か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

不人気な李承晩シリーズもここらで一休み

2011年12月29日 | 韓国

じつに人気がなかったなあ。

かくも深き李承晩の罪よ。と思うのだがなあ。ラーメンとペットとオフ会が大事なんでしょ。

当然のことだが現代戦が兵力だけでかたが付くと考えるのはそう急だ。戦前、戦中においていろんなチャンネルでの交渉が必須だ。

ベトナム戦争を見よ。パリ会談での北ベトナムの交渉力はアメリカをはるかに凌駕していた。世界世論はみんな北ベトナムのファンになった。

日本人よ、ここまで馬鹿だと実戦の前に負けるぞ。自衛隊や武器マニアはご自慢の武器を披露なさるが世界情勢を軍事力学的にしか見ることのできない奇形児が出しゃばったとき日本にはろくなことはおこらなかった。

終戦直後の朝鮮半島においては優れた思想家たちがまさに百花繚乱の状態であった。李承晩は世界情勢を共産主義と資本主義の対立としてしか見る能力を持たなかった。自分勝手な極端な二分法のやり方でこれら多くの思想家たち、ひどい時には自由主義者を犠牲にした。自分がCold Warの最先端にいて代理戦争をしていることをむしろ誇っていた。バカはどこにもいる。

さて、「赤」は殺せと叫んで邁進する指導者を非難するなら、軍事力学的に見て勝てるぞ勝てるぞと邁進する輩も同様にお粗末だ。

テレビだからちょっとエンターテインメント風の発言したのだろうが、ええいめんどくさい、竹島を軍事力で奪還せよ、という発言がだんだん市民権を持ってきている風潮がいやだ。

その教養のなさ、下品さ、あとのことを考えない頭の悪さ。

まだ外交チャンネルは数百ある。第三国や国連、国際司法裁判所などの国際機関は全くといっていいほど使ってない。

すぐ万策尽きたと思うのはやめましょう。

ミョウガが採れた。


洋服を脱いだにわ鳥はどこですか?

2011年12月29日 | 韓国
あまりにも似たテーマで二つの冗句を聞いた。
ある男が客人が来たので鶏を絞めて客人といっしょにその肉を食おうと考えた。ようやく羽を抜いて締めようと思った瞬間、ニワトリは逃げ出してしまった。洋服を脱いだニワトリと人間に追っかけっこが始まった

ここまでは二つの話の内容は同一だ。ところが、

その男が朝鮮人である場合。日本語たどたどしいので叫ぶ言葉が変になる。

「ヨウフクヲヌイダニワトリハドコデスカ」

あわてまくる朝鮮人の醜態はさぞ笑いものになったことだろう。


もうひとつ

その男が日本人である場合。何十年住んでも朝鮮人ほどの語学力はないのが普通だ。

「ヨウフクヲヌイダニワトリハドコデスカ」

普段は威張りくさっていてもどうだこの醜態は、と朝鮮人達の笑いのネタになっただろう。


今やどちらが真実かは分からない。分かるのは権力が冗句まで統制していたということだけだ。


私たちは勝ったのですか?

2011年12月29日 | 韓国

僕の旅行は飛行機の都合でソウル経由になった。南大門で時間を潰しているとかなりご高齢の老人と気があって、茶房(ターバン)で話し込んだ。いつもながら立派な日本語に恐れ入る。

冷たい吹雪の夕方に私は彼と出会った。かなり高齢の彼は言った。「私は少年飛行兵でした。」
彼の話は、細かいメカ、飛行特性、とくにオイル漏れには泣かされたという話などは真実身にあふれていた。宙返りしたらオイルでキャノピーが見えなくなり危うかったことなど。

