物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

食べ物

2008-04-10 12:39:16 | 日記・エッセイ・コラム

このころ特に食べ物にしっかりした私の好ましいと感じるものとそれほどではないが、軽いものとがあると感じている。この両方がないといけないのだが、どうもしっかりしたものの方を好んでいるような気がする。

食べ物にそういう愛着を感じたことはいままであまりなかった。私はあまり食い道楽ではない。普通一般の人が思う美味もそんなに私の好みでないことが多い。

私は人間的にもあまり面白い方ではない。自分でいうのもおかしいが。それだから妻はいつも友達と出歩いている。

一方私はそういうことは正直言って好きではない。人生にはもっと自分らしいというか自分にしか出来ないことがあると思っている。その辺が互いに気分の食い違うところであろう。

しかし、その面白くない私ではあるが、妻が自分の活動等で行き詰まったときにはいつでも相談を受ける。もちろん自分でも何か考えているらしいが、行き詰まったときには自分で大きな声で独り言を言っている。それに応えて何かを私が言うと反発をして怒り出すこともある。

そのときはでは何故大きな声で独り言を言うのだと意見を述べると静かになる。もっと困ったときは素直にどうしたらいいかと聞いてくる。そのときはできるだけ違った観点を与えることを試みる。

なかなか厳しい意見の持ち主なので、納得しないこともある。でも新しい視点をもてるのではないかとまた相談にあずかることが多い。


思い出すこと

2008-04-09 12:26:38 | 日記・エッセイ・コラム

先日コンスタンツ大学のエングラインさんという講師の方が愛媛大学で愛とか感情とかと意識とか意志の関係について講演をした。それで思い出したのだが、私の習った哲学の先生、門秀一さんは一年を通じて愛について語っていた。

それで覚えているのはたった一つで愛にはエロース、フィリア、アガペーの3つがあるということだった。大学で学んだことで定着していることなんてこんなことだ。とてもうすぺらなものである。

久保という心理学の先生の講義で覚えているのはアンパンを食べると蕁麻疹を起こす人がいるということである。それ以外に先生が言いたかったことはあるのだろうが、覚えているのはそういうことだけである。

山下という法学の先生のことで覚えているのはたけのこが地中を伝わって隣家に行ったら、それは自分のものか隣家のものかだとか、木の枝が伸びて隣家に行ったら、それを隣家の人は勝手に切ってもいいかだとかというようなとりとめもないことである。

英語の先生からは軽蔑すべきことはsnobともう一つ何とかだと聞いたが、そのもう一つの方は思い出せない。

東洋史の今堀誠二先生の講義で覚えているのはインドでは暑い夏の盛りには広場の木陰の下に大勢の人が集まり、そこでじっとしているのが涼しいのだという話であった。大気が暑いので人が集まっていれば、その人の分だけその辺りの気温が低くなるという話であった。本当かどうか知らないが、理屈にあっていそうに思えたのがその話を覚えている理由であろう。

しかし、そのようなとりとめもないことの集積が私の人間形成に役立っていると思う。


1965年以降の武谷

2008-04-08 11:05:18 | 物理学

日本人は外国の人の論文はよく引用したり、評価するが日本の同様な仕事は評価しないと言われる。少なくとも武谷がこういって在米の日本人の物理学者を非難したことは私の記憶にも新しい。

しかし、武谷が自分の指導していた核力グループで特に広島グループが大きな寄与をなしていた時代があったのだが、それを武谷が正当に評価していたかどうかは疑わしいという気がする。

それが遠因をなしているのかどうかはわからないのだが,その後の坂東弘治さんたちのハイペロンの研究でもOBEモデルはNN散乱で世界で多分はじめに広島グループが始めたということをもう覚えている人は彼らのグループにもいないのではないか。

山本さんという、坂東弘治さんの共同研究者であった人のその分野の日本語で書かれた概観を最近見たのだが,坂田モデル、武谷の方法論は言及されていたが、それを発展させたOBEモデルの広島グループの寄与はまったく書かれていない。

もちろん、ハイパーチャージが入った反応についての坂東さんたちの功績は大きいのだろう。だが、それにしてもOBEモデルをSU(3)に一般化したオランダのグループの評価だけが特筆されるというのはどういうことだろうか。

OBEモデルの主要な提唱者である、Yさんなどは多分に正当に評価されていないことに苛立っていたとしてもおかしくはないだろう。

もちろん、Yさんが苛立っていたという感じは少なくとも私はもっていないが、これが武谷を指導者として広島グループが受け入れがたかった理由かもしれない。

もちろん私自身はそのグループの端にしかいなかったので、このグループの業績への寄与がある訳ではないが、どうも評価が低すぎるというか業績がまったく無視されているという気がする。

武谷は自分が研究を指導して来た核力グループの崩壊とともに自分が足場とする研究グループとして一時ではあるが、広島グループに期待をかけたと私は思っている。

だが、彼はなんでも自分が言い出したことを単にグループのメンバーが詳細な研究で確かめたという風な評価するところがあった。オリジナリティの起源は自分にあるという風に。

それで結局、武谷はFさんを中心とした宇宙線のグループと宇宙の問題へと研究方向を変えたと思われる。この宇宙線の研究は世間にあまり受け入れられなかったように思われる。

しかし、これが本当にあまり成果を上げなかったのかどうかは冷静に検証しなければならない。


花見(4月6日)

2008-04-07 10:32:49 | 日記・エッセイ・コラム

花見といえば、桜のことで梅や桃のことではないと日本では言えるだろう。だが昨年は佐田岬のロッジに1泊旅行に出かけたが、今年はどこにも行かない。仕事場の行き帰りの車の中から、ちらっと桜の咲いているのを見ただけである。

