天徳寺門前は慶長16年(1611年)、天徳寺が当地に移転してきた際、門前町屋となったようで、当初は名主の名前から孫兵衛町と名乗っていました。「御府内備考」当時、表門前町、裏門前町、広小路門前町の三ヶ所に分かれ、うち現桜田通りを挟んで葺手町、神谷町に面していたのが裏門前町です。そこには横切下水があり石橋が架かっていました。「石橋 長四尺幅八尺 右者天徳寺裏門前町中程横切下水ニ懸有之候」 この下水は西隣の神谷町からのものでした。「横切下水 巾五尺 右者町内北之方ニ御座候西之方より東え掛天徳寺裏門前町え流申候」 流末は不明ですが、明治末の「郵便地図」などに唯一描かれた、天徳寺境内の東縁に沿う水路とかかわるのでしょう。(大正10年の地図は→ こちらでどうぞ。港区の旧町名由来板に掲載されているものの一部です。)
- ・ 天徳寺山門前 江戸時代の表門や裏門と場所が変わり、境内の北東角に位置しています。左手の石標には「江戸観音 第二十番 西之窪観音」とあります。
- ・ 天徳寺山門前 天徳寺とかって寺中(境内の小寺や庵)だった諸院の間のこの道路が、「郵便地図」などの描く水路とほぼ重なります。
- ・ 旧天徳寺門前(?) 山門前と桜田通りの間の通りで、奥は増上寺へと抜ける、江戸時代広小路と呼ばれていたところです。水路跡を思わせる谷筋が横切っています。
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