嘘をついてはいけない。事実ではあったのかもしれない。エンジン調整の困難さ、オイル漏れ・・・しかしあなたの事実であったとはいえない。

かなり教養を積んだであろうご老人にでも大日本帝国の残したものは価値を持ちつづけたのだ。次のように言いたいのが悲しいほどありありを見え透けた。

「兵なんかではない、私はパイロットだ。ましてや軍属なんぞではなく帝国陸軍兵だ。」

今も僕を悩ませるが、僕は、はいはいとうなづいていればよかったのかな。

彼は、「ここらで正直に言いましょう、・・・」と、自分が整備兵だと認めた。

しかし、それも嘘だ。トップクラスの軍事機密たる戦闘機の整備を安易に半島出身者に任せるはずはなかった。

年をとればとるほど人は自己の生存理由に脚色したがる。ほどなく太陽の帝国は瓦解する。8月15日は晴れ。半島では負けてくやし泣きをする子供がいると思えば万歳を叫ぶ人がいた。

「からけんさん、私達は本当に勝ったのですか。」

彼のなかで、最高に脚色された飛燕が日本人旅行者をとらえ飛び続けることだろう。



終戦記念日。さて今度はなにを謝るの?

2011年12月29日 | 東洋歴史

さ、毎年やってくる「終戦」記念日だ。大敗北だったのに終戦とは能天気な言い方だ。あたかも勝手に終わっちゃったという乗りだ。

おお負けに負けておきながら往生際の悪い言い方だ。敗戦記念日という以外にあります?

戦争は数字だ。精神力は日露戦争までだ。国力の開きを見ろ。GNP(国内総生産)でアメリカは日本の12倍、石油精製能力で721倍あった。

スターリンがいみじくも言っている。戦争の勝敗は単位時間あたり敵の単位面積に鉄をぶち込む量の大小で決まる。その鉄の生産力がアメリカは日本の17倍だった。

何よりも決定的だったのは戦費の問題だ。いずれ米国との対立が不可避と見た日本政府は戦費の積み立てを始める。先見の明があったというか脅えていたというかなんと日清戦争直後からその積み立てを始める。現在の貨幣価値に直して300兆円だ。一部は偽札を使い中国大陸から富を奪取したり麻薬販売で稼いだりするカネが含まれているがおおよそこの金額だ。

国のかじ取りさえまともで大衆迎合の政治でなかったならば、300兆円で生産関連も生活関連もどれほど多くの社会資本が整備されたことであろう。

大人と赤ちゃんが本気で殺し合いをするような戦争に、赤ちゃん帝国は勝つといった。そんな馬鹿なことはなく大敗北だ。だったら国民に謝れ。

敗戦責任をとれ。

ニュールンベルク裁判で謝罪を強要されたドイツ帝国の将軍はいった。

謝れ謝れ、とうるさい。なぜ私が貴様ら連合軍に謝らないといけないのか。私が負けたからドイツ国民に多大な被害を与えてしまった。だから私が謝る相手はドイツ国民であり敵の連合軍に謝ったりしない。

数字はNHKさかのぼり日本史から引用しました。


日の丸アワーとVOA(Voice of America)の大人の戦い

2011年12月29日 | 東洋歴史

戦時中日本の対米謀略放送は日の丸アワーと呼ばれ短波で遠く北米大陸に達した。VOAは当初米本国から放送されていたが占領地域の拡大とともにより日本に近いところから放送するようになった。

VOAは捕虜の声を伝え生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓がいかにまぼろしであるかを伝え厭戦気分を高めた。また日本兵の死体から日記などを探し出し戦死通報のいい加減さを暴いた。日本軍は防諜という点では全くの素人の集団でアメリカ兵は死んだ日本兵から多くの情報をえた。

日の丸アワー側は世界情勢の分析をアメリカに伝えることで米兵に勝ち目のないことを伝えた。しかし、開戦100日もすればもう勝敗は明白になった。

軽妙なジャズの合間に捕虜たちが故郷に送る手紙を読む。それを仕切るのはディスクジョッキーだ。ほとんどの日本人がその存在すら知らないディスクジョッキー。B29が爆撃に向かうその途中でさえ機内のスピーカーはVOAのジャズを流した。もはや戦いは終わっていた。彼らは作業に向かっていただけだ。

日の丸アワー側には役に立ちそうな捕虜ももう来なくなった。米兵からの情報価値はゼロと言っていい。死んだ米兵が日記をつけているはずない。敵に戦闘詳報を提供するバカは日本兵だけだ。TOKYOローズがアナウンスするとき、米兵たちはそのなめらかで悩ましい声にむしろ戦意を高揚させた。

