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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問114「わずかでも始まった」ピリピ3章12-16節

2018-03-04 17:52:24 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/3/4 ハ信仰問答114「わずかでも始まった」ピリピ3章12-16節

 先週まで、神である主が神の民に下さった十戒について一つずつお話しをしてきて、最後の第十誡までお話しが出来ました。神以外の神を持たない、父と母を敬う、殺さない、姦淫しない、欲しがらない、そういう戒めを一通りお話しした上で、次の問答は、十戒を守ることが出来る人はいますか?という問いかけをします。

問114 それでは、神へと立ち帰った人たちはこのような戒めを完全に守ることができるのですか。

答 いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間はこの服従をわずかばかり始めたにすぎません。しかしながら、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけにでなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。

 十戒は神が下さったとても大切な戒めですが、私たちは神の民とされても、これを完全に守ることは出来ません。私たちはこの戒めをもらって、大切な生き方を願い始めただけです。完全に守ることなど出来ませんし、完全どころかほんの一歩を始めたに過ぎません。これを誤解して、十戒や聖書の戒めを完全に守れるのがクリスチャンだと思っている人は沢山います。

「敵を愛しなさい」

「右の頬を打たれたら左も差し出す」

なんてのがクリスチャンで、自分には出来ない、と言う人も結構います。クリスチャンでも、完璧な愛があるように生きる立派な生き方がクリスチャンの証しだ、とどこかで思い込んでいる人がいます。しかし、それは無理ですし、聖書の教えそのものとも違います。自分が愛のある、立派なクリスチャンだと見られたい-そんな思い上がりは思い上がりとして捨てなければなりません。また、そんな誤解をされて、自分には無理だと思っても凹む必要はありません。それは人間が思い込んでいる勝手な誤解です。聖書が教えているのは、私たちの本当の幸せや、自然な本来のあり方、神様の基準であって、それを私たちが、いや

「最も聖なる人々」

でさえ、出来るわけではないのです。

 歴史上の立派なキリスト者も私たちもみな、神の戒めを完全に守るには程遠いのです。その一例として、聖書の使徒パウロもそう告白しています。

ピリピ三12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、

14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

 励まされる言葉だと思います。パウロも、既に得たのでも、完全にされているのでもない。ただ捕らえようと追求して、目標を目指して走っている、というのです。キリスト・イエスが下さる生き方は、目標を目指して走る長距離走のようなものです。そして長距離ですから、短距離のようにダッシュして全力で走ってはすぐにバテて息が上がってしまいます。生涯掛けて、神の国のゴールを目指して、淡々と走って行くのです。でもその走り方は、まだ下手かも知れません。へっぴり腰だったり、無駄なエネルギーを使ったり、力みすぎて転んだりするかもしれません。神は十戒を与えて、神の国の生き方を教えてくださいましたが、私たちはまだ下手で、それを身に着けている途中です。でもそうこうしながらも、神は私たちの下手さを笑ったりなじったり非難しません。私たちと一緒に走り、応援して下さいます。休みやケアをしてくださいます。そして、私たちとともにおられて、完走させてくださるのです。完璧なフォームで走ったり、完璧なスウィングやピッチングをしたり出来なくても、スポーツは楽しいものです。神の戒めもそれと同じです。神は私たちに、神を愛し、互いに愛し合うよう命じられました。これが私たちが願うことです。大事なのは、神を愛し、人を愛することです。

 私たちが「自分が素晴らしい愛の人になるぞ」とか、「天使のような人になろう・そう思われたい」と考えているとしたら、おかしなことになります。そうではないでしょう? 大事なのは、自分と同じように、神と人を喜ぶようになること。だから、まだ今は、完全には程遠い始まりです。それでも良いのです。そして、完璧ではないから、私たちは神に頼ります。自分の過ちを告白します。愛を願いつつ、そうできない自分に気づかされる度に、正直にそのことを祈ります。自分では恥ずかしいと思うとしても、聖書はそれが今の私たちの姿だとあっけらかんと教えています。

