛は誰も強制することは出来ません。愛さないという自由なしに愛するのなら、愛ではありません。神は人間に、自由な選択を与えられ、人間は神に背く選択をしてしまいました。その結果、人は愛よりも自分中心になり、神を愛するより疑ったり利用したりしています。愛されたい、愛したいと思いつつも、揺れ動く儚い愛を追いかけてしまっています。けれども、そうして揺れ動き、傷つき、さ迷い、沢山の間違いをしながらも、神は人間が神に立ち戻って、本当の愛を知って、やがて神を愛し、互いに愛し合う者になる、長い長い歴史を導いておられます。それが聖書に示されている物語です。

 その中心にあるのは、神御自身が人間イエスとなってこの世界に来られ、愛を示し、神を語り、互いに対する責任を教えられ、最後は御自身が十字架の死にまで従われ、そのいのちによって私たちの罪の身代わりとなってくださった。そして、それが本当の救いであることが三日目の復活によって証明され、今もイエスは私たちとともにいてくださる、というとんでもない事実なのです。

 そのイエスが私たちに、最も大切な戒めは、神を愛し、隣人を自分のように愛する事だと仰いました。難しい生き方、自分には無理な清らかな生き方を仰ったのではないのです。私たちが本来、神を愛し、お互いに愛するように造られた、私たちのアイデンティティ、私たちの目的を思い出させてくれる言葉です。私たちの心にある深い願い、可能性、エネルギーを思い出させてくれるのです。

 しかし、イエスがこう仰った時、こう質問した人たちはどう思ったのでしょうか。彼らは神を愛することには熱心だと自負していました。でもイエスは、神を愛する第一の戒めとともに、隣人を愛する第二の戒めも同じように大事だと仰いました。これは、この人々の考えにはなかったのですね。「神を第一にしたら、自分の親は後回しでもいい。神を第一にしているのだから、そうでない人よりも自分たちの方が偉い」。そういう考えでした。でもイエスは仰いました。「神を愛することが第一。隣人を自分のように愛する第二のことも、同じだけ重要です。聖書の全体がこの二つの戒めにかかっている」。こう言われた時に、質問をした人は何も言い返せなくなったのですね。

Ⅰヨハネ四20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

 イエスは私たちに、神を愛し、兄弟を愛するという命令を与えてくださいました。心や知性や力を尽くして神を愛したら、人に対する愛は残っていなくて良い、じゃないのですね。また隣人を愛する時にも

「自分のように愛しなさい」

と言われました。自分を愛した上で、ほどほどに隣人を、でもないし、自分を殺して隣人を愛しなさい、でもありません。自分と隣人を同じように、半分ずつ愛する、というのでもないですね。自分も大事に、相手も自分と同じような大事なものとして愛するということです。神を心を尽くして愛し、隣人も自分のように愛すること。これは頭で考えるととても出来ません。ごちゃごちゃになります。でもイエスはそういうことを命じているのではありません。

 私たちが神の愛を受け入れるなら、神を愛し、自分も愛されている者と分かり、隣人も、いや敵さえも、自分と同じように尊い存在に見えるように変わります。イエス御自身がそうしてくださいました。イエスは私たち一人一人を尊ばれ、喜び、受け入れてくださいました。十字架の二つの木は、イエスが神との縦の関係も、私たちお互いの横の関係も結び合わせてくださった証しです。十誡は、神が私たちに約束されているご計画が神を愛し、互いを自分のように愛するようになることだと思い出させてくれるのです。