短波送信塔から出される電波は敵の妨害電波に負けじとその出力を最高にした。近所の短波ラジオを持つ家庭からはスィッチをいれなくてもラジオが鳴ったと駐在に駆け込んだものもいたほどだ。虫歯からも、井戸からも日の丸アワーは聞こえた。

材料に事欠くようになった日の丸アワー側は全国から学者を集め情勢の分析にかかった。この中には体制側からは決して好ましく思われていない学者も含まれた。ゴマすりはもういらないのだ。戦局の真実がほしいのだ。彼らが分析した世界情勢は見事に冷戦下の対立状況を言い当てていた。のみならず朝鮮中国での内戦が激化しそのことはソ連に有利に働くことまで述べていた。

ただ一つ、ただ一つ、日の丸アワーは失策をする。アメリカのルーズベルト大統領に対し「ちんば」と言ったのだ。ルーズベルトは小児まひの後遺症で車いすに乗っていた。

早速VOAから反応があった。本筋ではないところで人の障害を茶化すことをどうしてするのですか、あなたは自分が言われた時のことを考えなさい。という反応だった。まるで大人が子供を諭すような言い方に日の丸アワーの人たちは恥いった。日本人は教養のない罵りあいから卒業して久しいはずだ。

数日後、日の丸アワーは敵のVOAに謝罪した。


川南(かわなみ)造船所。風化し取壊され美化されるのか、人間魚雷。

2011年12月29日 | 東洋歴史

帝国海軍は開戦当時世界最高の魚雷を持っていた。破壊力、航続力、速度、雷跡、どれをとっても世界に比するものはなかった。

現代の技術をもってしても魚雷の速度は時速200キロが限度だ。当時我が国の魚雷は最高速で時速90キロだった。第一次大戦時の魚雷の速度は時速30キロ程度であるから長足の進歩を遂げている。

魚雷だから当然海中を進む。推進力はどうやって得たのだろう。なんと外径63センチの中にレシプロエンジンを搭載していたのだ。そしてわずかの消費された酸素の分だけタンクから供給するという方式をとった。これは恐ろしく長い航続力とほとんど見えない雷跡という二つの利点をもたらした。

そのわずかの排気は二重反転プロペラの軸を通って海中に消えた。直径63センチの円の中に時速100キロを出すエンジンを収めたのだ。地上ならわけもない。この63センチが問題だ。どの国も破壊力と工作性と推進力のはざまで悩んでいた。水の多様な抵抗は直径に比して加速度的に増大する。

帝国海軍はどの一点をとってもゆるぎなき世界最高の栄誉を獲得した。

40km先の敵を屠ることができたのだ。敵を恐怖のどん底にたたき落とした。40kmの彼方から水面下を時速100キロで近づいてくる槍に米軍は恐怖を越えて感嘆した。JAPはなんと多くのSUBMARINEを持っていたのか。いや、米軍がそう思っただけだ。わが潜水艦は一隻だった。槍が正確で長かったのだ。

しかし、帝国の夢はいつも短く残虐な結末になる。整備力、工作力が漸減するにつれこの酸素魚雷の活躍する場は消えた。

もはや戦局は、何でも言いから船をつくれ、という断末魔の様相を呈していた。戦時急造船だ。関連産業もない片田舎で艦載機の飛来に怯えつつ精神力だと鼓舞されていったいどんな船をつくれというのか。

何隻か人間魚雷を作ったようだ。なんと時速13キロメートル。自転車のようなスピードで敵艦に向かって行ったら米軍はきっと降伏に来たのかと思っただろう。動力は一応潜水艦だから蓄電池とディーゼルのハイブリッドだ。自転車に乗った少年を機関銃で撃ち殺す。だれでもできることだ。

死ぬかもしれないが戦えと言われたら戦うことなどわけもない。お前が死ぬと大勢が助かると言われたら僕にはいく勇気はない。この人間魚雷(海龍)は違う。なんの意味もなく犬死しろといっている。