 だから、その自分の思いを告白し、祈ってもらうことが出来ます。大きな失敗をしたとしても、その時こそ、自分を差し出して祈ってもらい、悔い改めと赦しを一緒にしてもらえます。立派な人でないとダメなような考えで、クリスチャンだったら神様から完全な人にしてもらえると考えると、息苦しい関係になります。愛し合うことを求めるはずが、愛がないといって裁き合うのは、大変なちぐはぐです。それよりも、不完全な者同士だから、支え合い、それでも愛し合い、助け合える。立派なふりをしなくても良いし、正直に告白をしたり、その人を受け入れて、愛する方が遥かに美しい姿ではないでしょうか。

 こう考えると、神は私たちに「愛しなさい」という命令だけを下さったのではないことに気づきます。愛する相手との出会いも下さいました。そしてそれは、私たちを愛してくれる仲間でもあります。また、愛したいという

「真剣な決意」

も下さいました。それはまだ、ほんの少しの始まりでしかありません。まだまだ、妬みがあります。自分の方が大事に思えます。けれども、神はその私たちを愛してくださり、私たちがともに愛し合うことを願って、そのために私たちに近づいてくださいました。イエスは、私たちを愛して、十字架の苦しみと孤独、屈辱と忍耐にも耐えて、赦しといのちを下さいました。その愛に、私たちは到底及びません。イエスのような愛なんて、遥かに手の届かない愛です。しかし、そのイエスが私たちに近づいて、御自身を与えてくださいました。私たちが、神を愛したい、人を愛したいと願う心は頼りなくて弱くても、でもそれ自体が、イエスが下さったかけがえのない始まりなのです。私たちが今、主の愛をいただいて、神の戒めに従って生きるよう歩み始めている。謙虚に、希望をもって覚えましょう。


問113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節

2018-02-25 20:49:22 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/2/18 ハ信仰問答113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節

 十誡の最後、十番目の戒めをお話しします。

あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない

です。とても具体的ですね。ここでは「欲しくなって盗ったらいけない」と言っているのではありません。盗ったらいけないのは勿論です。けれども、盗らなくても、欲しがるだけでいけない、といいます。心の中で、人のものを欲しがる、自分のものになればいいのに、と考える。あの人にあって、自分にないことで、怒っている。そういう思いを、神様は厳しく窘められています。ただ、何も欲しがってはいけないのではありません。人が格好を見て、自分の身なりに気を遣うとしたら、自分にとっても良い場合が多いでしょう。この「欲しがる」という言葉はとても強い言葉です。心を何かにくっつける、その事ばかり考える。隣人のものを見て、あれが自分のものならいいのに、と願う強い欲望です。ご近所や友だちや回りを見て、自分にはあれがないとすごく損をしている気になる。今の時代は、奴隷や牛やろばでなく、「お隣の家はいいな。お隣の家族はいいな。あの車かっこいいな」、そういう妬みや欲は尽きませんね。そんなことを考えていたら、いつまで経っても決して幸せにはなれません。だから神様は、そういう妄想を禁じます。たとえ心の中で考えているだけでも、禁じられるのです。

問113 第十誡では何が求められていますか。

答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような、ほんのささいな欲望も思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ、かえって、わたしたちが、あらゆる罪に心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。

 この戒めは、神が私たちの心を見ておられるお方だとハッキリ教えています。聖書以外の宗教や国家にも戒めや法律はあります。とても厳しい罰を決めている法律はたくさんあります。けれども、こんなふうに、心の思いにまで踏み込んだ法律は、聖書以外にないそうです。それは、聖書の神が私たちの心まで見ておられ、心の聖さこそを求めておられるお方だと、この戒めからハッキリ教えられます。また、今まで

