「滝野川村水口内法五寸四方 此水口より平尾村に相懸り申候」 「東京市史稿上水編」が「千川上水給水区域」として引用している「千川家文書」の記載です。ここでの記載は一口ですが、寛政6年の「星野家文書」では「滝の川村四寸四方弐口」、元治元年の「取調絵図」では、上、中、下の三口で、いずれも4寸四方です。ただ、「右村之義流末ニ付、夏分ニ至リ候ては用水行届不申候ニ付、田地荒地に相成リ候」「瀧の川儀茂矢張田耕地無之候」(「千川家文書」)とあるように、滝野川村(及びより流末にある巣鴨村)の場合は、千川用水の恩恵大とはいえませんでした。明治10年の「星野家文書」では、字三軒家口の1寸四方のみで、依存する水田はわずか5反歩(村全体で6町歩余)と、関係組合村中最も低い数字になっています。このように低い依存度に加え、改修、暗渠化が早く行われたこともあり、滝野川村分水に関する文献は少なく、残された痕跡はありません。
- ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、一度UPしていますが、今回は旧川越街道と千川上水の交点(平尾橋)を中心に、半径450mほどの半円を重ねました。
半径450mの根拠は、例によって「千川素堀筋普請所積見分」です。同見分は滝野川村に入ってから、三口の分水口を記していますが、その最初のものが平尾橋から合計で244間(≒444m)のところにありました。明治の水路変更以前の平尾橋の位置や、そこからの蛇行の様子など、不明な点はそれとして、大雑把に現在の地図に当てはめると、前回の板橋一丁目児童遊園から100mほどの、旧中山道と千川上水が最も接近している個所のやや手前となります。明治44年(1911年)に東京逓信管理局が刊行した業務用地図、いわゆる「郵便地図」には、ほぼ同じ位置から谷端川に向かう水路が描かれており、あるいは滝野川村分水の名残なのかもしれません。なお、前回UPの→ 「千川上水使用権利詳細平面図」にも、「滝ノ川村分水元樋口」が描かれており、この傍証になるかもしれませんが、ただ火薬製造所分水のやや上流にあり、位置関係には疑問符が付くところです。
- ・ 千川上水跡 板橋一丁目児童遊園前からツーブロック、100mほどのところです。正面奥で右カーブしていますが、その先で旧中山道と最も接近します。