小説でさえ或る教義を隠しつつその浸透を図るために書かれ得るとすれば、つまりは小説は何を書いてもよいということになるのだろうか。人の心に訴えることができる、できないは、ひとえに小説家生来の才能の有る無しに帰結することであり、頭でたくらんで用いられる文飾、情調の効果は、魂を刺し貫く本然の言葉のずっと後方に控える枝葉の一つ、二つに過ぎない。
何らかの主義、主張を世に具現するための助けとなる小説、思想・党派の光被を真の目的とする小説は繰り返し生れて来もし、廃れて行きもした。そして、含まれた意図の表出に濃淡の差はあれ、尊い善導の言いぐさや琴線を震わす美譚を散りばめた小説もまた、いわゆる小説の一類型として成り立つとするのであれば、小説家という存在は、多彩な才能を元本にして、より有利な利回り、役回りをもたらすような話材、テーマを逸早く見つけ出し、そこへ全元本(才能)を叩き込んで極大の果実を獲得する投資家、起業家であるとするのは極めて適正な認識ということになる。
仮にこうした小説家がありとして、苦悩がどうの、含羞がどうのとあげつらってみたところで、鎧袖一触、実践練磨の返り討ちに会うこと必定である。ものを書く絶倫に恵まれ、人に優る大粒な感涙の惹起に長けた小説家、娯楽としてのみならず、生き方の道標、泣き方の作法、死に方の美学を語って、万人に耳傾けさせる算段を縦横無礙に使いこなす小説家にむかっては、既往ありきたりな狼疾の小説家像を引合いに出したり、あるいは早熟、夭折といった月並みを列挙したりしたところで、憫笑されるか黙殺されるのが関の山である。最初からそれが分かっているからこそ、かりそめにもそんなことをする者は誰もいない。ただ、呆然として、世に持て囃される天分だか気性だかの塊を遠巻きに眺めるしかほかに手はないのだ。