か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

李承晩は困ったおじさんだ。

2011年12月29日 | 韓国

北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し、半島南端の釜山にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい。負け戦の時は誰よりも早く逃げ出し、勝ち戦の時は誰よりも目立とうとして、先頭に立った。首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつあるときは、避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破させ、一方で自分は安全な場所に急ぐために米軍基地に逃げ込んでいた。仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつあるときは、国連軍としての規律を無視して、韓国軍部隊を勝手にソウルに先行させた。韓国から北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、マッカーサー司令官の意図というよりは、李承晩の独断専行が大きい。

在任期間中に行われた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島の編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。権威主義政権として基盤の脆弱な李承晩が、このような自己正当化の論理に頼った面も強い。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。今日でも、これらの政策による弊害が大きく、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。

                          >Wikipedia-李承晩

敵の手に乗って江戸時代の地図までさかのぼり竹島の領有権を主張する人がいるが話のポイントがずれるだけだ。

韓国はそれまで全く領有権を主張していなかった絶海の孤島にいきなり線を引き自国に組み込んだ。戦後の話だ。日本政府もだらしがない。李承晩ラインを侵犯したとして日本漁民が射殺されている。日本は負け犬の遠吠えしかできてない。

彼、李承晩は反日反共に凝り固まっていたために、日本から援助をもらうことに潔しとしなかった。50年代の韓国の経済停滞の原因の一つだ。

素晴らしい思想家はいくらでもいたのに彼が気に入らないものは、暗殺、拷問による廃人化、誘拐、投獄により政敵を退け自らはアメリカの傀儡として地位を盤石なものとした。

彼の独裁強権政治や朝鮮戦争による混乱をきらった韓国国民は、玄界灘を密航して日本に来た。日本により強制連行されてやむなく日本に住むようになったとか言いやがる。連行をねつ造し被害者づらしやがる。年代が合わんぞ。

親日派処分についても言いたいことがある。そもそも第二次世界大戦中、親日派でなかった韓国人がいたのか。とりわけ優れた教養人はみな日本語を流ちょうに話し、例えば京城大学を出て総督府に勤めた。

李承晩はこういった行政能力にたけた人間を親日派として一掃したため社会は混乱した。

李承晩の最後はさみしい。ハワイに亡命することになるが見送りは一人だった。


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