海龍が造られた川南(かわなみ)造船所が取り壊しになることになった。その時の写真。


Panay incident

2011年12月29日 | 東洋歴史

自転車に乗って走りながら1メートルの高さから水平にピンを投げて地上の長さ1センチ幅1ミリの的に当てることを神技と言わずして何であろう。

職人技の粋を極めたと言ってよい。最新式の九六式艦上爆撃機ですら爆装は3個が限度だ。しかもたった12機で攻撃した。そのうち2発はパネー号に直撃し随伴する油槽船2隻も沈めた。

この九六艦爆はパネー号だけを狙ったのではない。当時南京は混乱の極みを呈し、長江には川を埋めんばかりに中国船がいた。無駄になった爆弾はほとんどない。艦爆隊の錬度の高さは世界最高だったに違いない。

逃走する兵は殺せという命令が出ていた。ほぼ南京を手中に収めた帝国陸軍は、敗残兵の処理をのこすのみであった。

もうひとつの命令。俘虜は殺せ。これが便衣に知れわたるや混乱は極値に達した。川岸まで殺されずにかろうじてたどりついた者も長江を渡る手段は限られていた。運のいい者は船をつかまえた。そしてさらに運のいい者はパネー号に乗った。

国民党の名誉のため言うが、正規兵の中には頑強に抵抗し孤立した中で機関銃を撃ちつづける者がいるにはいた。灼熱した銃身を素手で交換してはまた射撃を続けた。

ただ大部分は気が狂ったように逃走を図るか、ダメと見ると簡単に俘虜になった。想像をはるかに超えた俘虜を抱えた日本軍はその処置に困った。10000人の俘虜には毎日30000食が必要だ。将兵の糧秣にすらこと欠いていた日本軍は打つ手をなくす。戦争計画のずさんさ、あいまいさ、低能さ、愚かさ、しろうとぶりが露呈した。

それにひきかえパネー号に対する処置は早かった。大本営自ら陸海軍そろって弁明と謝罪と賠償に奔走した。アメリカの参戦の口実に十分なりうる事件だからだ。ここにも戦争指導部の低能ぶりがよくあらわれている。

アメリカは日本の釈明があろうとなかろうとやるときはやる。しかしこのときはアメリカの参戦は絶対にない。1823年以来のモンロー主義はまだアメリカに根強かった。戦争はヨーロッパのアホどもがやることだ。アメリカは戦争しないことで豊かになった。これらの考えが合衆国を支配していた。わずかな中国にあるアメリカ権益のためにアメリカの若者を死なせることはない、という意見が支配していた。

この動向すら分からずに謝ればなんとかなるだろうという下品な無定見をさらしたのが日本だ。

パネー号は砲艦だ。油槽艦すなわちタンカーを3隻ともなっていた。当然に中国空軍に提供されたであろう石油だ。その可能性のあるものは攻撃してよい。それが国際法だ。

情況を読まない。ただ強い者には弱い。弱い者には狂ったように強い。太平洋戦争に突入する前にすでにこの時点で太陽の帝国の欠陥は明らかだった。

 

 

 

 


どこかと似ているパンとサーカス

2011年12月29日 | 西洋歴史
Pax Romana (ローマの平和)としてローマが空前の安定と平和と支配力を備えるに至るまでには共和政ローマの崩壊した後の一世紀にわたる内乱の時期を経なければならなかった。キリストも生まれていない時期のことである。日本では吉野ヶ里で弥生人が稲作を始める数百年前だ。

今回はPax Romana の成立以前のローマ社会について述べる。紀元前のローマは共和制を敷いている。そこでの最高意思決定機関は元老院である。彼らは政治とともに軍事に深くかかわり戦争による略奪によってとてつもない富を築いていた。さらにはその富にものを言わせて没落した農民から土地を収奪した。その土地での労働は戦争捕虜たちに奴隷労働をさせることにより一時的にしのいだ。というのは奴隷はそのままでは増えないため奴隷の獲得が常に必要となり慢性的に奴隷不足を招いた。(latifundia)

土地をなくした農民はローマに流れ込んだ。この中でも比較的裕福なものは騎士(equites)の身分が与えられ上層市民となった。彼らは自由に地中海貿易に乗り出すこともでき属州の徴税、公共事業の監督などをしてイタリアに大所領を所有した。

