前回、上水利用停止時の巣鴨村分水は、独自の分水口を持たず、流末をかけ流していたのではと推測しましたが、いずれにしても、この時期の千川用水の恩恵は少なく、幕末近くには「巣鴨村者矢張用水相掛り兼候ニ付、田耕地更ニ無之候」「用水行届兼其後仕付荒ニ相成候」(「千川家文書」)という状態で、水料米もおさめていませんでした。事態が一変したのは、幕末の滝野川大砲製造所プロジェクトで、この時、独立した「四寸四方長六尺」の分水口(→ 「元治元年取調絵図」)が復活しました。明治に入り王子分水を利用する抄紙会社(のちの王子製紙)が操業を開始、巣鴨村分水は「字本村口幅壱寸四分高壱寸四分五厘」(明治10年「星野家文書」)と縮小しましたが、それでも、流末までの水行が確保され、(村全体で7町5反中)1町歩の水田を灌漑することができました。ただ、それも長続きせず、明治13年(1880年)の千川水道会社の設立以降、巣鴨村分水の役割はフェイドアウトします。同17年頃の「千川上水路図」からは消え、「千川上水使用権利詳細平面図」では「元樋口九合九勺」となっています。なお、1寸四方を1坪とするので、最後の樋口は1寸四方以下だったことになります。
- ・ 「千川上水使用権利詳細平面図」(部分) 豊島区教育委員会「千川上水展」に掲載された、明治38年頃とされる平面図(紙の博物館所蔵)を元に、その一部をイラスト化しました。火薬製造所分水のところでUPした→ イラストと連続するものです。
- ・ 千川上水跡 明治通りを越え、旧巣鴨村に入ります。村境には土橋が架かり、「東京府志料」当時は板橋(「仁王塚橋長七間五尺幅一間」)でした。なお、左手に→ 千川上水分配堰碑が見え、右手奥の茂みは千川水道の沈殿池のあった千川上水公園です。
- ・ 明治通り およそ300m先を横切る谷端川の谷筋に向かってのショットです。なお、明治末の「郵便地図」では、村境手前で分岐した水路が村境沿いを谷端川に向っており、あるいは巣鴨村分水の名残かもしれません。
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