物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

桜の花をもらった

2020-03-20 11:24:10 | 日記
昨日だったが、今年も咲き始めた桜の花の花束を知り合いにもらった。

昨年からこの知り合いから桜の数本をもらうようになった。昨年も桜は切らないものだということでこの桜をもらった方に尋ねたら、桜も種類によっては切ってもいいのだということを知った。

毎年、桜の花の枝の数本をもらえるのは、大きな厚意であるので、厚く感謝している。桜の花とともに日本の春はやって来る。

今年は各地で桜の花の開花宣言がなされている。当地の松山でもそろそろ開花宣言がされそうである。


ブログが5224件

2020-03-19 12:33:30 | 日記
私のブログの数が5224件であると書いてある。それで1年の365で割ってみると、およそ14.3くらいになるから、ブログをかきはじめてからおよそ14.3年となることがわかった。

確かにブログを書き始めたのは2005年4月の終わりころである。子どもたちがブログを書き始めたので、それを真似して始めたのだが、子どもたちはもうずっと以前に私ほどはブログは続かず、やめてしまったり、やめないまでも開店休業になってしまった。

私がブログを書き始めたのはもう定年退職後であったから、ブログを書くのは趣味の一つで、これがないと重要な自分の仕事の一つがない感じで生き甲斐の一つになってしまった。

いや、毎日ブログを書くのは大変である。というのは書く内容がないことも多いからである。

自分の感覚と思考のアンテナをいつも鋭敏にしておかなくてはいけない。それと好奇心をもつことであろうか。

もっとも好奇心といってもタレントさんが起こした不倫事件とかに対するような週刊誌的な好奇心ではない。必要なのは知的好奇心(mental curiosity)である。



くねくね体操

2020-03-19 12:11:43 | 日記
NHKの総合テレビの「試してガッテン」のおわりに「くねくね体操」を紹介していた。

体を左右にくねくね揺らすというだけの体操である。だが、現在新型コロナウイルスの感染の広がりを受けて、外出の自粛とか言われているので、これを防ぐ対策の一環ともいえる。

くねくね体操と片足を揚げて自分の腕にくっつけるという操作を左右にくりかえし行う体操とふたつで一組らしい。

ウイルスに対する免疫力の向上の効果があるのかもしれない。それに自分の基礎体力を維持することは悪いことではない。

私はラジオ体操を12時と15時にラジオを聞きながらしている。もっともこれ全体ができるわけではなく、ラジオ体操の一部しかすぎないが、それでもなにもしないよりもいいであろう(注)。

もっとも日曜日はまったくの休日にしているので、月曜から土曜までの6日にすぎないのだが。それでももう10年以上は続けている。

(注)これは私が屋内で体操を行っているために飛び跳ねることができないから、飛び跳ねる部分を省略しなければならないからである。

新型コロナウイルスの被害を最小にするには

2020-03-18 12:58:07 | 日記
新型コロナウイルスの被害を最小にするにはどうしたらよいか。

今日の朝日新聞に川崎市のある医学関係の研究所所長、岡部信彦さんへのインタビューが載っていた。

それによると、岡部さんの見解は「経済的な被害と医学的な被害との総和を小さくする」ような観点がありうるということであった。

中国の武漢市で新型コロナウイルスの被害が大きく報道されたころに日本では水際での防疫対策といわれたが、専門家の考えではこれは完全に外国からウイルスを日本国内に持ち込ませないということではなかったという。

そもそもそういうことは不可能だと専門家としては思っていたということらしい。そうではなくて、深刻な重症者やそれによる死亡者をできるだけ少なくする。そして経済への影響も少なくするというようなことを考えるべきだという風に考えていたらしい。

それで思い出したのは武谷三男の「許容量の概念」である。「許容量の概念」は科学的な概念ではなく、社会的な概念であると武谷は主張していた。

社会的、経済的な被害と医学的な被害との全体をミニマムにするという視点があるというのはやはり専門家の視点であろう。

別に岡部さんが武谷の許容量の概念を知っていたわけではなかろうが、結果的に総合的判断が新型コロナウイルス対策としても必要であるという視点は新しかった。

昨日は日曜だったので

2020-03-16 11:56:00 | 日記
昨日は日曜だったので、終日家のこたつで過ごした。

『ピタゴラスからオイラーまで』(海鳴社)の12章のある箇所について、ちょっとした計算をしていた。

これはこの本のある事柄の記述のはじまりのところがどうも恣意的であるように思われたからである。

その点の検討はできれば、『数学・物理通信』への投稿するエッセイとしたいと考えている。もっとも先週の土曜に書いたようにいくらか今まで考えなかったようなことを考える機会があった。

