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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

東掘留川

2019-09-28 06:37:18 | 平川・外堀2

 東堀留川の江戸時代の呼び名は不明で、町名からなら堀江町堀でしょうが、そう呼んでいる文献は未見です。(「東京府志料」は堀江町入堀としています。) また六十間川というのも出てきますが、「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)などが、突き当りの堀留のところを六十間河岸、六十間丁と書いています。なお、東堀留川の西岸には堀江町、東岸には新材木町がありました。堀江町には家康入国当時、一帯を漁師、堀江六郎に与え、魚類御用を命じたとの伝承があり、一方、新材木町は、洲崎造成時に成立した江戸橋南の本材木町に対し、遅れて元和年間(1615~24年)に出来たとされる、材木商の多く集まる町でした。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 堺町 葺屋町 戯場(しばい)」  左下を横切るのが東堀留川、蔵の立ち並ぶ新材木町の奥は、「図会」当時一大劇場街となった元吉原です。

 以下は「慶長見聞集」のうち、「よし原町の橋、渡り兼たる事」の一節です。「されはよし原町へ行道に堀川二筋ありて橋二つかゝる。こなたなるをしあん橋と云、あなたなるをはわさくれはしと名付。・・・・この二つの橋の名、よし原通ひの人集りてつけたる名也」 「わざくれ」というのは「どうなっても知ったことか」といった意の俗語だそうで、最初は迷っていたのが、吉原に近くなるにつれ迷いも吹っ切れ・・・・といったところでしょうか。

 

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    ・ 思案橋跡  東堀留川が日本橋川から分岐する小網町児童遊園の前の通りです。ここに思案橋が架かっていました。上述のように、吉原に行くか行かぬか思案するの意です。

 吉原は元和3年(1617年)、葦の生い茂る2町四方を開墾して営業を開始しました。 → 「武州豊島郡江戸庄図」の右上隅、周囲を堀で囲まれた長方形の一角で、同図には西の入堀河口に「志あん橋」、東の入堀河口に「わざくれ橋」が架かっています。その吉原が、明暦3年(1657年)の大火後、浅草に移転したので、こちらは元吉原となりました。こうした事情変更を反映し、本来の意味が薄れてしまったのでしょう、「寛文図」(寛文10年 1670年)の時代になると、東堀留川河口の橋が思案橋となり、元の思案橋は荒布橋(あらめ 海藻類)と呼ばれるようになっています。

 


西掘留川

2019-09-27 06:30:02 | 平川・外堀2

 西堀留川は江戸時代、伊勢町堀と呼ばれていました。伊勢町河岸や東岸の小舟河岸は、江戸湊に入る船荷の集散場として、大いに賑わいましたが、明治に入ると、物流の中心が水運から陸運へ転換するなか、まず西に折れた個所が埋め立てられました。西堀留川と正式に命名されたのもその頃です。昭和3年(1928年)には、隣接する昭和通り開通など、震災復興事業の一環として、完全に埋め立てられ消滅しました。なお、西堀留川の規模は「東京府志料」の数字で延長5町58間(≒652m)、幅は16間(≒29.1m)、ただし折れた先は6間(≒10.9m)と狭くなっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 常盤稲荷前を過ぎます。江戸時代には100mほど西の、日本橋魚市場内にあり、市場関係者の信仰を集めていました。  

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    3. 奥の突き当り手前で、左手に折れていましたが、その個所の重なる道路はありません。

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    4. 左折し昭和通りを超えたところです。なお、「図会」の道浄橋は昭和通りの手前にありました。  

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    5. 雲母(きらず)橋跡から堀留にかけてです。右手に祀られている福徳稲荷は、切絵図では左手に描かれています。  

二つの入堀

2019-09-26 06:22:26 | 平川・外堀2

 江戸橋先の左岸には、二本の入堀が並行しています。手前から西堀留川、そして東堀留川ですが、これは明治に入り名付けられたもので、江戸時代には単に堀、入堀と呼ばれ、西のものは先端の町名から、伊勢町堀とも呼ばれていました。「伊勢町堀 日本橋、江戸橋通りの川より北に分かれて、伊勢町辺までの入堀なれば呼名とす」(「御府内備考」) 伊勢町は伊勢の国の出身者が多く住んだから、あるいは、後北条氏の一族が伊勢氏を名乗って土着したから、そう名付けられたといわれています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、ほとんどが中央区です。

