いよいよ書く話題が尽きてきました。
明日は何を綴ればいいのか、と考え込むことが最近はよくあります。
こういう時は思い出話に注目し、それを話題にした記事を綴ればいいのかもしれません。
但し意外と難しい。
文章に勢いが出ない。
書く前からうまくまとめられるかしら、と変な不安が付きまといます。
記憶も定かでないですし。
思い出話と言えば、明日は東日本大震災の十周年に当たります。
この思い出は余りにその時のショックが大きすぎるためか、触れるのさえ今はためらわれます。
安穏な暮らしに甘んじてきた私のようなものが、いかにその思いを綴っても・・・。
とても当事者の気持ちを理解するには遠く及ばない。
そんな虚しさと申し訳なさを感じてしまいます。
明日は何も触れないで、被災者の方々のその後のご苦労を思い、亡くなられた方達のご冥福をひたすら祈る。
そんな日にしたい。
そう思っていますが、どうなるでしょう。
私は文章苦手意識は相変わらずなので、ブログ綴りには多少のストレスがいつも付きまとっています。
ストレスを感じてまでブログを更新する意味や、意義があるのだろうかと、自問自答することはしょっちゅう。
思い切ってやめてしまったらどんなに気楽で、日々の暮らしにも、もっともっと余裕が生まれる。
そう思うのだけれど、そうする勇気が湧きません。
一番心配なのは、やめた途端、頭の老化が一気に進む事。
認知症予防に、文章を書く作業程、効果があるものが他にあるでしょうか。
私の母はとても器用な人でした。
能力も高かったのでしょう。
その上、努力家。
色々なお稽古ごとに励み、浅く広くではなく、習い始めるととことん極めていました。
そして、どれも上級の腕前に。
お習字、短歌、編み物、茶道、華道、日本舞踊等。
その娘ですのに、私はどうしてこんなに不器用なのでしょうか。
孫たちのために編んでくれたセーター等
70歳前後から認知症の症状が現れ始め、亡くなる前はかなりひどくなっていましたが。
母の言動は終始、まるで童女に返ったような可愛らしさでした。
まだ自宅で暮らしている頃、お稽古で唯一最後まで母が頑張っていたのがお習字。
奥の和室で、畳半畳分くらいある大きな和紙に、黙々と筆を運んでいた母の姿を今でも懐かしく想い出します。
その事を振り返り、とても残念に思う事があります。
短歌のお稽古を母が止めてしまった事。
もし短歌を詠む日々であったなら、認知症の進行を遅らせることができたのでは、と。
言葉を紡ぐ作業は、頭をとても使わないと成り立たないでしょうから
短歌より、ブログ綴りはもっと頭を使う作業かもしれませんね。
自分の思いを言葉にして、一つの文を完成するのは、私は結構大変。
もうそろそろ限界かと思う事がしょっちゅうです。
記事を完成すると、私は結構疲れます。
書き終わると、数十分の二度寝をすることもよくあります。
疲れるほど頑張っても、皆様周知のように、恥ずかしい拙文。
こんなにまでして、ブログを綴る意味は何なのでしょうか。
脳の老化予防のため。
日々気持ちを整理、鼓舞して、前向き志向で良き日々を送るため。
そういっていいのかもしれません
いつまでブログ更新が続けられるか、なんとも心もとないけれど、もう少し頑張りましょう。
アマゾンのお買い物はこの窓口を利用していただけると大変嬉しいです。
よろしくお願いします。
拙いブログをお読み下さいまして、本当にありがとうございました。
下のバナーに足跡代わりに、ポチッのクリックをいただけると、書く励みになり、とてもとても嬉しいです。