一方、中小土地所有農民は没落した。彼らは兵士でもあったが武装が自前であったことや戦死、長い時期従軍することで家を開けることなどにより没落し無産市民になった。

格差社会の成立だ。

いくら無産市民とはいえ民会(このころは政治の実権は民会に移っていたが選挙で選出されることには変わりない)の投票権は持っていたから政治家たちは彼らに金品を与えたり競技、ショーを催して自分の支持者に取り込もうとした。

コロッセウムに入るとひとの胴体ほどもあるパンが観客席に投げ込まれた。下では剣闘士がライオンと戦っていた。図書館、風呂ほとんどの施設が無料化され政治家は票欲しさに財政を無視した。(パンとサーカス)

無産市民はこのことに味をしめ投票権を盾に過大な要求をするものがあらわれた。

当然に政治は派閥対立を招き閥族派(optimates)と平民派(populares)に分かれて対立した。閥族派は元老院を中心に伝統的権威を重んじる考え方で、平民派は平民の権利の拡大をめざそうとした。

今の政治とどこが違います。できもしないことを、票を獲得するためにカラ約束する平民派。パンとサーカスではいずれ財政赤字に陥ります。閥族派も大きなこと言っちゃあだめでしょ。貧乏人の弱みをよく知って、彼らのコンプレックスを利用し票をまきあげるのがお上手なこと。

ローマはこの時期1世紀ほど混乱したあと三頭政治を迎えます。共和制ローマは終わったのです。三頭の中からまず抜け出したのはユリウス=カエサル(Julius Caesar)でした。シーザーその人です。帝政ローマの時代が続きます。民衆は熱狂しましたが、それでいいですか、何が残りましたか。

宥和政策

2011年12月29日 | 西洋歴史

1935年アドルフ=ヒットラーは怯えと怒りと野望の中にいた。断じて行えば鬼神もこれを避くという心境か、ベルサイユ条約をほごにして再軍備を宣言した。英仏はヒットラードイツよりも何よりも戦争そのものに怯えていた。

ところがドイツにとってはベルサイユ条約下では絶望という戦争がまだ続いていたのだ。200億倍ものインフレ。すさむ人心。割譲された領土。ドイツにとって起死回生のチャンスは全くない。と、思われた。

ヒットラーは自信家ぶっているだけでこのときの気持ちを薄氷を踏む思いだったと回想している。ドイツを永久に奴隷に貶めるベルサイユ条約を拒否した。ドイツ国民がこれ以上絶望という屈辱に耐えねばならぬ理由はない。

しかし、英仏が恐怖と考えていたのはドイツの再来ではなく戦争の再来だ。英仏には2500万人が死んだ戦争はもうたくさんだという厭戦気分がしっかりと根付いていた。

ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain、英首相 )は独伊との開戦を何とか回避しようとミュンヘン会談に乗り込み悪魔の取り引きをする。

1938年、その会談でヒトラーがズデーテン地方(チェコスロバキアの要衝)を要求したことを受け、イギリスのチェンバレン首相は、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。

つまり、ファシズム諸国の領土的要求に譲歩することによって戦争を回避したのである。弱小国が割譲されて消滅するよりも戦争の被害が少ない方がましだったのだ。

会議はどうしても戦争を避けようという空気が強かったため、アジアでいえば日本の満州侵略に目をつむった。ドイツの小都市で開かれたヨーロッパ列強の虚々実々の駆け引きは国際世界を見渡していた。

彼自身、ナポレオンの後始末をしたウィーン会議のように列強間の協議によって紛争を解決しようという意識しか持ちあわせていなかった。

その結果何が待っていたか。たしかにチェンバレンは戦争を回避した政治家として全国民的英雄になった。一方でヒットラーは常にイギリスに対して開戦するぞと脅しをかけ、脅しが有効であることを実感していた。ヒットラーの手中にはまったチェンバレンはヒットラーが無傷でズデーテン地方を第三帝国内に収める事ができるように保証を与えたのと引き換えに、イギリスの安泰を図ったのだ。(ヒットラーのチェコ侵攻を黙認する代わりにヒットラーはイギリスを攻めない)