認知機能検査

2020-03-13 11:22:02 | 日記
認知機能検査に行って来た。

記憶力が衰えていることにがくぜんとした。まだ判断力とかは衰えていないと思うが、記憶力の減退は思ったよりは進んでいる。

先日、妻が同じような試験を受けたが、その結果が93点か94点だったとかで、鼻高だかである。

それに比べるとどうも私の記憶力はいけない。もっとも全体の点数はそれほど悪くはないのではないだろうか。すくなくとも76点以上はとると思っているが、はたしてどうだろうか。

けっこう楽しみである。いや点数が高いというよりも、どれくらいの点数をとれるかという点についてである。年相応の点数がとれればいいという考えである。

源氏物語の新しい訳がでたとか

2020-03-12 12:52:10 | 日記
源氏物語の新しい訳がでたとか今日の朝日新聞の瀬戸内寂聴さんのエッセイで読んだ。

角田光代さんの新訳だそうである。既に谷崎源氏とか与謝野源氏とか円地文子さんとか寂聴さんの訳があるらしい。

妻が谷崎潤一郎の『源氏物語』をもっていたので、ちょっと覗いてみたら、「これが訳なの」というほどの文語であり、読めないということを認識したということがある。

与謝野晶子だとか円地文子だとか、さらに瀬戸内寂聴さんの訳まであるらしい。それらは時代が下るにつれて読みやすくはなっているのだろうが、角田源氏ほどは読みやすくはないだろう。

私は源氏物語を死ぬまでに現代語訳でいいから読みたいと思っている者の一人だが、残念ながらそれを果たしていない。

それにしてもこういくつも新訳が出るのであろうか。たぶん、それだけ源氏物語が面白いからであろうか。

寂聴さんはこれを訳するのに6年間もかかり、その間に大病もしたという。これは円地文子さんもほとんど同じくらいの期間かかり、やはり大病をされたという。、興味深い読み物とはいうものの、大変な物語である。

寂聴さんは角田訳を読むのに2晩も徹夜をしてしまったという。なんていう体力のある方なのだろう。

vivre sans regrets

2020-03-12 11:24:58 | 日記
vivre sans regrets (ヴィヴル サン ルグレ)

突如こういうことを書いたら「なんだ、なんだ」ということになる。昨日、赤十字病院に行って、腰の痛みが前立腺肥大の影響かどうか見てもらった。

前立腺肥大とは関係がないことがわかったのだが、その診察を受ける前の待ち時間のながいこと、長いこと。その待ち時間の間に私の前を通った人のもっていたバックに書いてあったフランス語がこれであった。

意味は「(人生を)後悔なく生きる」であろうか。このバックをもっていた人がその意味を知っていたかどうかはわからない。たぶんその意味を理解してはいないであろう。

多くの人にとって、こういうフレーズは多分に単なる装飾の一つにしかすぎない。


身体の不調

2020-03-10 11:18:17 | 日記
身体の不調というのだろうか。

いろいろ小さな不調がある。生活に大きな支障を示すものではないが、これが大きな体調不良の兆しかもしれない。

長年通った診療所が今月末近くに閉めることになったので、昨日最後の定期検診に行ってきたところである。

だが、そのときに気がつかなかった不調に襲われている。でも一日二日は様子を見てみることしたが、それでもあまり体の調子が戻らないとしたら、ホームドクターに相談に行かねばならない。

確定申告と新型コロナウイルス

2020-03-06 13:54:06 | 日記
昨日、確定申告の書類をつくろうとしたら、新型コロナウイルスの影響で申告の期限が1月ほど繰り下げられていることを知った。

日常の話題では新型コロナウイルスの話しでもちきりであるが、このブログはそういうup-to-dateな話にはほとんど無縁である。

だが、世間様には申し訳ないが、まだ感染者は増えるであろうと思っている。別に感染者が増えることを喜んでいるわけではない。憂いているのだが、人間の活動はなかなか制することはできない。それでも多くの集まりが中止になったり、延期になったりしている。

そして、そのために経済活動も阻害がされているのは、どうも私のせいではないが、申し訳ない感じさえする。

確定申告は書類をつくって、さきほど郵送した。たいていは自分で税務署に持参していたのだが、今年は人の集まるところに行かない方がいいだろうという配慮からである。

そういうことでちょっと遅れていた、「数学・物理通信」10巻1号の編集にとりかかろうかと考えている。9巻9号と10号の編集がおくれて、この3月の発行との間にあまり時間が空かなかったことの反省がある。

3の倍数の月は「数学・物理通信」に忙殺されるのはしかたがないが、それ以外の月は少し時間的な余裕と心の余裕を持ちたいためである。

旧聞に属するが

2020-03-05 11:45:46 | 日記
旧聞に属するが、「NHKの試してガッテン」という番組で学んだことが二つある。

一つは靴下を洗濯するときには裏返して洗濯すると靴下の汚れが落ちやすいということである。

もう一つは電気掃除機を使うときに掃除機の吸い口を手前に引いたときが、押すときよりもホコリを吸い込む力が大きいという事実である。

だいたい、このNHKの番組は教えたがりの番組であるのだが、なかなかその番組で教えられたことが頭に定着することはほとんどない。

だから、この二つの知識が定着したことの方が不思議だといってよい。

教育とはだいたい効果がないことが多い。私が大学で教えていたときでも口をすっぱくしていったつもりのことが学生になんの痕跡もないかの如くであることなど本当にいつも経験来てきたことである。