「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない」

とあった戒めも、そうした間違った行動の根っこには、心の中の間違った欲望が原因だ、ということでもあります。心の中にある

「欲しがる」

思い、自分のものにしたいと強く思い込む間違った願い、それが、殺人や姦淫や盗みやウソになるのです。

 今日読んだローマ人への手紙で、パウロは律法が「人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょうと言っています。欲しがってはならない、という十戒の戒めがなければ、パウロはとても真面目な人でした。見た目では、聖く立派な生活を送っていると自他共に認めていたのです。私は盗んでもいない、騙してもいない、ちゃんと生きている、と言えたのです。けれども「欲しがってはならない」と言われて、自分の中を覗いた時に、欲しがったり自分のものにしようとしたりする思いがありました。心の中にある冷たく強い欲望を否定することが出来ませんでした。しかも、それを言われて自分の心を静めようとしても、一向に拭うことの出来ない、拭いがたい強い思いがあることで、自分の罪を認めざるを得なかったのです。

 けれどもパウロはその後で、このようにも言っています。

15私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
16自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
17ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。

 自分がしたいと願うことはせず、自分が憎んでいることを行っている。本当は、律法が言うように生きたい。人のものを見ては欲しがったりせずに生きたいんだ。人のものを妬んで欲しがって、生きても決してそれで自分の心は満たされない。私たちが本当に慕い求める正しい生き方は、人のものを全部持てる暮らしではないのです。人のものを欲しがったりしない生き方、心に損や文句を持ったりしないで、心から喜んで、自分の生き方を賢く作ったり、人と分け合う生き方こそ、人の本当の願いなのです。だから神様は、欲しがってはならないと言って下さいました。欲しがってもそれは私たちの本当の願いを叶えてはくれないと思い出させてくださいました。本当に本当に心が願っている聖い生き方、心と行動が一致した生き方へと、私たちを変えてくださるのです。

 あるクリスチャンが言っています。

「共感の欠如が、搾取を生む」。

 誰かと心と心でつながっていることがないから、人のものが欲しくなる、と言い換えられるでしょうか。妬ましくなるのは、本当は寂しい心の穴を埋めたいからなのかもしれません。もし十分幸せと思えたら、余所の家のものを欲しいとは思わないでしょう。幸せは、私たちが人と比べることを止める時に始まります。私たちの心は、神様と繋がり、人と心で繋がることを一番必要としています。それがなくて、いくらものがあっても、誰よりも沢山のものがあっても、誰よりも幸せな人ではなく、誰よりも淋しい人になるだけです。

 イエスは言われました。

マタイ六33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 この「求めなさい」は強い言葉です。人のものを羨むのでなく、でも無欲になるのでもなく、神の国と神の義を強く求めなさい。強く強く、素晴らしい事を、人との繋がりを、神の御心を貪るように求めなさい。比較に囚われない神の国の生き方を強く願いなさい。神の恵みに感謝して、赦し合い、助け合い、分かち合う生き方を慕い求めなさい。イエスからこの心を戴いて喜んで生きなさい。

 何かが欲しくなる時、それは本当に自分に必要なんだろうか、自分が本当に本当に欲しいものは何だろうか、考えてみましょう。私たちを本当に幸せにしてくれるのは、比べたり妬んだりする友達ではなく、私たちをあるがままに愛してくれる神様です。そして、お互いの違うままを大事にし合う人、心と心で繫がれる仲間です。そんな関係のほうがみんな幸せです。

 人は人、私は私。イエス様が下さるそんな豊かな心こそ、みんなで慕い求めたい宝です。


問112「優しく真実を語る」エペソ4章22節―5章2節

2018-02-04 17:59:11 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/2/4 ハ信仰問答112「優しく真実を語る」エペソ4章22節―5章2節

 今日は十誡の第九戒

「あなたの隣人について偽証をしてはならない」

です。「偽証」とは「嘘の証言」のことです。本当のことを話すべき時に、嘘を言うことです。でもただ「嘘はいけません」というだけではないのでしょう。

問112 第九戒では何が求められていますか。

答 わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷する者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと、かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他あらゆる行為においては真理を愛し、正直に語りまた告白し、さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する、ということです。

 偽りの証言をしないだけでなく、誰の言葉をも曲げない。陰口、中傷、根拠の曖昧な非難、そういうものまで遠ざけることだと言っています。ここまで言うのは、言葉というものがとても強い力を持っているからです。悪意の噂話で、社会から葬られたり、人生を狂わされたりしてしまうことは今でもたくさん起こっています。第六戒から、

