か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

外交かくあるべし 佐藤尚武

2012年11月17日 | 東洋歴史

佐賀県はその人口に比しすさまじい数の偉人を出している。僕が最も尊敬する外交官に佐藤尚武がいる。佐藤は生まれは大阪だが佐賀市内の勧興小学校に通っている。大学は現一橋大学の出身だ。

松岡洋右は日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。佐藤は一時彼のもとで書記官として働いている。

有名な国際連盟脱退の場面ではニュース映画に佐藤の姿も映っている。この脱退で帝国は東洋の孤島となったのだが国民は「堂々の退場」という字句に狂喜乱舞した。この後の歴史に判断とか選択というもののはいりこむ余地はない。ただ狂った石が坂道を転がり落ちたのだ。

松岡の気が狂った大陸拡張政策は軍部や国民の支持をうけたが佐藤は一外交官として戦争回避に全力を尽くした。関東軍は満州分離ひいては傀儡満州独立を企図していたので、佐藤の平和外交と対立した。

軍、右翼、狂気国民はさかんに満州は日本の生命線であると喧伝した。「バスに乗り遅れるな」、北進してソ連をたたけ。威勢のいい言葉が蔓延していたが降伏するときはそのソ連に仲介を頼もうとした。哀れさがあふれる大本営の無定見だ。

道は一本道ではなかったのだ。巷の右翼が絶叫していたがそう事は単純ではなかった。帝国はいくらでも選択肢を持っていた。低能達にはその道が見えようもなかった。

日華貿易協会経済使節団の一員として佐藤は蒋介石とも会談している。なんとか軍部との衝突を避けるための実績を積もうとしたのだが一枚岩でない日本の態度に支那は不信をつのらせる。このとき、話のまとめ方、運ぶべき方向、力点、譲歩すべき点、新たなイシューの位置づけなどに佐藤の評価は高い。

日本は軍国主義者ばかりではなかったのだ。ただ皇国臣民は軍国の臣民であり全員が死ぬ気でいたしそれが美徳だった。つまりそれが多数だった。つまりそれが民主主義だった。一部の優れた理性の持ち主以外は帝国がただのがれきになるまで狂い続けた。

大本営は敗戦が確実となると佐藤をソビエト大使にする。終戦工作を頼んだのだ。じゃあ今までなぜ非国民扱いをしたのか。都合のいい時だけ利用して、と僕なら思うのだが数段頭のいい人間は振る舞いもスマートだ。

佐藤はソビエトが参戦の意思を固めていることをいくつかの彼の情報網から判断しソビエトに和平の仲介を頼むことはいかに馬鹿げているか何度も外務省に緊急電を打つ。本省からの返電には和平交渉を進めよと繰り返されるばかりであった。

松岡は開戦二日後に「欣喜雀躍」したと本人が書きのこしている。アメリカ生活の長い彼でもそうだったのだ。700対1の生産力でどうやって勝つのか。国民はどうでもだまされる、どんな熱狂でもする。その時正しい冷や水をさせるのがより多く理性を磨いた人間の務めだ。

国際連盟時代、佐藤は少数民族問題で着実に実績をあげていた。日本は常任理事国だ。連盟内での彼の評価は高かったが上司の松岡が脱退だというとハイというほかなくさっと荷物をまとめ帰国した。

可能性のないソビエトとの和平交渉もやれと言われれば全力でモロトフ外相と交渉した。ただ全く可能性がないということを東郷重徳外相に対して諭すように機密電を送っている。

「すでに抗戦力を失ひたる将兵および我が国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷(国家)は救はるべくもあらず。七千万民草枯れて上(天皇)御一人安泰たるを得べきや。(中略)過去の惰性にて抵抗を続けおる現状を速やかに終止し、以て国家滅亡の一歩手前にてこれをくい止め、七千万同胞の塗炭の苦しみを救い、民族の生存を保持せんことをのみ念願す。」

戦時中にしかも外交官がこういうことを言うことは場合によっては致命的な発言になることを意味した。

Posted at 2012/01/26

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