丹下健三氏は世界に誇る日本が生んだ建築家の一人です。今治の出身ですが、あまり今治の人にはいいイメージがない。
彼の設計した市の公会堂は造形的には優れているかもしれないが、自然の照明を活かすという風ではなく不経済であると昔から言われていました。
今日の朝日新聞の愛媛欄では今治での丹下氏の復権ともいうべき活動が起こっているということを伝えていました。今治中学(現今治西高)を出てから、広島高校へと進み、それから東大へと進んだ。
実は、私の実家は丹下氏の大きな実家のあったところから歩いて数分のところでとても近く、1945年8月の空襲で丹下氏の実家(大きな邸宅でした)は焼けましたが、戦後その屋敷を含む敷地が現在の今治小学校になっています。
その今治小学校には大きな蔵が残っていて、小学校の運動会のときに使う用具が収められていましたが、そこはもともと丹下氏の実家の蔵だったのです。このたび新聞報道でこの空襲で丹下氏のお母さんが亡くなられたことをはじめて知りました(注:私の母校の今治小学校も少子化のために廃校となっている)。
丹下氏は高校の頃には勉学以外のほうに精を出したためにその当時としては珍しく、高校卒業と共に大学へと進学することができず、1年浪人をしたといいます。しかし、そのことが彼の後世の建築の仕事のために役立ったと思われます。
もっとも偉人は必ずしも郷里では受け入れられないとの点は今治だけの問題ではなく、彼の卒業した広島高校の同窓生にもあまり受け入れられなかったと下世話話に聞いたことがあります。
私は今治西高(今治中学の後身)の卒業生ですし、また、広島高校の後身の広島大学教養部でも学んだ者ですから、彼を貶めるつもりで言っている訳ではありません。彼は高度成長時代にふさわしいきわめて優れた建築家だったのだと思います。
しかし、一方で彼の設計した建物は年が経つと雨漏りがする(雨漏り健三)とかの憎まれ口もきかれたのは事実です。これは本当は設計者の問題ではなく、施工した建築業者の問題なのでしょうが。
偉大な人々の業績も時代の枠を出ることはなかなか難しいものだと感じています。
造形的には優れていてもそれを支える技術はなかなかのようですね。
ともかくこれからの建築家はやはり維持費が経済的なことも大切な要素になってくるのだと思います。またエコ環境であることとか必要になるのでしょう。
やはり、時代はその時代にふさわしい人材を生むということでしょうか。