朝、妻が医療生協のどこかの支部の花見に一緒に行こうと誘ってくれたが、Ich moechte lieber zu Hauseと断って家にいる。これは出不精なこともあるが、まだ今時分だと花粉症がひどくなるからでもある。

今年は例年に比べればひどくはないが、それでも花粉症の症状はある。家でホームページ製作の本を1ページでも読もう。


4月4日

2008-04-05 11:50:23 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日は早く就寝したのに起きたのは昨日それほど早くなかった。そして大学の研究室の同窓会の参加人数を最終申告にメルパルクに行く。

その後仕事場でネットサーフィン、続いて仕事をしようとしたら、とても眠くなって椅子にもたれて眠ってしまった。しばらくの仮眠後、仕事の翻訳の点検をする。あまり進まなかったが,8時過ぎたので帰宅する。

11時過ぎからワーグナーの楽劇ワルキューレ」のハイライトを教育放送で見る。


ドイツ語コース始まる

2008-04-04 11:59:08 | 学問

昨夜今期のドイツ語コースが始まった。少し遅れていってみると部屋いっぱいの人だ。4人も人数が増えた。世話役のOさんもニコニコ顔だ。聞くところによるとコムズでの初級講座に出ていた人たちが増えたらしい。

M先生もまた復帰して来られている。M先生はもちろん新顔の中には入れていない。その分程度は低くなった。これは仕方がない。ドイツ語は入りにくい言語なので、いかに初級者を続けて学ばせるかが大事なのである。その点は英語になじみのある日本人がフランス語には(発音を除いて)入りやすいことは確かだ。

もっともフランス語も進んでくるとそれは動詞を中心にしてそんなに簡単ではないが、そのときにはすでにかなりの期間フランス語を学んでいることが多いので、そこで辞める人は少ないかもしれない。

昨夜はある日本の会社の広告が新聞に出ていたのを私がもっていったので、それを解読することで一夜は過ぎた。日本精工というボールベアリングを作っている会社が朝日新聞に出している広告である。いつかデンマーク語で載っていたので、注意していたらこのたびドイツ語の広告が載った。

それとその頭のところに早口言葉(Zungen Brecher)があったが、それのバリエーションを考えることから話が始まった。なにげない遊びのようなものから、ドイツ語の深みへというような意図が汲み取れる。


表記法

2008-04-03 11:18:22 | 物理学

ゴールドスタインの古典力学の下巻の翻訳に精を出しているが、表記法で悩んでいる。原書で使っている記号がよくわからないのだ。サンセリフで書いてあり、これを4次元空間でのベクトルの意味に使っているらしい。

普通サンセリフはマトリックスとかを表すのに使うので4次元空間でのベクトルには使わない。共訳者のEさんからはここは3次元空間のベクトルなのでゴチックと注文がついたが、実はこれは第2版まではそうであったのだが、第3版では原文は4元ベクトルと変えられている。それを私がそのままにしていたのだ。

しかし、どうもこれはEさんの指摘の方が正しそうに思える。よく考えて判断をしなければならないのでしばらく考えるつもりである。


女性の名

2008-04-02 12:36:27 | 日記・エッセイ・コラム

イタリア語だと語尾にoがつく男性名詞で、aがつくと女性名詞である。ところが日本では女性の名前には子がつくのでイタリア人から見たら、男性の名のように思えるのではないだろうか。

なぜなら、koすなわちoで終わっているからである。Mariaなら女性の名で、Marioなら男性の名だ。言語圏が違うのでoで終わっても女性の名でもいいのは言うまでもないが、これはどういう風に考えたらいいのだろうか。

フランス語だったら、eで終る語は女性名詞が多い。例外としてlivreという語があるが、でもeで終ると女性名詞ではないかと思ってしまう。そしてそれは80%くらいは正しい。

どうしてこんなことを考えたかというとトイレに姪が昨年のニューヨークマラソンにでたときかって来てくれた小さなカレンダーがかかっているのだが、それが昔の名画のポスター風の絵がついていて、その中に主演女優と男優との名が出ていた。Magarettとあれば女優さんだなと判断するし、Alfredとあれば男優さんだなと判断できる。しかし、これはどうしてなのだろうか。

昨年の4月か5月に二人のドイツ人のホームステイをしたが、この中の一人はBeateさんだったので名簿を見てすぐ女性と判断したが、もうひとりはLilithさんであったので、一瞬男性か女性かわからなかった。お世話をしていたKさんがソプラノのパートだから女性ですと教えてくれたので女性とわかった。これなどもドイツ人の名前のことをよく知っていればすぐわかることだろうが、私には自明ではなかった。

ある物理学者でWaleckaという人がいる。これは姓だと思うので男性だと思うが、どうも女性の物理学者のような気がしてならない。またMelba Phillipsという物理学者がいるが、こちらは男性だと思っていたがMelbaという名からもわかるように女性の物理学者である。


武谷の「素粒子論の発展」

2008-04-01 10:50:49 | 物理学

科学朝日1960年11月号の標題の記事はなかなかいいと思って武谷三男「現代論集」に収録されているのではないかと思ってあたってみたが、どうも収録されていないようだ。

他の科学朝日の記事は出ているので、収録しなかったのには、なにか理由があるのだろうか。この次の号をもっていないのでわからないが次の号にもつづきがあるはずだ。

武谷が強調しているのは概念分析であり、そういうことは誰でも研究にあたってはするのだろうが,そこのところが興味深い。

物理学での彼の業績として宇宙線のカスケードシャワーの現象で中性中間子の重要性を指摘したとある。パイ^{0}  は2つの光子に崩壊する。これがカスケードシャワーの重要なプロセスだという。

多分この分析は戦争中の話で中間子討論会のレポートとなっているはずだ。それを後でプログレスの論文として出されている。