 慶長8年(1603年)から同17年までの、豊島洲崎造成工事の際、整備されたと考えられており、「慶長見聞集」の「よし原町の橋、渡り兼たる事」の中で、「よしはら町へ行道に堀川二筋ありて」と書かれているものです。二本の入堀の両岸には河岸が設けられ、倉庫が立ち並んでいて、江戸湊に入る米、塩、竹木薪炭などの荷揚場となっていました。また乾物の集積地でもあり、鰹節、海苔などの老舗が今でも本店を構えています。

 

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    ・ 西堀留川跡  日本橋本町と日本橋小舟町の境となっているこの道路が、西堀留川の流路と重なります。ただ、入舟堀だけあって幅は広く、両側のビルがスッポリ収まる広さでした。

 <古石神井川河口論>  二つの堀留川を付替えられる以前の石神井川の河口とする仮説があります。この説によると、石神井川の原型が王子の手前で南下、不忍池、お玉が池を経由し、このあたりで江戸湊に注いでいました。それが第一段階で、(時代および自然現象か人工的か諸説ありですが)、北区滝野川にある音無渓谷を越えて隅田川に直行、結果下流域の谷田川(藍染川)が取り残されます。第二段階は慶長年間の豊島洲崎造成工事で、谷田川(藍染川)を隅田川に放流、河口部分を切り離し二つの堀留川とした、というものです。なお、鈴木理生「江戸の川東京の川」では、この谷田川(藍染川)の隅田川への放水路を、のちの神田川の原型としています。神田山を開削し、この放水路に連絡したのが、今日の神田川というわけですが、文献的な裏付けはなく、よく分からないところです。 

 


三十間堀3

2019-09-25 06:58:19 | 平川・外堀2

 木挽橋(一の橋、五丁目橋とも)の先、三百数十メートルで、三十間堀は外堀から連続する汐留川に合流して終了します。新橋と汐留橋との間の合流地点の様子は、→ 「江戸名所図会」に描かれています。なお、木挽橋から合流地点までの間に、賑(にぎわい)橋、出雲橋、そして合流地点手前の八通八(やつや)橋と、三本の橋がありますが、いずれも明治以降に架橋されたものです。

 

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    ・  合流地点  正面の建物上が汐留川跡を利用した東京高速道路、その手前に昭和4年(1929年)、八通八橋が架けられました。 

 ところで→ 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)当時、三十間堀の東岸の造成地はごく狭いもので、紀伊国橋前の紀伊家や、真福寺橋寄りの尾張家など大大名の蔵屋敷が並び、また堀沿いには木挽町がありました。江戸城造営に従事する木挽職人が多く住んだのが由来ですが、熊野、木曽という木材産地をようする紀伊家、尾張家の蔵屋敷の存在を併せ考えると、江戸町形成期の三十間堀、木挽町の果たした役割が推測できます。

 

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    ・  合流地点  中央区教育委員会の解説プレートがあり、その下に置かれた石のなかには、三十間堀の護岸に使用されていたものもあります。 

 それが、建築ラッシュが一段落した寛永19年(1942年)、歌舞伎芝居の山村座が木挽町四丁目で櫓をあげ、慶安元年(1648年)の河原崎座、万治3年(1660年)の森田座と続きます。こうして木挽町は中村座、市村座のあった→ 堺町、葺屋町に匹敵する芝居町へと変貌しました。昨日UPの→ 「江戸名所図会」の中央で、官許のシンボルの櫓をあげているのは、中村座、市村座と並ぶ江戸三座の一つ森田座です。(今では歌舞伎座や新橋演舞場が、木挽町芝居小屋の伝統を引き継いでいます。)

 


三十間堀2

2019-09-24 06:30:26 | 平川・外堀2

 三十間堀の開削は慶長17年(1612年)、例の櫛の歯状の舟入堀と同時期と目されています。「段彩陰影図」と重ねた → 「武州豊島郡江戸庄図」からも分かるように、楓川と同様、江戸前島の東の海岸線に沿っており、海岸線を30間(≒54.6m)埋め残し、その東側に埋立地(木挽町)を造成したと推測されています。当時の橋は三つで、のちの真福寺橋、紀伊国橋、木挽橋ですが、「寛文図」(寛文10年 1670年)では無名橋が加わっています。三原橋と呼ばれ、「御府内備考」では「水押(みよし)橋・・・・新し橋ともいふ」となっている橋です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 木挽町芝居」  「顔見せや一ばん太鼓二番鳥 老鼠」  老鼠は宝井(榎本)其角の門人で、のち其角座を主催した初代深川湖十の別号です。  

