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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

庚申橋

2018-06-16 06:39:21 | 幡ヶ谷支流

 本流に架かる庚申橋の名前の由来は、明治5年(1872年)の建立の、俗に中幡ヶ谷の→ 庚申様と呼ばれているものの前にあるからです。→ 「幡ヶ谷村絵図」の左側の、三叉路に架かっているものですが、当時は庚申塔はなかったので、何橋と呼ばれていたかは不明です。ところで、「村絵図」の描く橋の前後の様子ですが、左右の二本の用水が交わり、さらに南側からもう一流が合流しています。これは現在確認できる水路跡とも一致していますが、ただ、昭和10年代に中野通りが甲州街道まで開通したのに伴い、南側からの水路の大半はその用地となって失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 庚申橋の架かっていたところで、右写真は前回最後の三俣橋方向です。  

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    2. 本流はすぐ右折して通りを離れますが、そのまま南から合流していた水路をさかのぼります。  

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    3. 水道道路を越えるとすぐ右手は中野通りです。ここに笹塚隧道がありました。  

 <笹塚隧道>  築堤の新水道下には三ヶ所に隧道が設けられました。上流から笹塚隧道、本町隧道(小トンネル)、本村隧道(大トンネル)です。関東大震災によって新水道が決壊し、都市機能がマヒした教訓から、昭和7、8年頃行われた甲州街道の拡張工事に便乗、街道下に鉄管二本を埋設し、そちらに新水道の機能を移しました。完成したのは昭和12年(1937年)です。その際、新水道の築堤は取り崩され、三ヶ所の隧道も不要となるはずでしたが、上流から順次フラットにする工事の途中、第二次大戦と戦後の混乱の中で中断、そのままになってしまいました。結局、中野通りが築堤を越えて開通したのに伴い、不要になった笹塚隧道のみが撤去されました。