goo blog サービス終了のお知らせ 

神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

千川上水水番所

2015-08-05 06:55:23 | 千川用水5

 千川家の九代目当主善造が、明治17年(1884年)に書いた「千川用水取調表」が、豊島区郷土資料館の「千川上水関係史料集Ⅰ」(1995年)に収録されていますが、その中に「水路管理法 従来ヨリ下練馬村千川善造ノ負担ニシテ、壱ヶ月六度ツヽ水路巡回ス、且水路ニ古来ヨリ水見守三ヶ所置善造費用以テ管理ス」との一節があります。水元の保谷新田、七ヶ村分水口のある竹下新田、そして長崎村の三ヶ所で、うち竹下新田と長崎村のものは、正徳末頃(1715~18年)とされる「江戸配水図」(練馬区郷土資料室所蔵)に既に描かれています。なお、普請方に直属していた玉川上水や神田上水の場合と異なり、水番人の給米や番所の普請は千川家持でした。

 

0624c

    ・ 「江戸配水図」  「東京市史稿上水編」収録のものをもとに作成された、東京都水道歴史館の展示パネルです。竹下新田の水番所周辺を拡大したのは→ こちらでどうぞ。  
 

0601a

    ・ 竹田新田水番所跡  「江戸配水図」によると、千川上水が青梅街道を越えた右岸がその場所なので、写真の右手奥にあるビル付近ということになります。

 ところで、明著出版「千川上水・用水と江戸・武蔵野」の第11章「宝暦・天明期の千川上水再興運動」によると、千川家-水番人による管理システムが、江戸時代のある一時期、別個のシステムと併存したことがあります。天明年間(1781~88年)に上水利用が復活した際、例の「千川素堀筋普請所積見分」を残した小川家が、「千川素堀通保谷新田分水口より滝野川村元枡迄、御普請御修理浚等水番屋普請修理水番人見廻り等ニ至迄一式」を請負い、関前新田、中村、滝野川村三ヶ所に水番屋を設置、水番人の給金その他を負担しました。「小川家文書」中の絵図を元にした→ イラストに、関前新田の水番屋が描かれていますが、その規模は6間半☓4間半、あと中村は6間半☓5間、滝野川村は5間☓3間です。天明6年(1786年)に上水が再廃止された際、これら水番屋は取り壊され、千川家-水番人による一元的な管理システムに戻されました。同8年の「千川家文書」中、千川家の職務を箇条書きにしたうちに、「一 私共抱水番人 上石神井村ニ壱人 上板橋村ニ壱人 右水番給米両人分弐石六斗三升相渡申候 一 右水番小屋普請新規修理共仕相渡申候」との項目があります。上石神井村は竹下新田の、上板橋村は長崎村の水番所のことでしょう。

 


南長崎6丁目交差点

2015-08-04 07:01:25 | 千川用水5

 南長6丁目交差点に差し掛かったところで、新しいクール、千川用水5を開始します。千川上水はこの交差点で、そのまま南東に向かう清戸道と分かれ、V字ターンで北東に向きを転じます。「千川素堀筋普請所積見分」の該当個所には、「五郎久保 土手之上ニ而 辰巳 石橋上ニ而 丑寅 分水口 巳ノ方 水番敷五間半四方有 是より堀敷長崎分」とあるところです。五郎久保は当地の字で、 長崎村に属していました。ところで、V字ターンを強いた要因ですが、「段彩陰影図」を見ると一目瞭然です。これまでも見てきたように、千川上水は左手の石神井川水系と、右手の神田川水系の間の尾根筋に開削されましたが、ここでは石神井川の一支流の谷頭が南に突き出しており、それを避けるための迂回でした。

 

Minanaga1

    ・ 「段彩陰影図 / 南長」(1/18000)  オレンジ線は区境で左上から時計回りに練馬、(若干)板橋、豊島、新宿、中野区です。〇は下練馬、中新井(北新井)、江古田、葛ヶ谷、長崎(四ヶ村)の各分水口、☓の悪水吐きは該当個所で詳細します。

0624a

    ・ 南長崎6丁目交差点  右手の歩道寄りを並行する千川上水は交差点を越えたところで左折、直進する清戸道と分かれます。

0624b

    ・ 南長崎6丁目交差点  左折後の千川上水の下流方向です。なお、青梅街道以来一緒だった千川通りはここで終了、左折後並行する通りは都道420号となります。

 <長崎村水番所>  V字ターン直後の右岸、上掲写真のファミレスのある一角に、水番所が設けられていました。「千川家文書」の中に、寛政10年(1798年)の日付のある絵図面が残されていて、8坪(2間☓4間)と3坪(2間☓9尺)の2間からなる「水番家」が描かれています。以前水番人だった長崎村弥兵衛が、安永4年(1775年)に辞めて以来、隣村の上板橋村の者が水番人を勤め、その間番所は使われていなかった、今回弥兵衛縁者が引き継ぐことになったので、元の敷地に新たに番家(番所)を作ることにしたい、との趣旨の書面が千川家より御普請方に提出され、その添付図面と思われます。なお、冒頭で引用した「千川素堀筋普請所積見分」には、「水番敷五間半四方有」との書き込みがあります。同「見分」は安永9年(1780年)のものなので、敷地のみがあった時期に当たり、上記文書との整合性はピッタリです。