 ところで、三十間堀の名前の由来となった堀幅30間ですが、文政11年(1828年)、川浚いの土をもって両岸を狭めたため、幅は縮小し、「東京府志料」の数字で14~23間(≒25.4~41.8m)となっています。完全に埋立てられたのは外濠川と同様、戦災で出た瓦礫処理のためで、昭和23年(1948年)に開始、同27年に完了しています。

 

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    ・ 三原橋跡  今は拡幅され晴海通りとなっているところに架かっていた橋です。三十間堀のなかではこの橋のみ撤去されず、映画館などの入る→ 三原橋地下街となっていましたが、現在撤去中です。

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    ・ 木挽橋跡  上掲「図会」の一の橋で、前の通りを左手に行くと、築地川に架かる二の橋、三の橋に出ました。また、東岸に木挽町五丁目があることから、五丁目橋ともいいます。

三十間堀

2019-09-21 06:31:12 | 平川・外堀2

 三ッ橋まで戻り、三十間堀を追って南下します。とはいっても、楓川から連続するところは失われ、真福寺橋跡も特定できません。→ 「江戸名所図会」に描かれているように、三十間堀は右折していったん西に向い、左折して南下するコース取りをしていますが、明治40年(1907年)頃に、この個所をショートカットする付替えがありました。その際、旧来の流路は埋立てられ、宅地となって痕跡をなくしてしまったためです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図 / 日本橋)」  堀跡と直交する幅広の空白が橋跡で、うち上流のものが真福寺橋です。 

 上掲「地形図」では元の流路は空白になっていて未造成のようですが、同年11月には造成地の一角に京橋小学校(平成4年、築地小学校と合併し移転)が開校しています。なお、このショートカットの計画立案は、明治10年代になされたようで、「中央区沿革図集」(京橋編 平成8年)に収録された、明治18年頃と目される「修正市区改正及品海築港略図」には、ショートカット個所を手書きしています。あと、木挽橋のところで、三十間堀と築地川を連絡していますが、こちらは実現しませんでした。

 

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    ・ 京橋プラザ裏  京橋小学校跡地に建てられた区営住宅の京橋プラザ裏です。元の三十間堀はここで右折していました。なお、植え込みの石は護岸に使われていたものです。

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    ・ 三十間堀跡  右折、左折のクランクを抜けた先で、銀座柳通りと交差します。ここに紀伊国橋が架かっていました。三十間堀開削時、東岸にあった紀州家蔵屋敷がその由来です。

京橋川

2019-09-20 08:20:23 | 平川・外堀2

 京橋川は外堀(外濠川)から北紺屋町、南紺屋町の間で分岐、東流して三ッ橋で楓川、八丁堀、三十間堀と合流する堀川です。延長は600mに満たないごく短いもので、幅は「東京府志料」の数字で10~14間(≒18.2~25.4m)ありました。途中通町筋(中央通り)との交差点に架かる橋名から、明治に入り京橋川と命名されましたが、江戸時代、特定の名前はなかったようです。開削年代も正確なところは不明ですが、日本橋、京橋、そして中橋の順で架橋されたのでしょうから、慶長8年(1603年)の豊島洲崎造成と同時期か、遅くとも同17年の舟入堀開削までと思われます。

 

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    ・ 京橋  手前の親柱は明治8年(1675年)に、石造りのアーチ橋となった当時のもので、反対側には大正11年(1922年)の → 親柱も保存されています。 

 京橋については「御府内備考」が、「日本橋通り南伝馬町と銀座町との間にあり。欄干葱花子(ぎぼし)銘に、正徳元年(1712年)卯年六月吉日鋳物師田中丹波守重正と刻す。白石『紳書』云、むかしは芝口の町も京橋辺までにて、それよりこなたは後に出来しなり。さるによりて京橋辺の町の名、今も大阪町、住吉町などいふあり。これはその所に傾城町などありしよしといふ」と書いています。豊島洲崎造成時、京橋、京橋川が江戸町の南限だったのでしょう。なお、京橋の規模は「東京府志料」によると、「長十四間三尺幅四間二尺」です。