しかし、はなしはここでおわらない。ヒットラーは言った。これ以上の領土的野心はないと。チェンバレンはお人好しにもそれを信じ、第1次大戦の10倍の死者を出す第二次大戦を不可避にしてしまった。なぜならヒットラーの領土的野心は大日本帝国と同様とどまるところを知らなかったからだ。

かつての我が帝国の植民地が傲慢にも空母を作る時代になった。竹島問題みたいに無為無策ではすべてを失う。チェンバレンの宥和政策が如実にそれを示している。

学べ!宥和政策は敗北主義だ。日中友好も日韓友好も口に出した瞬間負けだ。


Acquedotti di Roma

2011年12月29日 | 西洋歴史
ローマの水道橋だ。ギリシャと違い愚にもつかぬものを大理石から掘り出して喜んでいた時代とはことなる。実用的だという言葉で片付けるにはあまりにもそう大過ぎた。

アウグストゥスの時代になると大規模なものがつくられ現在にも残っている。その精密さを想像できますか。イタリア人気質を漫然と見て歌ばかり歌うスケベの集団という印象が定着しているが、じゃあデトマソをみろ、ランボルギーニを見ろ。フェラーリしかり。トリノ、ミラノの工房をのぞいて職人気質と実力の高さに学べ。

とくに水道橋が作られたのは五賢帝の時代だ。五賢帝の一人ネルバは後継者問題に悩みつつも土木工事には精力的に取り組んだ。トラヤヌスはローマ帝国の版図を最大に広げ周辺属国どもの心肝さむからしめた。ハドリアヌスはハドリアヌスの壁で有名である。イギリスの北部まで進出し万里の長城まがいを築いた。

彼らはいずれも水道建設に熱心であった。彼らは危機感をもってこの工事にあたっていた。水が止まればローマは滅びる。彼らの予測は当たった。パックスロマーナは水道によって維持されていた。

建設された水道はイタリアだけで350キロメートルに及んだ。フランスではPont du Gard、50キロメートル。

すべて水の流れ落ちる勢いだけで動いている。1kmあたり34cm。これはなんという精密さだろう。CDにきざむレーザービームの精密さに匹敵する。しかもフランスはその水道橋を19世紀後半まで使った。イタリアにいたっては現在でも使っている。

現代のイタリア人にもその精密さは十分にある。子供のしつけもしないで夜中にファミレスに行く日本人の方が倫理的にはるかに劣る。ちょっと頭を使う問題にぶつかったとき、さっと変わるイタリア人の表情を見たことがあるか。

能天気に紅白や野球の心配ばかりしているあなた方とは違う。

こそこそ改良したエンジンを作ることはしなくても発想を根本から変えた革命を時々起こすからその基礎的素養に感心する。

自動車雑誌を見ていると買うような人のレベルに合わせているのは資本主義だから仕方がない。それにしても本質からそれた話に気分が悪くなる。こんなのは本屋でパラパラすればよい。僕は掃きだめに鶴がいた気がした。

MAZDAでかしたじゃないか。一時景気が悪かったとき、一台買っても二台買っても三台買っても100万と言って売っていたととーちゃんから聞いた。

ロータリーはカビの生えた技術だ。大体いつの発想だと思っている。あとはこそこそ改良していくだけじゃないか。

エンジンの正道をいくレシプロで革命をやるからすごい。 マツダは燃費を従来比で15%も高めることに成功した。同社は「(圧縮比が高く、原理的にガソリンエンジンよりも高効率な)現行のディーゼルエンジン並み」との表現にとどめるが、SKYACTIV-Gの最大熱効率は38~39%程度とみられ、現行の高効率と言われるガソリンエンジンから一気に5~6ポイントも高めたようだ。

