東堀留川の江戸時代の呼び名は不明で、町名からなら堀江町堀でしょうが、そう呼んでいる文献は未見です。(「東京府志料」は堀江町入堀としています。) また六十間川というのも出てきますが、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)などが、突き当りの堀留のところを六十間河岸、六十間丁と書いています。なお、東堀留川の西岸には堀江町、東岸には新材木町がありました。堀江町には家康入国当時、一帯を漁師、堀江六郎に与え、魚類御用を命じたとの伝承があり、一方、新材木町は、洲崎造成時に成立した江戸橋南の本材木町に対し、遅れて元和年間(1615~24年)に出来たとされる、材木商の多く集まる町でした。
- ・ 「江戸名所図会 / 堺町 葺屋町 戯場(しばい)」 左下を横切るのが東堀留川、蔵の立ち並ぶ新材木町の奥は、「図会」当時一大劇場街となった元吉原です。
以下は「慶長見聞集」のうち、「よし原町の橋、渡り兼たる事」の一節です。「されはよし原町へ行道に堀川二筋ありて橋二つかゝる。こなたなるをしあん橋と云、あなたなるをはわさくれはしと名付。・・・・この二つの橋の名、よし原通ひの人集りてつけたる名也」 「わざくれ」というのは「どうなっても知ったことか」といった意の俗語だそうで、最初は迷っていたのが、吉原に近くなるにつれ迷いも吹っ切れ・・・・といったところでしょうか。
- ・ 思案橋跡 東堀留川が日本橋川から分岐する小網町児童遊園の前の通りです。ここに思案橋が架かっていました。上述のように、吉原に行くか行かぬか思案するの意です。
吉原は元和3年(1617年)、葦の生い茂る2町四方を開墾して営業を開始しました。 → 「武州豊島郡江戸庄図」の右上隅、周囲を堀で囲まれた長方形の一角で、同図には西の入堀河口に「志あん橋」、東の入堀河口に「わざくれ橋」が架かっています。その吉原が、明暦3年(1657年)の大火後、浅草に移転したので、こちらは元吉原となりました。こうした事情変更を反映し、本来の意味が薄れてしまったのでしょう、「寛文図」(寛文10年 1670年)の時代になると、東堀留川河口の橋が思案橋となり、元の思案橋は荒布橋(あらめ 海藻類)と呼ばれるようになっています。