 

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    ・ 京橋川跡   外堀(外濠川)に連続するところです。この手前に比丘尼橋が架かっていました。なお、京橋川には江戸時代5本の橋が架かっていました。

 京橋川は終戦直後まで存在しましたが、戦後の復興事業の一環として外堀、京橋川、汐留川を埋め立て、跡地にビルを建てその上に道路を作るという計画が持ち上がります。埋め立ては昭和29年(1954年)に開始され、桜川(八丁堀)、楓川と同じく同34年までに完了しました。跡地に開通したのが東京高速道路で、首都高と連絡していますが、それとは別の民間の運営です。ビルのテナント料によって維持、管理されており、通行料は無料となっています。

 


三ッ橋

2019-09-19 06:16:05 | 平川・外堀2

 楓川は弾正橋の先で八丁堀、三十間堀、京橋川と連絡します。そこには八丁堀を除いて三つの橋が架かっていました。弾正橋、真福寺橋、白魚橋で、これらは橋名はともかく、いずれも → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)に登場します。うち弾正橋の東詰には嶋田弾正屋敷がありました。慶長から寛永にかけて、20年近く江戸南町奉行を勤めた旗本で、町奉行所役人が八丁堀に住んだ先駆けでした。南町奉行所は1kmほどの数寄屋橋御門内にあり、この橋を渡って通っていたのでしょう。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 三ッ橋」  左上隅の流れは真福寺橋下から連続する三十間堀のもので、右折、左折のクランクで南下します。

 また真福寺橋については、「昔真福寺といふ寺此処に在しより名付といへり」と「御府内備考」は書いています。一方、白魚橋は白魚屋敷にちなんでいて、小魚を献上する網役の拝領屋敷がそう呼ばれたものです。「図会」の京橋川と三十間堀の間に挟まれた細長い区画が白魚屋敷です。なお、白魚橋には牛草橋の別名もあり、「図会」や「御府内備考」ではそうなっていますが、こちらの由来についてはよく分かりません。

 

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    ・ 弾正橋  大正2年(1913年)、鍛冶橋通りの開通に伴い改架されました。元の→ 弾正橋は明治11年(1878年)完成の国産初の鉄橋で、富岡八幡横の八幡堀で縮小、保存されています。  

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    ・ 三ッ橋跡  首都高に架かる新金橋から振り返っての撮影で、奥が弾正橋です。手前の歩道橋のあたりで右手から合流するのが八丁堀、左手にカーブする東京高速道路下が京橋川です。

紅葉川

2019-09-18 06:36:24 | 平川・外堀2

  → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)に描かれた、櫛の歯状の舟入堀の中央にあって、外堀と楓川を連絡しているのが紅葉川です。「紅葉川 中橋大鋸(おが)町と下横町との入堀なり。その名付し由来を詳にせず。此川昔は中橋下を歴て御堀に通ぜしが、後埋立て広小路と成り、其後又町並と成しゆへ、今も川蹟を中橋広小路町と称せり」(「御府内備考」) 「寛永元年甲子の春、中村勘三郎、官府の免許を蒙り、江戸中橋において始て太鼓櫓を揚、猿若狂言盡の芝居を興行す。是大江戸常芝居の始元なり」(「江戸名所図絵」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 中橋」  「図会」の時代中橋に中村座はありません。寛永9年(1632年)禰宜町に移転後、慶安4年(1651年)には→ 堺町に再移転しています。

 何本もあった舟入堀は徐々に埋立てられ、寛永末(1642~3年)とされる「寛永江戸全図」では、他の舟入堀はワンブロックのみの短いものとなり、中央の紅葉川だけが通町筋(現中央通り)手前まで存続しています。引用文の中橋広小路が成立したのは、それ以前ということになります。なお、「中央区沿革図書」(平成7年)によると、大半の舟入堀は元禄3年(1690年)に消滅、残された紅葉川の東半分も、安永3年(1774年)及び弘化2年(1845年)に埋立てられました。

 

