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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

京橋川

2019-09-20 08:20:23 | 平川・外堀2

 京橋川は外堀(外濠川)から北紺屋町、南紺屋町の間で分岐、東流して三ッ橋で楓川、八丁堀、三十間堀と合流する堀川です。延長は600mに満たないごく短いもので、幅は「東京府志料」の数字で10~14間(≒18.2~25.4m)ありました。途中通町筋(中央通り)との交差点に架かる橋名から、明治に入り京橋川と命名されましたが、江戸時代、特定の名前はなかったようです。開削年代も正確なところは不明ですが、日本橋、京橋、そして中橋の順で架橋されたのでしょうから、慶長8年(1603年)の豊島洲崎造成と同時期か、遅くとも同17年の舟入堀開削までと思われます。

 

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    ・ 京橋  手前の親柱は明治8年(1675年)に、石造りのアーチ橋となった当時のもので、反対側には大正11年(1922年)の → 親柱も保存されています。 

 京橋については「御府内備考」が、「日本橋通り南伝馬町と銀座町との間にあり。欄干葱花子(ぎぼし)銘に、正徳元年(1712年)卯年六月吉日鋳物師田中丹波守重正と刻す。白石『紳書』云、むかしは芝口の町も京橋辺までにて、それよりこなたは後に出来しなり。さるによりて京橋辺の町の名、今も大阪町、住吉町などいふあり。これはその所に傾城町などありしよしといふ」と書いています。豊島洲崎造成時、京橋、京橋川が江戸町の南限だったのでしょう。なお、京橋の規模は「東京府志料」によると、「長十四間三尺幅四間二尺」です。

 

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    ・ 京橋川跡   外堀(外濠川)に連続するところです。この手前に比丘尼橋が架かっていました。なお、京橋川には江戸時代5本の橋が架かっていました。

 京橋川は終戦直後まで存在しましたが、戦後の復興事業の一環として外堀、京橋川、汐留川を埋め立て、跡地にビルを建てその上に道路を作るという計画が持ち上がります。埋め立ては昭和29年(1954年)に開始され、桜川(八丁堀)、楓川と同じく同34年までに完了しました。跡地に開通したのが東京高速道路で、首都高と連絡していますが、それとは別の民間の運営です。ビルのテナント料によって維持、管理されており、通行料は無料となっています。