いや、これは人のことだけをいうのは公平さを欠くだろう。学期中に週一回ある、ドイツ語のクラスだって、そこで聞いたいろいろな知識だっておよそほとんどのことが私には定着しない。

それでもR氏などはあきもせずいつも繰り返してくれる。そういうことにあきたりするようでは教師としての資格を欠くのであろう。

しかし、それにしても教育とはなんと非効率なことなのだろう、といまさらながら思う。

いつもブログは

2020-03-04 12:59:20 | 日記
いつもブログはお昼ごろに書くことが多い。

ところが午前中に仕事が入ったりすると、それが少し遅くなる。今日も午前中に知人からの要請が入ったので、ブログを書くのが少し遅れた。

この知人は現在、博士論文を執筆中だが、それに私の以前の論文を参照しているが、前にPDFの文書で送ったものなので、正しいページ数がほしいとの要請が入った。それでいままでの『徳島科学史雑誌』に掲載された論文の別刷りをすべて送ってあげようとそれらの論文別刷を探していた。

『数学・物理通信』を発行することが私の最近の重要な仕事の一つとなっているが、それでももう片一方で科学史的な仕事もやっている。

これは徳島科学史会を主宰されている、西條敏美先生と知り合いになってからである。それでもそれももう15年くらいになっている。

これはまったく偶然であったのだが、ある友人に依頼されて徳島科学史会の松山で開催された例会でお話をしたことがきっかけとなっている。

こういうお誘いをいただいたのは思えば、本当に偶然である。このお誘いをいただいたTさんには感謝している。

今月の子規の俳句

2020-03-03 13:55:00 | 日記
今日は3月3日であり、ひな祭りの日である。

さて、毎月載せている今月の子規の俳句である。

  ふつふつと彼岸桜のつぼみかな   (子規)
  high-cherry tree
  the buds are
       plump and round   (Shiki 1882)

彼岸桜は普通の桜よりも早く咲く。3月の24,5日には咲くだろう。普通の桜が
4月初めに咲くのと比べて10日ほど早く咲く。

実家の玄関先にこの彼岸桜があり、これはさくらんぼの実をつけた。いまでもこの木は健在である。そこに住んでいた、私の母も父もさらには長兄やその兄嫁も亡くなって久しい。

次兄がその後地に今は住んでいる。妻と私とは年に2度か3度かそこを訪ねるだけである。

らるらりら

2020-03-02 13:08:10 | 日記
「らるらりら」とは米津玄信さんのパプリカの中の文句である。何か意味があるのかとインターネット検索したら、もっともらしく解釈しているものもあった。

これは米津さんの創造した言葉なのであろう。米津さんが、嵐に提供した歌の中にもこの「らるらりら」という語が入っているらしい。

そのうちにこの語も米津さんの創造した言葉遊びとの解釈が定着するのかも知れない。

パプリカには英語の歌詞もあるらしい。さすがにこの英訳は日本語の歌詞と比べて意味がはっきりしている。

in Ordnungとalles klar

2020-03-02 12:00:01 | 日記
in Ordnungとalles klarとは「うまくいっていっている」と「わかったよ」とでもいうようなドイツ語表現である。

これがあまりドイツ語が得意ではない妻の口から聞くとなるほど私の影響を彼女も受けているんだなといまさらながら感じている。 

「門前の小僧習わぬ経を読む」とは古い日本のことわざであるが、これはなかなか真理である。

in Ordnungに帰れば、たとえば、Geht es in Ordung ?とか尋ねたりすることがある。

12時前のNHKのEテレの「旅するドイツ語」を妻とときどき一緒に見たりするから、そのせいだろうか。私はほぼ毎回見ているが、妻はこれは放送がかなり遅いということから、見るのは3回に1回くらいだろうか。

だが、それでも何かを覚えることがあるということである。もっとも妻も私ももう40年以上前のことになるが、1年のドイツ滞在を経験している。

それでなにがしかの記憶がのこっているということであろうか。だが、それももはや半世紀前に近くなっている。ドイツ語を忘れてしまっても当然であろう。

私自身は学期がはじまるとドイツ語のクラスで週に1回だけドイツ語を話す機会があるので、ドイツ語を忘れる一方で、思い出すこともある。それにしても、よる年波である。記憶力は減退している。

もっとも世の中には何歳になっても新しい外国語を習得しようと努力する人もおられると聞く。それが認知症に対するいい対策だとも聞く。せいぜい楽しんで生きたい。