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    ・ 八重洲通り  昭和通りとの交差点から、八重洲口方向のショットです。紅葉川の東半分には二本の橋が架かっていました。楓川近くの紅葉橋とこの先の交差点の藍染橋です。

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    ・ 八重洲通り  中央通りとの交差点で、ここに中橋が架かっていました。同じ道筋にある日本橋、京橋の中間の橋の意で、江戸に数多くあった中橋の中で最も古いものです。

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2019-09-17 06:32:10 | 平川・外堀2

 日本橋との分岐点から、弾正橋先で京橋川、八丁堀、三十間堀と連絡するまで、楓川の延長はおよそ1.2km、幅は「東京府志料」によるとおよそ18間(≒32.7m)でした。西岸には材木河岸があり、「江戸図屏風」では材木が積み上げられ、当時の木場の様相を呈していますが、のちには材木のみならず諸国の物産が陸揚げされました。また、新肴場(新場)と呼ばれる魚市場もあり、日本橋魚河岸に対して、そう呼ばれたものです。

 

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    ・ 首都高都心環状線  新場橋から次の久安橋にかけてです。ここから先の首都高は埋立てられた楓川を利用しており、楓川の橋もそのまま転用されています。

 明治に入り、武家地だった東岸にも楓川河岸ができ、震災復興では拡幅、整備されるなど、なお物流の中心にありましたが、陸運による貨物輸送への転換に伴い、その役割を終えることになります。東京オリンピック開催に合わせて、高速道路建設のため埋立てられたのは、こうした物流手段の転換のシンボリックな出来事といえます。昭和35年から埋立てが開始され、30年代末には完了、水路としての楓川は消滅しました。

 

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    ・  久安橋  明治に入り、越中橋を改名したものです。震災復興で八重洲通りが開通した際、元の位置よりやや上流に移されました。

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    ・  八重洲通り  久安橋越しに東京駅八重洲口方向を見ています。 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)に描かれた、外堀と楓川を結ぶ堀川のあったところです 

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2019-09-14 06:05:00 | 平川・外堀2

 → 「江戸名所図会」の左下隅で、日本橋川から分岐しているのが楓川です。→ 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)から明らかなように、江戸前島の東岸にあたり、慶長8年(1603年)の豊島洲崎造成時の海岸線と目されています。慶長17年、江戸城石垣用の巨大石材を陸揚げするため、櫛の歯状の舟入堀を開削しますが、その残土をもって八丁堀地区を造成、その際楓川の幅を埋め残したとの推測もあります。なお、楓川の名前は明治に入ってからのもので、江戸時代には単に堀、堀川と呼ばれていました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、ほとんどが中央区です。

 「武州豊島郡江戸庄図」に描かれた楓川の橋は三本で、上流から高橋、下つけ橋、三十間堀などとの合流地点手前に架かる無名橋です。これらは後に海賊橋、越中橋、弾正橋と名が変わりますが、いずれも東岸にあった武家屋敷の主にちなんでいます。「寛文図」(寛文10年 1670年)の時代になると、二本加わり、のちの新場橋と松幡橋です。新場は新しい魚市場の意の新肴場の略、松幡は両岸にあった松屋町と因幡町の合成で、こちらは町人由来をうかがわせるネーミングです。これに、明治に入り兜橋、千代田橋、震災復興で宝橋が加わり、合計八本となりました。

 

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    ・ 兜橋跡  日本橋川から分岐するところで、高架の都心環状線も日本橋川上からシフトします。右下の茂みは→ 兜神社、ここには兜橋が架かっていましたが、明治に入ってからの架橋です。

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    ・ 海運橋親柱  海運橋は明治初年の改名で、「寛永江戸図」当時は高橋、のち海賊橋と呼ばれました。「昔海賊の事を奉行せし向井将監の屋敷ありしよりの名なり。よりて将監橋とも呼べり」(「御府内備考」) 

江戸橋

2019-09-13 06:28:35 | 平川・外堀2

 「江戸橋 日本橋より東の方。本船町と木材木町の間に架する。『江戸鹿子』に、日本橋に相続て江戸橋の称ありしならんといふ」(「御府内備考」) 架橋の時期は不明ですが、 → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)には描かれています。ただ、バージョンによって有無が異なり、寛永8年頃の創架との説の根拠となっています。なお、現在の橋は昭和2年(1927年)に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和通りが開設された際、架け替えられたものです。元の場所から50mほど上流にズレ、日本橋との間は200mほどとなっています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 四日市」  「江戸橋と日本橋の間、川より南の方の大路を云。昔は四日市場といいし」   