「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」

と見てきました。殺人から偽証になって、神は軽い罪まで重箱の隅を突くような揚げ足取りをしているのでしょうか。いいえ、偽証という言葉の罪の方が、殺人と等しいダメージを広く世界に与えているのでしょう。決して、嘘の方が軽い、ということではないはずです。

 先のエペソ人への手紙でも「新しい人を着る」という事に続いての具体的な勧めで、

25あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。

29悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

31無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。32互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

五1ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

と言葉についての教えが繰り返されていました。自分の言葉から嘘や悪意を取っていく。でもここでも、ただ何でも本当のことを言いなさい、とは言っていません。よく「本当のことを言って何が悪い」という言い方を聞きますね。嘘ではなくて、事実だとしても、それが人を貶めるような冷たい事実なら、言ってはならない場合もあるのです。また、言う側の心が冷たくて、相手を憎んだり、怒りや踏みつけたい思いで語ったりするならば、それも

「偽証をしてはならない」

の精神とは反対のことなのです。

 とても難しいことかも知れません。傷つけても良いわけではないけれど、傷つけたらダメ、ということでもありません。本当の事を言うことを躊躇う場合もあれば、後から本当のことを言っておけば良かった、という場合もあるでしょう。ですから、やっぱり本当のことを言った方が良い場合が殆どです。正直が一番です。ただ、自分が言わなくてもいいことまでべらべらしゃべる義務は誰にもありません。そのためにも、普段から、あまりおしゃべりや調子を合わせた話はしないほうがよいのです。

 このエペソ書の言葉でも、ただ私たちに真実を語りなさい、嘘はいけません、というルールを言っているのではありません。

「私たちは互いに、からだの一部分なのです。」

とありました。

「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」

とありました。神が私たちを愛してくださり、一つの体のように強い結びつきをくださったのです。ですから、互いに生かし合う言葉を使うのです。お互いに役立つ言葉を使うのです。嘘で誤魔化したりもしないし、本当だからといって人を貶める言い方もしないのです。

 そして、とても大事なのは、私たちが神にすべてを知られた上で愛されていることを覚えることです。私たちが嘘をつくのはどんな時でしょうか。自分を庇う時、本当のことを言ったら困ると思う時でしょう。そして、自分の自信のなさや間違いが嫌だから、刺々しい言葉を吐いてしまうのです。嘘でも本当でも武器にして、自分を守るのです。

 そういう恐れはもう要りません。自分の弱さも失敗も、間違いも素直に認めたら良い。神は私たちの全てをご存じです。私たちが嘘や冷たい言葉で傷つけ合っていることもご存じです。そのような私たちを裁いて、脅して、切り捨てようとなさったでしょうか。いいえ私たちのために、神の子イエス・キリストはこの世に来て下さり、真実な言葉を語ってくださいました。愛の言葉を語り、神に立ち帰る幸せを約束してくださいました。そして、御自身のいのちを十字架に捨てて、その約束を果たしてくださいました。

 世界に最初に嘘を持ち込んだのは悪魔です。悪魔は人間に神様の言葉を疑う思いを吹き込みました。それ以来、人間は神様の言葉を信じられなくなりました。神の御真実や確かさや愛を信じないままなら、まだ騙されたままです。キリストが愛して下さっているのに「あんな人は誰からも愛されない」と言ったり、主が赦して下さったのに「こんなことをした自分はダメだ」と絶望したり、御言葉が慰めや約束を下さっているのに、「もうお終いだ」と人や自分に言うならば、それは嘘です。神様がイエス様においてハッキリ示して下さった恵みと愛こそ永遠の真実です。世界が滅びても、神の言葉は変わりません。私たちの中にはその事実が取り戻されていく途中です。まだ失敗したり、間違ったり、不安になったりします。そういう私たちに、聖書は変わらない真実を語ってくれます。神を天の父として信頼するよう招いてくれます。安心させてくれます。希望をくれます。だから、人にも優しい言葉をかけるのです。優しく真実を語るのです。

