今日から今年もコミュニティセンターで平和展が始まった。
松山市民の有志でされている、この平和展も今年で何年目であろうか。1945年7月26日の松山空襲を記念して開かれている。
畑野 稔会長のご挨拶では今年は松山空襲の69周年になるとのことであった。
実は私はこの空襲をまだ幼児であったが、今治から東南の空が焼夷弾で街が焼ける明かりで、空が赤く染まっているのを見た記憶がある。
そして、その数日後の8月3日に私の住んでいる今治の空襲を経験した。そしてその3日後に広島の原爆投下であった。
もっとも広島の原爆投下は母の出身の島に疎開していて、新型爆弾が落とされたことを聞いた。
後で知ったことだが、私のH大学大学院時代の研究指導をしてくれたSさんはそのとき、ご自分も被曝されたのだという。
そして彼のお母さんは自宅の下敷きになってそのとき亡くなったのだと知ったのは、私が彼から指導を受けた後の10年後くらい経って新聞紙上であった。
被曝当時、中学生だった彼も原子核物理学をその後専攻するようになるとは思わなかっただろうし、まして1945年にはようやく6歳になったばかりの私も原子核物理学を専攻するようになるなどとは思いもよらなかった。
そういう重い経験をした、Sさんがいまでも愛知県原水協の理事長をされており、彼が広島の原爆の放射線被害の評価を研究課題としていることは彼にしたら、当然のことをしているとの思いだろうと推測する。
毎年、同じようなことを書いているかもしれない。というのは前に何を書いたかを調べては書かているわけではないから。
いつもの老人の繰言かもしれないが、この繰り返しは必要なことのような気がする。
降り注ぐ(ちょっとオーバーですが)焼夷弾の下をくぐりぬけて重信川の橋の下で夜をあかしました。学徒出陣の兄は比治山下の陸軍航空通信隊兵舎で被爆、運よく命は拾いましたが60年後に白血病で死にました。
お互い戦争体験者としてもう戦争はいやですね。
コメント有難うございます。
昨年だったか一昨年だったか当時中学生だった方の松山空襲の体験談をやはりコミセンでの平和展の開会式直後に聞いたことがあります。
郊外の方にまず焼夷弾を落としていき、つづいて市内に焼夷弾を落としたと話されていました。
そういうことがわかるのも大分年数を経たからでしょうか。