 四日市は家康の入国当時、小田原の町人が移住し、毎月4日に市をたてたのが由来いわれています。明暦3年(1657年)の大火後、商家は霊厳島に移り新四日市町を起立したため、元四日市町となりました。町屋移転後の川沿いには高さ四間、東西二丁半に及ぶ土手倉を設け、防火壁としましたが、その後も様々な市が立ち変わらず繁盛の地となっていました。「今も其遺風にて、草物又は野菜の類ひ、乾魚などの市ありて、繁盛の地なり」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 江戸橋  昭和通りに架かる江戸橋南詰陸橋からのショットです。橋の左手には首都高江戸橋出入り口が見えています。

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    ・ 江戸橋  首都高が右カーブするあたりが、本来の江戸橋の位置で、その足元から左右に分岐する堀川がありました。

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2019-09-12 06:59:25 | 平川・外堀2

 家康の江戸入国当初、江戸の町の中心は本町通りにありました。常盤橋門から浅草橋門のルートで、現在の江戸通りの南側を並行する通りにあたります。特に常盤橋門前には本町(1~4丁目)が割り当てられ、奈良屋、樽屋、喜多村の町年寄が役宅を構えていました。それが、慶長8年(1603年)の町割りによって、江戸前島の背にあたる通町筋(中央通り)を中心に、通町(1~4丁目)、南伝馬町(1~3丁目)などの新たな町屋が成立します。日本橋はこうした新旧二つの江戸町の中心を繋ぐ、シンボル的な役割を担う橋でした。

 

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    ・ 日本橋  現在の橋の完成は明治44年(1911年)で、(記録に残っている限り)二十代目にして初めての石橋です。平成11年には国の重要文化財に指定されました。

 さらに翌慶長9年には、日本全国を繋ぐシンボルともなります。「然るに武州は凡日本東西の中国にあたれりと御定有て、江城日本橋を一里塚のもとゝ定め、三拾六町を道一里につもり、是より東のはて西のはて五畿七道のこる所なく一里塚をつかせ給ふ。・・・・日本国中民間往来の便りにそなえ給ふ事慶長九年也」(「慶長見聞集」一里塚つき給ふ事) のち順次開設された東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道の五街道は、いずれもこの日本橋を起点としています。

 

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    ・ 日本橋  橋の中央に日本国道路元標がはめ込まれています。北詰西の元標の広場にあるのは、その → レプリカで、背後に写る東京市道路元標は、昭和47年(1672年)まで橋中央にありました。 

 <日本橋魚河岸>  日本橋から江戸橋にかけての日本橋川北岸沿いには、魚河岸がありました。江戸の初期に、佃島の漁師が幕府や諸大名に献上した魚介類の残りを売り出した事に始まります。一日千両の取引があるといわれるほどの、江戸で最も活況のある場所の一つでした。明治期にも引き継がれ、同30年代には周辺の問屋およそ500戸を数えましたが、衛生、交通上の要請から移転が度々論議されます。そして、関東大震災による壊滅的な損害を契機に築地へと移転、昭和10年(1935年)に同地に中央卸売市場が開設され、平成30年に豊洲市場に移転するまで首都東京の食の中心として機能しました。 

 


日本橋

2019-09-11 06:26:07 | 平川・外堀2

 「見しは今、江戸町東西南北に堀川ありて橋も多し。其数を知らす。扨又、御城大手の堀を流れて落る大河一筋あり。此川町中を流れて南の海へ落る。此川に日本橋只一筋かゝる。是は往復の橋なり。町中ゆきかひの人此橋一つに集りて往来なせり。・・・・件の日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時分、新規に出来たり。その後此橋再興は元和四戊午の年なり。大川なりとて川中へ両方より石垣をつき出しかけ給ふ。敷板のうへ三十七間四尺五寸、広四間二尺五寸なり。此橋におゐては昼夜二六時中諸人群をなしくびすをついて往還たゆる事なし」 

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 江戸東南の市街より内海を望む図」  図中楓川以西が江戸前島、以東が慶長8年以降造成された、いわゆる豊島の洲崎です。(記入した名称中、括弧付きは元図にはありません。)  