 そして、人と話す時に、私たちは正直でいましょう。背伸びをしたり知ったかぶりをしたりせず、分からないことは分からないと言い、間違っていること、嬉しかったこと、悲しかった気持ちを素直に分かち合いましょう。また、黙っている沈黙でもいいのです。イエス様がそこで聞いておられることを思いながら、正直に、希望をもって語りましょう。その安心感は、そこにいる皆を、嘘をつく必要はない、事実を曲げたり、恥じたり、人を責めたりせずに、焦って何かを話そうとしなくてもいい。ありのままの自分を語って、そのままの自分がいることが受け止めてもらえる。そういう恵みが始まるのです。


問110-111「搾取から感謝へ」Ⅰテモテ六6-12

2018-01-28 20:28:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/1/28 ハ信仰問答110-111「搾取から感謝へ」Ⅰテモテ六6-12 

 盗みと聴けば何が思い浮かぶでしょう。泥棒、万引き、スリ、強盗。人の物を不正な方法で自分のものにしてしまうこと。ハイデルベルグ信仰問答では、こう言います。

問110 第八戒で神は何を禁じておられますか。答 神は為政者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り・物差し・升・貨幣・利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる悪しき行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。さらに、あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。

 聖書の書かれた十誡は、紀元前千五百年ほどの昔のものです。それから新約の時代になり、更に千五百年した頃書かれたハイデルベルグ信仰問答の時代には、もっと盗む方法は巧妙で複雑になっていたことがうかがえます。

「合法的な見せかけ」

と言います。それから更に五百年経つ私たちの時代、その三千年分以上に社会が変わりました。産業革命や技術革命を経て、銀行や企業、インターネット。お金のやり取りはとてつもなく変わりました。そして、盗み方、騙し方も変わりました。電話での詐欺や、誇大広告での勧誘、悪徳な契約を結ばされて、たくさんむしり取られて泣き寝入りせざるを得ない、という場合もあるでしょう。そうしたものはギリギリ犯罪ではないから、

「盗んではならない」

を破ったことにはならない、とは言えません。そうしたものもやっぱり盗みです。そして、ハイデルベルグ信仰問答はもっと踏み込んだことを言います。

問111 それでは、この戒めで神は何を命じておられるのですか。

答 わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人からしてもらいたいと願っていることをその人に対しても行い、わたしが、困窮の中にいる貧しい人々を助けられるように誠実に働くことです。

 盗まなければいいのではない。隣人の利益を促進すること、自分がしてほしいことを人にすること、貧しくて困っている人々を助けるために誠実に働くことと言うのです。盗みや巧妙な盗みはせず、真面目にコツコツと自分のためにお金を貯める。そんなことはクリスマスキャロルのスクルージだって出来ます。そうしたがめつい生き方から、180度回れ右をして、人と分かち合い、助け合い、誠実に働くことだ、というのです。

 実はこの「盗んではならない」は

「あなたの隣人を盗んではならない」

という言い方です。隣人から盗むより、隣人を盗む、つまり奴隷にしてはならない、なのです。奴隷なんて今の私たちには全く馴染みがありませんが、世界の歴史には、借金のかたに、一時的に奉公人となって労働で返済をすることは社会的な仕組みでした。でもそれを、無理矢理してはいけません。誰かを騙したり強制的に奴隷にしたりするならそれは人を盗むことです。それは許されないのです。人は決して誰かのための道具ではありません。心がある人格的な存在である人間は、誰のための道具・手段にしてもならないのです。奴隷としなくても、人を利用することも同じです。友だちを「お金がある」「人気者だから」あやかろうと選んだり、結婚の相手をその財産や玉の輿目当てで決めたり、自分の損得のために人を操ろうとするのは、その人を盗むことです。逆に私たちに近づいて来る人が、私たちに利用価値があるから、何か下心があってだとしたら、とても悲しい思いがするでしょう。人と人との関係が、損得のためであるなら台無しです。逆に言えば、私たちは誰もが、誰かの手段や奴隷になってはならない、大事な存在なのです。

