美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

あらゆる健やかな本能の標示に向かっては非常に鋭敏でありたい(ニーチェ)

2021年07月18日 | 瓶詰の古本

 ――どうして私がこんな些細な、しかも従来の判断に従へばどうでもいゝやうな事柄について物語つたのだらうか、と人々は尋ねることであらう。若しも私に大きな問題を指示する任務があるとすれば、好んでかういふことをするといふことは、私自らを毒するものに違ひない。そこで私は答へる、かうした些細な問題――食料とか風土とか休養法とか自利とかの全ての細説――は、曾て重用だと思惟された全ての事柄以上に、到底考へを廻らすことの出来なかつたほど重大なそれであると。必ず人はかういふことをば先づその第一の仕事として、それから新しく修養のやり直しをしなければならないものである。人々がこれまで首を捻つて考へたものは、決して実在のものではないのである。それは只想像に過きないことであつて、厳密に言ふならば、病的な、さうして深い意味では有害な性質の人の悪い本能が醸したところの嘘偽に過ぎないのである。――「神」とか「霊」とか「道徳」とか「罪悪」とか「彼岸」とか「真理」とか「永遠の生命」とか言つたやうな全ての観念がこれである さうして人々は人間性の偉大とか、その「親聖」をば、かうした事柄のうちに求めた……。政治とか社会の秩序とか全ての教育問題は、根本的に一番有害な人間をば偉大な人間と認めたために――事実は人生の基本的な問題である「些細な」事柄を軽視することを教へたために、嘘偽化されてしまつた。今までに第一流の人物として敬はれた人間と私とを対照して見ると、その区別はまことに歴然としたものがある。かうした所謂「第一流」といふものを私はてんで人間の数には入れないのだ――私から見るなら、彼等は人間の排出物である。病患や復讐心に富んだ本能の産出である。彼等はまるでつまらない、根治することの出来ない、人類に仇をする怪物なのだ……。私はその反対でありたい。あらゆる健やかな本能の標示に向つては非常に鋭敏だといふところに私の特権はあるのだ。私にはどんな病的な痕跡もないのである。私は重い病気の時にさへも病的にはならなかつた。私の本質といふものから狂熱の跡を見ようとしてもそれは駄目だ。私の生活のどんな瞬間からも、人はどんな高慢な或はどんな感傷的な態度をも見出すことは出来ない。態度の悲痛は偉大の理由ではない。すべてに態度といふものを考へのうちに入れなければならない人は嘘である……。すべての絵模様風な人間を警戒しなければならない。

(「この人を見よ 」 ニイチエ著 三井信衛譯)

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