か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

見よ!! 大日本帝国海軍戦闘機 震電 の勇姿を!!

2011年12月27日 | 東洋歴史
 震電は九州飛行機が海軍に命じられ製作しました。空襲がひどくなったので工場疎開することになり、各地でパーツごとに量産する体制が整えられました。昭和20年にはいってそんなことしても遅すぎるにもほどがあるって!

試験飛行はパイロットが離陸のとき機首をあげすぎたのでペラが地面をこすってしまいました。2回目は補助輪をとりつけてうまくいったそうです。なんか補助輪とか子供用自転車みたい。

武装は30ミリ4門の予定でした。パイロットによるとべつの飛行機でですが、30ミリ1門でも発射のときは機体が一瞬後ろに下がる気がしたと言ってました。格闘戦に自信を持つ歴戦の飛行機乗りにはあまり食指をそそるものではなかったようです。

30ミリ!!  4門!!

何がなんでもB29を落としてやるという気合が感じられます。

僕が興味をそそられるのは、日本機らしくない人命重視の姿勢です。パイロットが緊急脱出をはかったとき後ろのペラにあたってしまう危険性があったので、脱出と連動してペラが爆破されるようになっていました。

さらに海上に不時着したときを考えゴムボートを格納する予定でした。このころになると海軍もてんこ盛りの要求をしなくなったので、ある程度気がねなく設計できたようです。もちろんパイロットの背中には防弾鋼板がありました。

なぜ後ろにプロペラを持ってきたかというと、お偉い海軍さんの要求であったことが主たる要因ですが、この設計士がそれより何年か前にべつの試作機を作ったところ、試験飛行のときプロペラだけが飛んで行くとう事故があってパイロットが殉職したそうです。そのことがずっと心に引っかかっていたので、いつかはエンテ型(後ろにペラがある)を作りたいと思っていたようです。

なぜそんなことまで知っているのかって?

実はその設計士は僕のじっちゃんです。

左上にB29に見立てた飛行機が見えますか。タイミングよく飛んできました。
 
 
 
 
 
 

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