 「慶長見聞集」の「日本橋、市をなす事」の一節で、日本橋の創架を慶長8年(1603年)とする根拠として、たびたび引用されるところです。以来度々の類焼、掛け替えを繰り返しましたが、その規模は「長凡二十八間」(「江戸名所図会」 同図の日本橋は→ こちら)で推移しています。明治5年(1872年)の最後の木造橋は「長二十九間幅七間」(「東京府志料」)でしたが、同44年には石造二連アーチ橋(長さ49メートル、幅27メートル)が完成、これが現在に至るもので、通算20代目といわれています。

 

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    ・ 日本橋川  一石橋から日本橋方向で、高架の首都高と共に左カーブで東に向きを変えたところです。ここから、日本橋川のウォーク&ウォッチを再開、二百数十メートルで日本橋です。

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    ・ 日本橋川  一石橋と日本橋の間にある西河岸橋からのショットで、正面に石造二連アーチの日本橋が見えます。西河岸は「図会」にもあるように江戸時代からの地名ですが、橋は大正末に架けられました。

豊島須崎

2019-09-10 06:27:19 | 平川・外堀2

 新しいクール、平川・外堀2で、一石橋以降の日本橋川が対象です。「見しは昔、当君武州豊島の郡江戸へ御打入よりこの方町繁盛す。しかれとも地形の広からす。是に依て豊島の洲崎に町を建んと仰有りて、慶長八卯の年日本六拾余州の人歩をよせ、神田山を引くずし、南方の海を四方三拾四町余うめさせ陸地となし、其上に在家を立給ふ。・・・・此町の外家居つゝき広大なること、南は品川、西はたやすの原、北は神田の原、東は浅草迄町つゝきたり」 「慶長見聞集」の「南海をむめ江戸町建給ふ事」の一節です。豊島の洲崎というのは、江戸前島の東にあった江戸湊内の洲で、おそらく古石神井川によって形成されたものです。この埋め立て工事によって、浜町や八丁堀等の地域が造成され、それに伴い、日本橋川の河口も東にシフトしたものと思われます。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 平川・外堀2」(1/18000) 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)の堀川と海岸線をブルーで重ねましたが、周辺部ほど変形の割合は大きくなっています。(記入した名称中括弧付きは元図にはありません。) 

 中央の細長い微高地が江戸前島で、その東海岸が慶長8年(1603年)当時の、江戸南東部のフロンティアラインでした。それが30年間で、東に1kmほど移動し、浜町、箱崎、八丁堀、霊岸島は造成されましたが、築地はまだありません。箱崎と霊岸島に挟まれた「新堀」に注目で、現在の日本橋川河口付近は、この時期に新たに開削されたものと推測できます。「寛永図」で何といっても目につくのは、江戸前島に櫛の歯状に刻まれた何本もの堀(舟入堀)です。海に桟橋を突き出すのと同じ機能を持っており、慶長17年に、江戸城石垣用の巨大な石材を陸揚げするため開削されました。江戸湊から八丁堀、楓川を経由するルートも、この時に整備されたものと思われます。なお、寛永末とされる「寛永江戸全図」では、各堀の長さが半減しており、中央のものも西半分がなくなり、途中の橋(中橋)も失われています。

 

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    ・ 江戸湊  正面が佃大橋、右手が亀島川河口で、錨を模した江戸湊の記念碑が立っています。「江戸庄図」当時、舟手奉行向井将監の拝領地である「将監番所」がありました。

 <「武州豊島郡江戸庄図」>  寛永年間(1624~1643年)に発行された江戸最初の木版図で、若干の訂正を加えて年号を変え、寛永5年以降数版が出版されています。さらに後年の復刻版や手書き模写もあり、さまざまなバリエーションが現存しています。たとえば江戸橋の有無はその最たるもので、その創架を寛永8年頃とする根拠の一つとなっています。いずれにしても、二つの「慶長江戸図」が江戸城内曲輪に範囲を限定しているのに対し、造成された市街地にまで及んでいるのが特徴で、江戸東南の市街地の拡大過程を読み取る上で、欠かすことのできないものです。ここでは、寛政2年(1790年)に近藤重蔵が写した寛永9年版によっています。