圧縮比は14に高められている。ノッキングとの戦いはいかほどであったか。シリンダーヘッドの形状はコンピューターシュミレーションなんかでできるはずない。発想と絶望と再起のカット&トライだったであろう。最大トルクを4000で出しているのにも真面目さを感じる。馬力とトルクを混同しているバカを対象に売る以上高回転高出力のエンジンを作らないわけにはいかなかっただろう。が、よくぞ4000に抑えた。出足のいい運転しやすいねばりのあるエンジンができたはずだ。ロングストロークもよくやった。技術者念願のエンジンができた。日本人はいいクルマに乗ったことがある人が少ない。もう気違いじみたオーバースクエアのエンジンはやめよう。

                                日経ものづくり12月号から一部の数字は引用しました

飛燕は帰還した。仇は取ったぞ。

2011年12月29日 | 東洋歴史
東京をナパームの紅蓮の炎で焼いたB29に対し、千葉沖で空中待機していた飛燕に攻撃命令が出た。飛燕の無線機は防空司令部の雑音にかき消されそうな声を聞いた。・・・突入セヨ・・・ ナパームを落としたB29は本来邀撃機の餌食であるはずだ。雲に浮かんだ風船のように揺れた。

ところが、昭和20年に入るともう日本にはそんな飛行機を落とす邀撃機すら量産する力は残っていなかった。防空司令部はいつも威勢がいい。全機突入せよ。ところがわが軍は全機といっても6機だ。B29は100機の大群だ。全機で体当たりしても大勢に影響はない。

しかし今はそんな足し算引き算をしているときか。100機対6機が無謀というのはたやすい。何をぬかすか。地上を見よ。原爆以上の人数が焼き殺されている。

飛燕よ。20万人の仇をとれ。機体不調ですでに2機が引き返している。もはや4機しかない。

真木少尉は冷静だった。敵編隊の中の遅れた一機に狙いを定めた。12.7と20ミリがB29に吸い込まれていく。だが敵機からも狂ったように撃ってくる。オイルパイプをやられた。足元はオイルでビショビショになった。血とオイルでエルロンが思うように動かせない。

真木少尉の飛燕のエンジンは焼きつき寸前だったが撃つだけ撃って後は体当たりと決めていた。B29は3回目の斉射をうけたときその巨体を失速しそうなほど中空に向けた。

真木少尉は冷静だった。のたうつ巨鯨の間をすりぬけ戦果を確認した。巨鯨は炎の血を吐いていた。

その後のB29がどうなったかは確認していない。

帰還した飛燕は3機だった。そのうち一機は着陸に失敗して大破した。その時の上官の言葉が忘れられなかった。

「大事な飛行機を大破させおって。それならなぜ体当たりをしてこなかったのか。」

死線を越えて戦っているのに飛行機の心配が先だというのか。これほど戦ってもまだ不足なのか。

数日後その機の搭乗員だった軍曹は自殺した。


僕の戦争物シリーズを終わります。今回奇跡的にご存命のパイロットのお話をうかがうことができましたがご高齢のためお話がよくわからないところがありました。だんだん戦争が遠くなっていきますね。平和のためにこそ頑張った爺ちゃんたちの戦いを僕らは胸に刻むべきだと思います。

ヒロシマ照らす平和の灯

2011年12月29日 | 東洋歴史
原爆犠牲者を悼み、平和を願う灯篭流しが6日夕、広島市中区の原爆ドーム前を流れる元安川であった。
     <朝日新聞2011年8月7日>

原爆の犠牲になったというなら津波の犠牲になったというのと同じに単なる大きなアクシデントだと主張していることになる。

なぜここにアメリカの一言が出て来ないんだ。

当時、疲弊しきった日本が敗戦の意思を固めたとき、アメリカはすでに原爆投下の意思を固めていた。

非戦闘員を殺されておいて何が原爆犠牲者だ。ダウンしたボクサーを執拗に殴りつづけて死亡させたのではないか。

新聞は「米軍によるジェノサイド(大量虐殺)の犠牲者を悼む日」だとなぜ書かない。

灯篭流しで事の真相まで流してはならぬ。

原爆で数十万人が死んだ。たしかにそれはそうだが、そこで思考停止せず、だれのせいで、なぜ、と考えを進めて欲しいと思う。


沖縄では多くの民間人が米軍の機銃掃射の前に倒れた。このとき、日本の民間人を射殺したのを機関銃のせいにするようなもんだ。

「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(乱暴な支那を懲らしめましょう)がまたまたおさかんだ

2011年12月29日 | 東洋歴史
もうひとつスローガンがあった。「バスに乗り遅れるな」
そのバスは王道楽土の満州行きだ。撫順の石炭を液化するんだ。それはもうすぐ可能になる。そしたら我が帝国は無限の石油を手に入れるぞ。

