いつも仕事場にこもって外に出ることもない私であるが(これは「け」の状態)、昨日と一昨日はツアーにのって京都南座の観劇をしてきた。いわゆる「はれ(晴れ)」の状態である。
「はれ」と「け」という語は先日このブログに書いた羽仁進の講演ではじめて知った語である。
昨日は宇治市を訪れた。平等院の見学した後に、花屋敷浮船というレストランで昼食の後、Hさんという山宣の研究家の話を約30分聞いた後に山宣の墓を訪れた。
山宣の墓はこの花屋敷から10分くらいのところにあり、そう遠くはなかった。自然石の山本家の墓というその裏面に「山宣一人孤塁を守り・・・」という文句の入った文章が彫り込まれていた。
この裏面も何回もセメントで塗り固められたとかでそれをはがす過程ではじめの彫り込まれた字の形が欠けたとの説明がHさんからあった。
山宣とは山本宣治で労農党の国会選出の議員であったが、1929年に右翼の青年に刺されてなくなった。彼は治安維持法に最後まで反対したただ一人の代議士であった。
彼は一時をカナダのヴァンクーバーで青年期の4年間を暮らした。その4年間が彼の思想の大半を形成したということである。彼はカナダから帰国して同志社中学、三高、東大へと進み、動物学者になり、性科学の研究者となる。
その後、京都大学の講師となるが、その講演で弁士停止となり、京都大学を退職せざるを得なくなる。その後国民選出の国会議員になったのだが、41歳(webによれば39歳ともあるが、これは満年齢であろうか)で暗殺された亡くなったという。
産児制限の持論をもっていたので、そのために国家として好ましからざる人物と写ったのであろうが、時代を先駆けた大人物であったことはまちがいない。