千川家の九代目当主善造が、明治17年(1884年)に書いた「千川用水取調表」が、豊島区郷土資料館の「千川上水関係史料集Ⅰ」(1995年)に収録されていますが、その中に「水路管理法 従来ヨリ下練馬村千川善造ノ負担ニシテ、壱ヶ月六度ツヽ水路巡回ス、且水路ニ古来ヨリ水見守三ヶ所置善造費用以テ管理ス」との一節があります。水元の保谷新田、七ヶ村分水口のある竹下新田、そして長崎村の三ヶ所で、うち竹下新田と長崎村のものは、正徳末頃(1715~18年)とされる「江戸配水図」(練馬区郷土資料室所蔵)に既に描かれています。なお、普請方に直属していた玉川上水や神田上水の場合と異なり、水番人の給米や番所の普請は千川家持でした。
- ・ 「江戸配水図」 「東京市史稿上水編」収録のものをもとに作成された、東京都水道歴史館の展示パネルです。竹下新田の水番所周辺を拡大したのは→ こちらでどうぞ。
- ・ 竹田新田水番所跡 「江戸配水図」によると、千川上水が青梅街道を越えた右岸がその場所なので、写真の右手奥にあるビル付近ということになります。
ところで、明著出版「千川上水・用水と江戸・武蔵野」の第11章「宝暦・天明期の千川上水再興運動」によると、千川家-水番人による管理システムが、江戸時代のある一時期、別個のシステムと併存したことがあります。天明年間(1781~88年)に上水利用が復活した際、例の「千川素堀筋普請所積見分」を残した小川家が、「千川素堀通保谷新田分水口より滝野川村元枡迄、御普請御修理浚等水番屋普請修理水番人見廻り等ニ至迄一式」を請負い、関前新田、中村、滝野川村三ヶ所に水番屋を設置、水番人の給金その他を負担しました。「小川家文書」中の絵図を元にした→ イラストに、関前新田の水番屋が描かれていますが、その規模は6間半☓4間半、あと中村は6間半☓5間、滝野川村は5間☓3間です。天明6年(1786年)に上水が再廃止された際、これら水番屋は取り壊され、千川家-水番人による一元的な管理システムに戻されました。同8年の「千川家文書」中、千川家の職務を箇条書きにしたうちに、「一 私共抱水番人 上石神井村ニ壱人 上板橋村ニ壱人 右水番給米両人分弐石六斗三升相渡申候 一 右水番小屋普請新規修理共仕相渡申候」との項目があります。上石神井村は竹下新田の、上板橋村は長崎村の水番所のことでしょう。