 「自分がしてほしいことを人にする」

を誤解して、自分を押し殺して、誰かの言われるままに生きる人がいます。自分の境界線の内側に踏み込ませるのが愛だという誤解は少なくありません。人を怒らせたりガッカリさせたりしないよう生きるべきだと考える人もいます。思い出してください。私たちは誰の奴隷とされてもならない存在です。自分を盗ませないよう守ることは神からの大事な戒めです。人のご機嫌を取る必要はありません。誰の奴隷にもならず、境界線を守りましょう。物なしでもよい、パワーゲームでない、心と心の関係を造りましょう。誰かが幸せでないのは自分のせいだと責任を感じる必要はありません。あなたが誰かの幸せの手段になることはあり得ないのです。

 奴隷にしても泥棒や詐欺にしても、人も自分も同じように大事な人格と見ていれば出来ません。自分の幸せはお金や物次第だ、だから人の物でも盗んででも欲しい、誰かを奴隷にしたり言いように使ったりして、手に入れよう。物がなければ幸せじゃない、思い通りになってくれる誰かがいたら幸せになれる。そういう人間味のない考えです。それでお金持ちになり、沢山の財産を持ったり、強く豊かな国家になったりすると一見、とても豊かで幸せそうです。しかし聖書はそこに付きまとう危険を見抜きます。

Ⅰテモテ六6しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。

10金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

11しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。

 物を欲しがる生き方は、人を益するどころかますます欲望に陥らせ、心を喘がせます。人の幸いは神にあります。神は私たちに命を豊かにお恵みくださいます。また私たちが、働いて、互いに分かち合い生かし合い、ともに歩み、でも決してお互いの奴隷や偶像にはならない、境界線のある関係を通して、私たちを満ち足らせてくださいます。主イエスはそのような生き方を示されました。そしてそのために十字架の死にまでご自分を与えられて、人としての貴い生き方、神に愛されている子としての歩みに迎え入れてくださいました。ですから、どうにかして自分の懐を肥やそうとする生き方から、ともに生かし合う歩みを選んでいくのです。

「盗んではならない」

は、私たちの命がキリストにあって豊かに養われて、生き生きと満たされていく歩みを思い出させてくれます。そしてそんな豊かな関係こそ盗みに目が眩む価値観への最強のチャレンジでもあるのです。


問108-9「体も魂も神の輝き」Ⅰコリント六15-20

2018-01-21 20:58:23 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/1/14 ハ信仰問答108-9「体も魂も神の輝き」Ⅰコリント六15-20

 

 今日は十誡の第七戒

「姦淫してはならない」

でお話しします。まずは問答を読みます。

問108 第七戒は何を求めていますか。

答 すべてみだらなことは神に呪われるということ、それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。

 ここで覚えて欲しいのは、

「神聖な結婚生活」

という言葉です。聖書では結婚生活は神聖なものだと教えられています。男性と女性とが一緒に生活をし、当然セックスもし、愛し合うことを神聖なものだと考えます。決して、結婚をせず生涯独身を貫き、童貞や処女でいる方が聖いとは考えません。性欲は汚らわしく蓋をすべき欲求だとは言わず、神から与えられた聖なる欲求です。そうです、

「姦淫してはならない」

とは性について考えずにはおれない人間を断罪する高尚な戒めではありません。むしろ、神から与えられた神聖な男性性、女性性を大切にしなさい、という希望です。結婚や、そこでの夫婦生活という、生々しい人間の営みを、汚れたもの、煩わしいものと否定するどころか、それこそ神聖な生活だ、なかなか自制できない、自分でも持て余すようなものだとしても、聖書は人が性的な存在である事が、神聖であるというのです。

問109 神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は禁じておられないのですか。

答 わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、素振り、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられるのです。

 ここでもそうです。私たちの体と魂とは、ともに聖霊の宮だと言います。私たちの体も魂も聖霊の宮だ。ある人は自分の体に住んでいるのは沢山の疚(やま)しい思いだと言うでしょう。理由はどうあれ、自分はもう処女や童貞ではない、という方もいるでしょう。実際聖書には、娼婦や男娼であった人も教会の中にはいたようです。しかし、そのような過去があったとしても、或いはまたそんな間違いを犯したとしても、神は私たちの体をご自分の宮として住んでいてくださいます。これは先のⅠコリントの言葉の通りです。そこでは遊女(売春婦)と関係を持つことについての注意でした。その中で、