こういうのを権力のプロパガンダという。それから80年たった今ですら石炭の液化は成功してない。バカをだますには十分だがよくもまあこんな大ウソが付けたもんだ。

さすがに現代では暴支膺懲を唱えても、大陸に出かけて行こうという右翼は見当たらない。アメリカに遠慮しているのかな。

そんな跳ねあがりはありがた迷惑だ。大陸の日本企業が中国現地からすいあげる富の方が、貧乏な中国人と貧乏な日本人がおこすトラブルによる損失というマイナスよりはるかに大きい。

日本の貿易統計を見れば一目瞭然だ。

もちろん国内のトラブルもごめんこうむりたいが、断交してまでとかいう意見は経済の実情を知らないたわごとだ。

今断交したら大変なことになるぞ。震災がGDPをいくら押し下げたのかな。中国への貿易依存度はいくらかな。震災どころではない不況が約束されたようなもんだ。

そこらのコソ泥や強盗が目立つからそれで中国人のイメージができあがっている。

日本の中小企業に低賃金で働く中国人を供給するためにとられた政策が失敗して不法滞在の温床になったいる。売春や強盗に走るやつも多いが、それは水際できちんとした政策をとらなかった菅の責任だ。

暴支膺懲を叫ぶ人たちは国内における中国人問題の解決を探るにとどまらず国際的に断交をすべきだというのが主張の要旨であるようだ。

いったい断交の意味がわかっているのか。国交やめるだけではないぞ。係争中の領土がある以上そこで武力行使がおこるのは必然だ。

まるでノモンハン前夜だ。ノモンハン以降日本はどうなったか。

錦江湾(鹿児島)に帝国海軍の精鋭が集結した

2011年12月29日 | 東洋歴史
九七艦攻、九九艦爆、ゼロ戦が合わせて数百機、錦江湾に集結した。鹿児島の人たちは何事かと表に出てみた。すると頭上十数メートルの超低空を帝国海軍の海軍機が飛んでいた。

ひとびとは10000CCのエンジンが放つ焼けたオイルのにおいを感じた。

空の色が変わるほどの飛行機が錦江湾を行ったり来たりした。日本にこんなたくさんの飛行機があったのか。薩摩の人は率直にそう感じた。

人々が振る日の丸の小旗に戦闘機は翼を振ってこたえた。

急降下を繰り返したり低空を飛んで雷撃の演習を行うものもあった。最も驚いたのは漁民だ。中には漁を中断するものさえ出てきた。

人それぞれさまざまの反応を示したが共通して思ったことがあった。

これはどえらいことが始まるぞ。

錦江湾は真珠湾にそっくりだった。海軍は防諜の重要性より搭乗員の習熟に力を入れることにした。

一撃必殺。

僕は示現流の兵法所を訪ねてきわめて合理的な兵法であることを知った。抜即斬。真珠湾攻撃と同じだ。アメリカは不意打ちだと女々しいことを今も言い続けている。

アメちゃんよ。不意打ちでない戦争がどこにあったの。
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Posted at 2011/08/02 10:00:38

日本赤十字社を始めた佐野常民記念館に行って来た

2011年12月29日 | 東洋歴史

壁の十字は赤色ではなかったが十字のデザインだった。

佐賀市川副町早津江446-1 TEL0952-34-9455 月曜休館

日本の赤十字を作った人が佐賀県の出身とは佐賀県民ももっと誇ってよい。

威勢のいい明治維新の功労者たちはいまだにちやほやされるが、殺さない側に立った人にも光を当てるべきだろう。

1877年の西南戦争に際し、常民は敵味方の区別なく負傷者を救護する「博愛社」を設立し10年後「日本赤十字社」と改称し常民は初代社長に就任した。<佐野常民記念館パンフレットより>