大学の教員というのは、自分に配当されたコマ(授業)さえきちんとこなしていればだれも文句は言わない。教員は偏屈モノが多いので、一言でも文句を言おうものなら速攻で辞める人ばかりだ。
ところが、学校というゆりかごに汲汲としがみついている小中学校の教員はそうではない。能力がなくてほかに拾ってくれるところがない人は、かわいそうなほど保守的になる。保守的になった人は排他的になる。コネでなった低級公務員などはなおさらそうだ。
無目的にみずからすすんで働き蜂になることに生きがいを見ている。そしてたいてい脳に異常をきたし鬱病になる。
兎小屋にすむ日本の労働者が批判されて久しいが、今やその兎小屋すら借りものだ。借り物の狭い部屋から出てコンビニのおにぎりを立ち食いする。重税低賃金にあえぎガソリン代もなくなる。ところがこの低能どもは貧乏になれているのか、現状改善の努力をしない。
ただ目の前のラーメンとパチンコとオフ会とグルメとガキの話しか関心がない。したがって、ことの前後を洞察する力が育ってないので判断が即物的だ。日比谷焼打ち事件はまた起きるな。
尖閣で妥協でもしようものなら焼き打ちやテロは必ず起きる。人々の教養に、倫理性に、世界史的視野に明治時代と何の相違があるか。(尖閣は中国に渡せと言ってないでしょ。発作起こさないでね。)
やっと松山の話。タレントのソニンさんの出たところだ。校長さんとお話しする機会を得た。僕がDPRK(北朝鮮)の独裁体制を批判すると思ってずいぶん警戒されていたようだ。とんでもない。日本のように、まともな日本語も書けない烏合の衆が目先だけを考えた投票をするとか、スポーツ選手に投票するとかするより独裁は優れた政治体制だ。
柔道家が間違えて国会議員になるより金正恩の方が能力がある。彼は戦略家だ。
はたして、本当に日本の批判に終始しているのか、この初中級学校から教科書をかりて翻訳をした。
僕が驚いたのは金日成、金正日父子の神格化された表現は少なくとも記載されているだろうと思ったが、なかった。むしろ、日本の教科書において、日本の政権批判を避ける文科省の検定制度の方が露骨だった。
日本の教科書において、ちょうど金日成がカリスマ性を必要としたように明治天皇もカリスマ性で包まれて書かれている。天皇は永劫に無謬の神とされた。それにより臣民すなはちわれら国民の受けた被害はきわめて甚大だ。
唯物史観と言うとわけわからず反共に凝り固まった貧乏爺が痙攣をおこす。話の内容で判断しなさい。日本の教科書に庶民の登場はない。逆に、庶民の革命の連続が世の中を変えてきたというマルクス歴史学者も先生も今やいない。日本の教科書は上手にお茶を濁した。ことがらの羅列が歴史とされている。
一方で、DPRKの教科書には庶民が登場する割合がきわめて高く時代を実感しやすかった。
オマケだが日本の植民地支配についても記述は少なく、ほとんど日本の教科書と同じ分量だった。最後に「弱い国は強い国に押しつぶされるものだ。」と書いてあったのは僕の心臓にくぎをさす一言だった。