善福寺川の水源は善福寺池です。「新編武蔵風土記稿」の上井草村の項に、「善福寺池 青梅街道より南にあたりて村の西の方にあり、其広さ南北三十間余(≒54m)、東西八十間余(≒144m)、廻涯蒹葭(けんか おぎやあしのこと)生じけり、此池より流れ出る一條の水あり、村内をふること凡十五町余にして、流末は上荻窪村にいたり、和田村雑色村の間にて井ノ頭用水に合す」とある池です。明治初年の「東京府志料」では「周廻二百間直径四十間」となっていて、円形に変わったようにもみえますが、直径40間(≒72m)の円では一周200間(≒360m)にははるかに及ばないので、やはり東西に長い形で大きさも同規模だったのでしょう。(数字は1間を1.8mとして計算しています。)
- ・ 「迅速測図 / 上下井草村近傍村落」 現在の善福寺池(上池と下池)を薄いブルーで重ね、グリーンは善福寺公園の範囲です。なお、善福寺池(上池)の現在の大きさは、昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で大雑把に計測して、外周850m、面積22000㎡といったところです。
「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」の数字は、現在のものと比べるとだいぶ小ぶりですが、「迅速測図」中、くびれたところの上部のみを計測しているためと思われます。たびたびお世話になっている「嘉陵紀行」の作者、村尾嘉陵は、天保3年(1832年)に遅の井八幡宮(井草八幡宮)を訪れた後、善福寺池に足をのばします。「廟前をいでて少しゆく、左に横折て小径をゆけば、田の面を見渡す、風景いとよし、田のふちにそひて少し行けば、向ひ田を横切りて石の小橋を渡る所あり、其橋の南の方一丁たらぬ所、田の畔を隔てて、芦の生たる、足入とも覚しき処有り、是を善福寺の池と云・・・・考ふるに古は石橋有る所より北の方は皆池にてありしを、後追々田にはせし成るべし、近頃迄芦もさまでは茂らざりしに、年々生ひろごりて、いまは水を見る処、はづかばかり田一畝も有べく見ゆ」 石橋は上池の南端に架かる渡戸橋のことと思われます。当時は渡戸橋の付近は田や芦原で、池は1丁(60間≒109m)弱隔てたところにあったと解釈できます。(作者の方向感覚は実際とだいぶズレています。)

- ・ 善福寺池(上池) 左手奥に見える弁天島周辺が「新編武蔵風土記稿」の善福寺池の範囲で、その手前はくびれていて、一本橋と呼ばれる丸太橋が架かっていました。(「善福寺池・五十年の歩み」 平成元年 善福寺風致協会)
一方、大正5年(1916年)の「豊多摩郡誌」では「其の廣さ東西二町二十間(≒252m)、南北四十間(≒72m)、周圍七町三十間許(≒810m)あり」とされ、「迅速測図」の描く形に近い数字になっています。面積は書かれていませんが、2000~2400坪(≒6600~8000㎡)といわれており、それでも現行のものよりだいぶ小さな数字です。上池が現在のような形、大きさになったのは昭和の初めのことで、昭和5年(1930年)に池周辺が風致地区に指定され、同12年のボート場開業時にかけて、公園として整備される過程で拡張されました。なお、下池は沼地や水田だったところを整備したもので、池となったのはやや遅れて昭和10年代のことです。