Ⅰコリント六18淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

19あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

 何も考えずに遊女と通じていた人に「淫らなあなたがたはもう聖霊の宮ではない」とは言いません。

「あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮だ。その自分の体をもって神の栄光を現しなさい。体も魂も、神の栄光を輝かせるものだ」

というのです。だからこそ、私たちは自分の身体を清く聖なるものとして保つのです。自分は汚れた妄想で一杯だ、取り返しのつかない間違いをしたからもうダメだ、と自分を低く見積もってはなりません。私たちがどんなに沢山の間違いを犯したとしても、神は私たちを愛し、憐れみ、尊んでくださいます。神は私たちの体も心も、尊んでくださっているのです。

 勿論、だから姦淫してもよいのだ、ではありません。神から預かったこの体や魂を私たちは大切にするよう任されています。そして、そのように考えて生きる事が、やはり自分を守るのです。「自分は自分のもの、好き勝手に生きて何が悪い」、そのように生きて、男女関係を持ったり、自由気ままに生きたりした結果、結局、後悔するようなことになるでしょう。病気になったり、自分の身体が安っぽく思えたりします。予期せぬ妊娠で、人生が今まで以上に自由がなくなるかもしれませんし、中絶をしても心に深い傷を残すことになります。また、自分が結婚する相手が、沢山の女性経験があっても気にならないでしょうか。喧嘩をした時やちょっと離れて暮らした時にも浮気をしたくなるかもしれないのも自然だと思えるでしょうか。相手に愛人がいた、実は別の男性と関係を持っていた、と知ったら、私たちはどんなに傷つき、心が壊れるような悲しい思いをするでしょうか。現代、子どもたちが親の裏切りや破綻でどれほど傷ついているでしょうか。

 「浮気や不倫は姦淫だ、結婚を大事にして貞潔を守る」。そういう人の方が、魅力を感じないでしょうか。ロマンスや恋愛感情よりも、結婚という関係を、大事に育てていくとき、恋愛よりももっと深く、安心できる本当の愛、すばらしい関係を育てていけるのです。お互いに、熱しやすく冷めやすい感情ではなく、結婚を神の定めた神聖な関係だとして重んじ合う、そういう関係に守られていくのです。そうです、私たちが「姦淫してはならない」という窮屈な戒めを守るのではありません。

「姦淫してはならない」

というシンプルな戒めによって私たちが守ってもらうのです。

 「愛情が結婚を支えるのではない。結婚が愛を支えるのだ」

 私が若い頃に聴いて心に刻んでいる言葉です。神は「姦淫をしてはならない」と命じて、私たちを守ってくださいます。神が私の結婚をも重んじられ、破ってはならないと見てくださるのです。だからこそ、聖書には相手の姦淫や、結婚の遺棄、頑固さのゆえにはあなたを守るために、離婚を容認することもあるとされています。また、聖書には、沢山の人が姦淫を犯した悲しい話が出て来ます。そして、その人の悔い改めと回復を主は導いてくださいます。また、姦淫から始まった関係からダビデ王朝は継承されます。やがてその末にイエス・キリストがお生まれになりました。そうです、イエスは姦淫の家に、恥じることなく来てくださいました。それゆえ私たちも、教会で姦淫や離婚、未婚の母、風俗店で働いていた人も、分け隔てなく友となり、その回復を支えていきたいと思います。結婚で苦しみ、家庭の問題で傷ついたトラウマに正直に向き合いたい。引いては、同性愛のカミングアウトや性的マイノリティの思いも、受け止めていく教会でありたいと思います。

 違う人格が一緒に生きるのは簡単ではない祝福です。聖書には沢山の具体的な男女の事例があります。結婚や独身についての沢山の良書もあります。そうしたものも読んだり分かち合ったりしながら、神が下さった尊い自分の性を祝い、輝かせていきましょう。