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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

楓川

2019-09-14 06:05:00 | 平川・外堀2

 → 「江戸名所図会」の左下隅で、日本橋川から分岐しているのが楓川です。→ 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)から明らかなように、江戸前島の東岸にあたり、慶長8年(1603年)の豊島洲崎造成時の海岸線と目されています。慶長17年、江戸城石垣用の巨大石材を陸揚げするため、櫛の歯状の舟入堀を開削しますが、その残土をもって八丁堀地区を造成、その際楓川の幅を埋め残したとの推測もあります。なお、楓川の名前は明治に入ってからのもので、江戸時代には単に堀、堀川と呼ばれていました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、ほとんどが中央区です。

 「武州豊島郡江戸庄図」に描かれた楓川の橋は三本で、上流から高橋、下つけ橋、三十間堀などとの合流地点手前に架かる無名橋です。これらは後に海賊橋、越中橋、弾正橋と名が変わりますが、いずれも東岸にあった武家屋敷の主にちなんでいます。「寛文図」(寛文10年 1670年)の時代になると、二本加わり、のちの新場橋と松幡橋です。新場は新しい魚市場の意の新肴場の略、松幡は両岸にあった松屋町と因幡町の合成で、こちらは町人由来をうかがわせるネーミングです。これに、明治に入り兜橋、千代田橋、震災復興で宝橋が加わり、合計八本となりました。

 

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    ・ 兜橋跡  日本橋川から分岐するところで、高架の都心環状線も日本橋川上からシフトします。右下の茂みは→ 兜神社、ここには兜橋が架かっていましたが、明治に入ってからの架橋です。

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    ・ 海運橋親柱  海運橋は明治初年の改名で、「寛永江戸図」当時は高橋、のち海賊橋と呼ばれました。「昔海賊の事を奉行せし向井将監の屋敷ありしよりの名なり。よりて将監橋とも呼べり」(「御府内備考」)